4《ポテトサラダ》
好きな場面ではなかったので息切れしながら書き進めましたが、意外と可愛い話に仕上がり、
浮かんだ映像が自分でも簡単に描けそうだった(←思い違いでした)ので挿絵にしてつけてみました。
4《ポテトサラダ》
私は抜群に絵が上手いんですよ。通った小学校や中学校では伝説になるくらいに。ご存じでしたか、とヨシユキがにこやかに頬杖をついて話すと、知らないわ、と台所でテーブルの向かいに座ったいちはは、幼児のごとき雇い主の自慢をほほえんで受け流した。パートタイマー家政婦はボウルを二つ並べて、豌豆のさやから筋をとっているところである。
帯の前には手拭いを挟んで汚れ防止、着物の袖はたすき掛けでまとめてある。
水仕事に荒れたいちはの手はさらさらと白く、洗いざらしの木綿の布巾のように清潔そうで、豆の黄緑色との対比が美しかった。今日のいちはの着物の赤茶色にも、春を先取りした野菜の色が映えている。
「いちはさん、豌豆が似合いますね」
ヨシユキがなんの説明もなく云うので、いちはは褒められたと思わずただ、そうですか、とやはり流した。肌にファンデーションのひと塗りもなく、髪もただ後ろで1つに束ねている作業モードの現在、自分へ向けられる褒め言葉には鈍い。
そこへ庭の方角で何か音がしたかと思うと、ドタドタと家の中を無造作な足音が近づいてきた。
身構えるいちはと、くつろいだ姿勢のままのヨシユキが等しく台所の入り口に視線を向けると、人混みに揉まれたあとのような荒んだ気配のサトウメグムが現れた。よれたブレザーの制服姿である。
憮然と室内を見回して、云った。
「誰だよ、この着物女」
「久々ですね、メグム君。卒業式の帰りですか、制服のボタンが一つもありませんね」
「だから誰?」
「いちはさんです。週に二回家事をお願いしているんです」
「ふうん、部屋が片付いてるときがあるのこの人のせいか。この前俺が来たときはいなかったね。ところでなんか飲み物ない?」
ずかずかと勝手に冷蔵庫を開けて物色を始めるメグムの身体から、かすかに花の香りが流れた。苦みの交じる本物の花の香りだ。
「メグム君、縁側からでなく玄関から入ってくださいとお願いしたはずです」
「面倒だもん。庭からなら鍵開いてること多いし。これ貰うよ」
冷蔵庫の扉の陰からピンク色の炭酸飲料の缶を掲げる。
「お金払ってください」
「縁側に花束置いてきた。それと物々交換してよ」
どうやら香りの元は置き去りにした花束らしい。
「それは君への祝いの花でしょう」
「いいじゃん。男が花持って帰ってどうすんの」
メグムは距離を取るように入口付近へ戻ると、柱に肩を預けて炭酸飲料の缶を開けた。短く空気の抜ける音と共に、人工的な甘い匂いが台所に広がった。
「メグム君、いちはさんに挨拶してください。失礼ですよ」
「なんだか自分のテリトリー荒らされたようで気分悪いんだよ」
「ここは私と叔父のテリトリーですよ、メグム君」
「あーあ、この家、人の気配ないとこが気楽で良かったのに。ふらっと立ち寄って時間潰せてさ」
「いつも私はいましたが」
なおも続きそうな二人のやりとりの様子を窺っていたいちはが、私は、と口を開いた。
「家政婦の空木原いちはです。初めまして。あなたも挨拶したらどうですか」
メグムはいちはを一瞥し、特にこれといった表情のない、しかし喉の奥になにかを押しとどめたような女の顔を確認して、顎を上げた。
「……だよ、この年増」
いちはが生温かいまなざしを投げかけた。
「歳をとることが悪いみたいな云い方をするのね」
「だって若いもん。あんたなんて、僕より五つは年上だろ。もっと上?」
「二十六よ」
「八つも年上じゃないか。ババア」
名を呼んで強い調子でヨシユキが窘めるがメグムは気に留めない。いちはは豌豆の筋を取り終えて、取り残しがないかボウルの莢をかき混ぜる。
「私にだって、あなたと同じ年齢だったことはあるのよ」
「そんなこと云いだすのが年寄りの証拠なんだよ」
「あなたはいつ死ぬ予定なの」
不穏な言葉にヨシユキがいちはをふり向く。
「いま自殺しないなら、十九歳になるのよ? 次は二十歳。何歳が格好いいと思ってるの?」
メグムが顔を歪める。
「誰もがなんの努力もなしに持つことができて、毎年減っていくばかりのものに価値があるの? 皆が同じように持つものを掲げて優劣ってなに?」
ねえ、といちはの唇が動いた。ヨシユキが目を丸くして凝視している。
「可能性があるから? 若さの可能性なんて、どこにでもいるありふれた大人になる結末がまだ来ていないだけのことでしょう」
「俺はならないよ」
「そう……仮にあなたが理想の人間になれるとして、いまがその途中だとして。それなら価値があるのは将来の年齢を重ねた自分であって、いまの若いあなたではない、ということにならないかしら」
メグムは首を左に傾げ、ゆっくりと右にも傾げ、最後に仰向いてぼんやり返す。
「……ええと、『いまの俺が一番輝いてる?』ほら、制服のボタンも下級生に取られて無くなったわけだし」
ボウルを二つ持っていちはが立ち上がる。ひとつにラップをかけて冷蔵庫に片付け、もうひとつの中身を生ゴミ入れに放る。空になった容器を洗い流しながら続けた。
「あなたが選ぶ女の子はそのボタンをもらっていったような若い子なのね。若いだけの価値しかなくて、いつか価値がなくなる人間をパートナーに選ぶ人間があなたなのね」
手を拭いながらふり返ったいちははヨシユキに向き直ってにこりとする。
「ヨシユキさん、明日の下拵えが終わったので帰りますね」
いちはが玄関で頭を下げて引き揚げると、上がり框には指の爪を噛む猫背の男とよれたブレザーの男子高校生が残された。圧力を横から感じた男子高校生が云った。
「なんで俺を恨みがましい目で見てんの」
猫背の男はくるりと背を向け、家の奥へ戻っていく。
「おーい、伝説のおとこー」
溜息を吐くようにヨシユキが云う。
「……いちはさんを怒らせましたね。私は彼女を怒らせたことがないのに、たった数分で」
いちはは「明日の下拵え」と云ったが、家政婦業は週に二回の通いで連日で来ることはない。早めに切り上げるので、明日また来るということなのだろう。
「ヨシユキさんが怒らせたわけじゃないから、俺が顔を合せなきゃ大丈夫だろ」
「……」
云いたいことを飲み込む。胸でもやもやするものを取り出したところでメグムには伝わらないし、彼には価値のない事柄だ。いつも笑顔で当たり障りない対応をしていたいちはが、初めて本音らしきものを見せたのが初対面の彼だったというだけの。
メグムが玄関をふり返る。
「云ってることも変だったけど、格好も変な人だね。家事労働するのにわざわざ着物着る? 昭和のコスプレとかかな、家族は何も云わないの」
「いちはさんにご家族はいらっしゃいませんよ」
そっけなく訂正すると、口をへの字にメグムがヨシユキに目をやる。
「高校生の頃にお母様が亡くなられていて、それで残っていた血縁者は最後だったそうです」
メグムは言葉にならない低い声を漏らすと、缶ジュースの残りを一気に呷った。
「なんだよ、それ」
舌打ちが聞こえた。
家政婦として新しい料理を作って出すとき、いちははなるべく雇い主に味見をしてもらうことにしている。自分では上手く出来たと思っても、個人の好みで良い顔をされないことがあるからだ。
第一の勤め先に限って云えば、出汁の種類や味の濃さよりも、甘味と塩味のバランスが重要で、野菜の煮崩れや固く仕上がってしまった肉などには寛容だった。それに柚子や春菊など各人の苦手な食材を抜くこと。
とはいえ勤め始めて八年ほどになる第一の勤め先では、雇い主家族三人の味の好みは把握しているので機会はあまりない。
新規の仕事先では確認することが多かった。本来家庭料理というものは家族の人数が増えるにつれ、それぞれの好き嫌いの最小公約数を探すことになりレシピが制限されるものだ。
その点この家は一人分なので気が楽かと思ったのだが。
長葱や豆腐やマヨネーズを使ってほしいと云う。好きなものを取り入れるのは問題ない。苦手なものは気を使う。肉と味噌汁……と云ったあとで雇い主に妙な間があった。おそらく他にも数多くあって遠慮したのだろう。
まあ、料理を出す内に順次相手の反応から苦手なものを覚えれば良いかとすませた。
慣れないうちは片付けなどを行いつつ食事の間も付き添って、好みの煮物の固さや味の具合を尋ねていた。
気になるのはこちらの雇い主が食卓に並べた一汁三菜を満足そうに口に運ぶものの、多分美味しいと思って食べていないことだ。
健康のために箸を進めている感じがする。その意味では満足しているのだろう。
いちはは卵焼きをこれまで四度味付けを変えて出した。甘めの味付け、しょっぱい味付け、醤油の味付け、卵味とでも表現すべき淡い味付け、反応は全て同じだった。
茶色っぽく焼きあがる醤油味以外、区別がついていたのかもわからない。
そんなある日、小皿に載せてさしだした味見の一口を食べて、ヨシユキはまばたきした。
「美味しいです。なんという料理ですか」
流し場に並んで立ついちはは菜箸を持ったまま視線を落とし、手元のボウルの中の食材を確認して答えた。
「ポテトサラダです」
既に調理台には菜の花の煮浸しや切り干し大根の炒め煮、人参とセロリのピクルスなどの作り置きのおかずがタッパーに入って並んでいる。最後のひとつが味見したそれだった。
変な顔をされた。
「……別の料理に見えますが」
「茹でたジャガイモに、ハムと生玉葱と塩胡椒とマヨネーズが材料です」
「このスライスされた野菜がジャガイモですか?」
「ええ、歯応えが残るように熱を通してあります」
覗き込んだヨシユキの顔の側へボウルを持ち上げる。
「潰していませんし、胡瓜も入っていませんね」
「でも、ポテトでサラダですから」
「珍しい料理を作るんですね。ジャガイモがショリショリしていてすごく良い食感です。胡椒は粗挽きで噛むと香りが広がりますし、生の玉葱が辛くて苦いです。でもそれがマヨネーズのアクセントになっていて美味しいです」
「食べたことありませんか」
「はい」
「本当に?」
「何故、重ねて確認をされるんですか」
「これ、スーパー沢田屋で売っているお惣菜を真似たものです」
「一番近いスーパーマーケットですね」
よそごとのような顔に、いちはは複雑な笑みを浮かべた。
「近くの店で安く買えるお惣菜も食べたことないなんて、本当に手をかけて育てられたんですねえ」
時間がないとき、料理する気分がのらないとき、家事の負担なく食べられるのがお惣菜パックだ。
しかし彼が雪に埋もれていた日、手にしたスーパー沢田屋のレジ袋にはカップ麺もお惣菜パックも入っていなかった。作れないのにキャベツや油揚げなどの材料ばかり。
他人の家でも台所に立てば調味料や道具の数で、そこを使う人間が料理好きかどうかわかる。
スパイスラックに、ナツメグ、シナモン、ガラムマサラ。
白砂糖の他に、きび砂糖、てんさい糖、グラニュー糖。
調理道具に、ポテトライサー、ハンドブレンダー、料理用温度計。
一からの手作りにこだわっているわけでもないのだろう。手間のかからないめんつゆに顆粒だしも置いてあった、それでも。
出来合いのものを買って手軽に食事を済ませるという感覚が彼にはない。ごく当たり前に叔父が自分のために作る料理を食べ続けてきたのだ。
私が子供の頃はもっとありふれている。
自分たちの食事を作る時間がとれないときの母は、レジ袋から食卓にお惣菜パックを並べていた。このポテトサラダを皿に移し替えることもなく、母と分け合って食べたのは別に寂しい思い出でもないのだけれど。
「ところで、ごめんなさい。さっき蓋の開け方を間違えて、舞茸のクリームパスタに粗挽き胡椒が大量に入ってしまって……材料を買い直して弁償します」
申し訳なさそうないちは越しに、首を伸ばしたヨシユキがコンロを見ると、フライパンの中に黒い粒の目立つとろりとした白いパスタがうねっている。
作り置きのおかずではなく、ヨシユキの昼食用だったのだろう。
台所には炒めたニンニクと茸の香ばしさが満ちていて、失敗した気配など全くないのだが。
ヨシユキは味見に呼ばれるまで、テーブルについて複数のおかずを調理していくいちはの背中を見ていたが、特にフライパンひとつでパスタを仕上げていく様子は手際が良かったと思う。
家で一番大きなフライパンで湯を沸かし、乾燥パスタを横に入れ、どうやら茹で時間を何分か残して湯のほとんどを捨て、塩やチューブ入りのニンニクに味の素、舞茸を手で裂きながら投入し、少し取り分けてあった茹で汁を戻し入れながら茹で炒めて、最後に生クリームと胡椒を入れた――はずだ。
正直、湯をフライパンで沸かすのを見て驚いたが、菜箸で手早くかき混ぜる手首の動きは慣れたものであったし、あらかじめ必要な調味料を脇に集めて片手でとっていた。
小瓶をとったあとピタリと動きを止め、なにやら拾い上げているような動きをした。
拾い上げたものをボウルに入れ……それが味見したポテトサラダなのだが。
ああ、あの時だったのか。
「食べられないほどですか」
「……ぎりぎり、くらいですね。辛いもの好きなら平気でしょうけれど、胃が熱くなって毛穴が開く感じがします。胡椒の粒でガサガサですし」
困ったように眉を下げるいちはを物珍しそうに見て、ヨシユキはふとつぶやいた。
「メグム君が今日あたり来るような気がしているのですが」
首をかしげるいちはに、高校生くらいの男子なら激辛味は好きですよね、と云う。
「……見た目で気づきますよ」
「悪戯のつもりはありません。来客へのもてなしに使えるなら弁償は必要ありません」
「私が作ったものを食べないでしょう」
「いちはさんが思っていらっしゃるより良い意味で雑な子です、メグム君は」
果たして二十分後、いちはが作り直した昼食をヨシユキが食べているところへ予測通りにサトウメグムは現れ、時間経過で固まったパスタをさし出してみるとレンジで温め直し、焼きそばのように大口ですすって「別にフツーに食えるけど?」と云った。
そして今日のいちはの見送りを終えた玄関でヨシユキが云った。
「今日はメグム君、いちはさんにつっかかりませんでしたね」
自分の姿を視界に認めたいちはが思い切り顔をしかめたことを思い返しつつ、メグムは答えた。
「用がないだけだよ」
「前は用があったんですか」
舌打ちが聞こえる。
「……だって、下手なこと云えないじゃん。いないんだろ、あの人。嫌なことがあったとき、家に帰ってさ、今日こんなムカつくこと云われた、すげー嫌な奴がいた、とか。聞いて笑ったり一緒に怒ったりしてくれる相手がさ」
「なるほど」
「なにがなるほど、なんだよ」
「考えたことがなかったので。家族にそんな役割があるのだと」
私もこれから同じ立場になるのだ、と思った。