3《サトウメグム》
3《サトウメグム》
洗濯機が衣服から水を抜くために回転する低い音が、壁越しに台所まで響いていた。パジャマ姿のヨシユキは、包丁をにぎる高校生の調理実習中のような後ろ姿を椅子にかけて眺めた。沈黙が気まずかったのか、高校生が話しかけた。
「ヨシユキさんが雪被ってた場所さ、実は密かに家族のお迎え待ちスポットだって知ってる?」
「どうしてでしょうか」
「パチンコ店があそこからいくらか離れた所にあるだろ? 雪の日にまでパチンコがしたくて車で出かけちゃった自営業のオジサンがさ、数時間後に駐車場で雪を被った車にキーを差し込もうとすると、雪で凍りついて入らないわけ。で、仕方なく家族に車で迎えに来てほしいと連絡するんだけど、仕事をサボってパチンコしてたことは隠したい。奥さんや一人息子に馬鹿にされるのは目に見えているから、パチンコ店から離れるために歩いて、あのゴミ置き場にたどり着くわけ。あの辺は他に風よけになるような建物がないだろ?」
「誰か知り合いの話ですか?」
「ん、俺の親父の話。でもすぐにばれる。ゴミ置き場に用があるわけないんだから」
緑の野菜を刻む小気味良い音が二人の間を流れる。蒸気が白い粒になって空気中に温かに漂っている。
不自然な間をあけて、ヨシユキが云う。
「嘘ですね。あなたにパチンコ好きの自営業の父親はいません。一人っ子でもない。弟さんがいるはずです」
「……俺ってそんな風に見えマスか」
「サトウメグム」
ナイフで切り離すように唐突に、そして機械のような単調さでヨシユキが云った。
「私と小学校が一緒ですよね、サトウ君」
目をむいて高校生がふり返る。その相手を射抜くような驚愕の色が、たちまち理性によって抑え込まれ、嘘で明るく塗り替えられるのをヨシユキは間近で見物した。
「ナニ云ってんの、ヨシユキさん。まだ云ってなかったけど、俺の名字はタカハシだよ。名前もメグムじゃない」
ヨシユキはぴたりと視線を相手の顔にはりつけた。
「いいえ。あなたはサトウメグム君です。小学校の全校行事で一度、同じグループになりました」
「小学校? いったい、何年前の話なわけ。そんなの覚えてるわけないだろ?」
「覚えています。新入生の歓迎行事の一つです。教師が全校生徒を六、七人ずつのグループに分けました。二年生から六年生までの五、六人が、一人の新入生を担当して、当日までに手作りのプレゼントを用意して歓迎するんです。二年生がお祝いのメダルの形を考えて、三年生が色画用紙を切り抜いてそれを作る。四年生がメダルの裏にメッセージを入れて、五年生がそれに首にかけるためのリボンをつけた。当日はグループごとにわかれて、教室で学習机を囲んでクッキーを食べました。あなたは首にかけられたメダルをつまんで裏返し、マジックペンで書かれたありふれた歓迎のメッセージをつぶやくように読み上げていました。私はそのメダルをあなたの首にかけた六年生です」
響いていた洗濯機の音が次第に小さくなり、キュッと鳴って止まった。そして再び水の注がれる音が聞こえてくる。
ヨシユキは続けた。
「四年生の女の子が書いたメッセージには、悪気はなかったのでしょうけれど、まだ一年生では読めないはずの漢字が混じっていました。それをあなたは難なく読み上げた。私がしっかりしていると褒めると、あなたは自分の父親は教師だと胸を張った。小さな弟もいるから、自分はしっかりしなくてはならないのだと」
淡々と話すヨシユキを、サトウメグムと呼ばれた高校生が冷たく見すえた。
「どうしてそんなことを覚えているわけ。気持ち悪いよ、ヨシユキさん」
わずかな沈黙が降りた。
「……たまに云われます。でも、あなたも私を覚えていたから声をかけたんでしょう?」
ヨシユキは一度伏せた視線を探るように向けた。サトウメグムは舌打ちする。
「一緒にするなよ。俺は違うよ。たった半日を義理で一緒に過ごしただけの相手を、他に接点もないのに十年近く先まで覚えている記憶力なんてない。俺がアンタを覚えているのと、アンタが俺を覚えているのは、全然理由が違う。有名だっただろ、ヨシユキさん。スポーツでも勉強でも絵でも、神童とか天才とか騒がれて。小学校でも中学校でも記録や伝説が……笑うよ、伝説だよ? それが残ってたからこっちは記憶に刻まれただけ」
言葉に病んだ熱のような感情をヨシユキは感じた。過剰に思える反応は、彼がヨシユキの記録や伝説を、長年に渡って意識してきたからではないだろうか。興味がなければ忘れてしまう。気にかけるのは、憧れか妬みの感情があるからだ。
「びっくりしたよ。ゴミ置き場にゴミみたいにうずくまってる男が、伝説の先輩だったから。落ちぶれたアンタを観察したくて俺はついてきたわけ」
云いながら、割烹着を首から抜き取る。椅子にかけたマフラーをとり、首に巻いて手袋を拾う。
「覚えられてるなんて思わなかったから、初対面のふりでもっと観察するつもりだったけど……ダメ、耐えらんナイ。だらしないのも情けないのも予想以上にがっかりだけど、気持ち悪い。俺が今日しゃべった一言一言を、アンタは全部十年先まで覚えていそう」
まな板の上には半分まで刻んだ長葱と包丁。ガスコンロでは鍋の湯が鰹だしの匂いを撒きながら沸騰する。
サトウメグムは鞄を脇にはさんで、最後に皮肉を込めて口の端を吊りあげた。
「友達はできましたが、半日で嫌われました」
なんだ情けないな、と病室に甥を迎え入れた叔父は快活に笑った。ヨシユキと実の親子と云ってもそう無理はない年齢差だが、妻子を持たずに年を重ねたせいか実年齢より十歳ほども若く見える男だった。
ベッドの上で上半身を起こした叔父に勧められて、ヨシユキはベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろす。叔父の髪は真っ黒でさらさらとしているが、寝ていたので後ろが愉快に跳ねていた。ヨシユキはそれを教える気はない。普段と変わりのない様子の見舞い相手の顔を、ただまじまじと見た。
「で、本当に死ぬんですか」
不躾な質問に叔父は少しばかり驚いたような顔を作ると、すぐに良い保護者の顔と悪い保護者の顔を混ぜ合わせて答えた。
「お前にしちゃ物覚えの悪いことだな。間違いないよ、お前の父親と同じ病気だ。僕の父親とも同じ病気だ。遺伝性の病気だからね、お前もいずれ発病する」
ヨシユキは無表情だった。
「もっと早く私に教えようとは思わなかったんですか。私は自分が確実に長生きできないなんて知りませんでした」
「僕と兄さんが自分の身体に病の種が蒔かれているのを知ったのは、父親が亡くなったときだったよ。僕が十四歳で、兄さんは二十歳だった。お前は兄さんの子だから、まあ二十歳くらいで良いかなと思ってた」
叔父はふて腐れた甥を面白がった。のそのそとかけ布団をかきよせて身をのりだす。
そんな叔父がヨシユキは気に入らない。
「あなたが死んだら、アトリエに残ったあなたの絵は全部燃やしてやります」
自宅の庭にあるアトリエには、叔父が生涯で描いた絵のほとんどが片付けられている。ヨシユキは大真面目だったが、あはははは、と他人事のような笑い声が返った。
「これから価値が出るかもしれないだろ。とっておけよ。いつか困ったときに金になるかもしれないよ?」
「邪魔です。ゴミです。価値なんて出ません。あの離れ屋が空けば物置に使えます。貯金はしばらく生活する分は溜まっていますし、必要になればまた私一人で稼げば良いことです。今度は無収入の家族が一人減るんですから、経済的に余裕ができるはずです」
チクリと嫌味を混じらせた。
「経済的に余裕があっても、生活はどうなの。お前、僕に任せっきりだったから家事の一切ができないだろ」
「これから覚えます」
「誰から教わるつもり? 云っておくけど、生活の基本中の基本なんて、当たり前すぎて誰もわざわざネットで公開したりしないんだよ。お前の好きなパソコンでも調べられないだろうよ」
ぐ、とヨシユキは言葉につまった。
「……家政婦を雇います」
「他人がいつも家の中にいる状況をお前が耐えられるのかい」
せせら笑う。
ヨシユキは眉間に皺を深くして押し黙った。叔父の勝利であった。
甥は納得がいかなかった。確かに叔父には十数年間育ててもらった恩があるが、あまり幸せに育った気がしないのは、父親を亡くした直後に母親によって叔父に押しつけられた身の上である以上に、叔父が養育者として不適格だったせいではなかろうか。
「私が生活無能者で、あなたの云う『友達もできないダメ人間』に育ったのは、大部分が養育者のあなたの責任だとは思いませんか?」
「人のせいにするなよ。死んだ兄さんが独りで籠りがちで、人付き合いの苦手な人だったから、遺伝だよ、遺伝。友達ができないのはお前のせい。生活無能者になったことには感謝してほしいね。僕が一日も休まず心を砕いてお前の世話をしてきた証拠だ。僕がたった二日間でも世話を放棄していたら、お前は一人で身の回りのことができる人間に育ってしまっていた。ちゃんと生きていけるように欠点を作ってやったんだよ、僕は」
「あなたの云う『ちゃんとした生き方』が私にはわかりませんよ!」
もっともな理由で激高した甥を、ふっと叔父は憐れむように見た。
「お前はいけないんだよ。一人で生きていこうとして、一人で生きていけてしまうからいけない」
云い返そうとしてヨシユキが口をつぐむ。静かに変化した叔父の口調に、真剣味を感じたのだ。
「お前のような人間はね、他人に関わって生きなきゃいけない。なんでも他人より器用にこなせてしまうと、自分と同じようにできない他人を見下しがちになる。見下した人間の中に混じるのは難しい。特にお前は人間に興味が薄いからね。どうしても他人に関わなくてはならない理由が必要だ」
「独りで生きていく力があるなら不要なことです」
「生きていくのに他人が必要ないなんて、人間としてとてもいびつなことだよ」
それはあなた個人の価値観だ、とヨシユキは思った。人類共通の価値観である証明も、この世界の真実であるという保証もない。おそらく叔父を亡くした後の自分が、選んでいくだろう生き方を否定しているだけ。
「年の離れた悪い兄のような無責任な態度で好き勝手に育てたくせに、いまさら私を見放すのですか」
険しい顔でヨシユキは立ちあがった。
「他人の善意をあてにして生きろというあなたの理想は結構ですが、あなたが死んだ後にこの世に一人残される血縁者が、惨めに他人の善意を受けられず死んでいくとしたら、どうすればいいんですか」
ヨシユキは吐き捨てて、病室の出口へ向かう。その背中に叔父の言葉ははっきりと届いた。
「死ねよ」
ふり返ると、ゆっくりと頬杖をついてやさしく笑んだ叔父が、窓の外を一色に塗り替えていく雪のような色調の病室からヨシユキを見送っていた。
十二月十七日の市内における予想積雪量は二十二センチ。凍えた記憶と数回目の家族の小言に懲りて、市内某所在住の五十年配の男性(自営業)もパチンコ店通いを諦めた日。
ヨシユキは懲りずに同じゴミ置き場の壁に背中を預けていた。雪はざらざらと降りそそいで容赦がない。髪に積もる雪は初めこそ溶けて汗のようにこめかみから流れたが、いまは白く覆っていく。震えながらヨシユキは青ざめた頬を雪の粒になぶらせている。時々、眠そうに腕の中に顔をつっ込んだ。
数時間前に叔父と交わした会話が、ヨシユキの心に氷柱のようにつき刺さる。
「道連れにしたいのですか」
病室の出口からひき返して、ヨシユキは白いシーツに手を置く。怒りを示すように叔父の膝のあたりでぐっと力を入れるが、反応はひどく緩慢だった。テレビドラマか映画のスローモーション場面のように、ごくわずかづつ首が方向を変えて、やっとといった様子で叔父は甥を見上げる。気味が悪いほど鈍い動作に近距離ぎょっとする。
叔父はヨシユキに、この病に名前はないのだと云った。血縁者だけに受け継がれていく筋肉が急に弱り死に至る病。事実を聞かされただけで、ヨシユキには実感のなかったそれが、背筋を震わせた。
普段通りに見えても、叔父はもう普通の人の速度で身体を動かすことができなくなっているのだ。
叔父が云った。思えば言葉も以前はもっと早く喋っていた気がする。
「間違えるな。死なないことが重要なんじゃない。生きることが重要なんだ」
ゴミ置き場が接するその道を、大雪の本日利用する歩行者は少ない。ヨシユキの前を通りがかった六人目の歩行者が足を止めた。
「一昨日の夕飯はどうしたわけ?」
白と黒のボーダーのマフラーを巻いて傘をさし、鞄を脇に抱えた男子高校生が、曇った眼鏡の奥から冷めた瞳でヨシユキを見下ろした。
「冷や奴にしました」
答えてヨシユキは、表情なく相手を見返す。そこに驚きの色がないのは、予想していたためなのか、凍えて表情筋を動かすことができないためなのか、サトウメグムにはわからなかった。
「冬には食べないんじゃなかったのか?」
「自分では調理ができないので、仕方ありません……フィルムをはがしてスプーンで掬いました」
「醤油、きらしてたんじゃないのか?」
「はい」
それではどうしたのだと、ヨシユキは説明しないし、相手も尋ねない。二人の後ろを、鞄を抱きしめるようにした小柄な女子中学生が、脅えた表情で足早に通りすぎていった。薄いクッキーを噛むような心地好い音が離れていった。
なあ、と周囲に降りそそぐ雪に似た静かな瞳がヨシユキに尋ねた。
「俺が手を貸さないと、アンタ死ぬ?」
「……かもしれません」
この数日まともに私に声をかけてきたのはあなただけですから、とヨシユキは答えた。
「どうするわけ?」
「どうもしません」
灰色の空を仰ぐと、掃除機が吸い込んだような埃の塊が降りそそいでくる。しかしそれは地上に触れた瞬間、純白となる。汚れた地上では灰色さえ、純白。そんな想像をしてヨシユキは、白く霞む歩道の先に焦点をはっきりと結ばない視線を投げた。
「私を助ける人が現れるなら助かる。現れないなら、あるいはこの世界にそんな人間が存在しないなら、助からない。それだけです。私は独りでは生きません」
「生きていけない、じゃなくて?」
「生きていかないんです」
そう、と言葉を一粒の雪のように落として、それ以上なにも云わず、サトウメグムは雪に埋もれていく寒々しく清んだ世界で、雪に沈んでいく男が見つめる先に視線を合わせた。
4章がまとまらず息切れ中です。
5章と6章のほうが先に形になってるので、なんとか自然に繋げたいところです。