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2《男子高校生》

ここまでで完成予定枚数の三分の一くらいです。

書きかけを手直ししつつ毎週ペースで次話投稿して、なんとかあまり遅くならずに手付かずの結末を書き上げたいと思っています。

   2《男子高校生》


 ヨシユキが若い家政婦にトマトを口に放り込まれる三ヵ月前。この冬最初の大雪が降った十二月十五日は、ニュースによると市内の積雪量が十七センチ。市内の某パチンコ店にでかけた五十年配の男性が、帰る頃に自動車の鍵穴が凍りついて開かなくなり、寒さに震えながら家族の迎えを待っていた、というのはヨシユキがあとから聞いたご近所の話。

 灰色のトレーナーと同色のスウェット・パンツの姿で、ヨシユキは道路に面したゴミ置き場にしゃがみ込んでいた。コンクリートブロックの壁が三方を囲んだ屋根のない場所である。自転車の細い轍と二人ばかりの足跡が前を横切っている。膝頭の上で組んだ腕に顔を頬まで埋めて、ヨシユキは時々、犬のように首をふっては積もった雪を払った。黒々とした髪はバネでも入っているかのように、天を向いたり横を向いたりして自由奔放に揺れる。身体はすっかり冷えていて、肩や腕にかかる雪は溶ける様子がなかった。

 雪の音を聞いていたヨシユキの側に、足音が近づいてふっと消えた。黒い皮靴がヨシユキの視界に入る。紺色のブレザーに白と黒のボーダーのマフラーを巻いた男子高校生が足を止めていた。

「アンタ、なにしてるわけ?」

 吐いた息で男子高校生が銀縁の眼鏡のレンズを少し曇らせた。白い景色に似合わぬ陽に焼けたような浅黒い肌。二重の目もとがテレビ番組でよく見かける男性アイドルの誰かに似ていた。

 ヨシユキはだるそうに顔を上げ、鞄を脇に抱えて傘をさす男子高校生の風貌をじっと観察する。なにかしらの合格点が出たように、口の端をわずかに曲げた。

「……私の食事を作ってくれる人に出会えるのを待ってます」

 たっぷりと間を空けて、男子高校生がすっとんきょうな声を上げる。

「はああ?」

 ヨシユキは傍らの雪の小山をごそごそとかきわけ、近所でよく知られたスーパーマーケットのビニール袋を発掘してさしだした。長葱が半透明の袋から元気にはみだしていた。



「いえ、唯一の家族だった叔父が一週間前に入院しまして、それから我が家には食事を作る人間がいないんです。買い置きのお菓子も一昨日尽きて、昨日からジャムと紅茶しか口にしてません」

 靴下の裏を気にしながら埃のかぶった他人の家の廊下を先に進む高校生を追いかけて、家主のヨシユキは説明を続けた。高校生は先ほどからヨシユキの説明を適当に聞き流している。

 高校生は台所に入って薄暗い周囲を見回した。ヨシユキに渡されるまま運んできたスーパーマーケットのレジ袋をテーブルの端に置く。わずかな時間差で、カコンと軽い音が床を跳ねる。テーブルは菓子の空き箱や、開封済みのスナック菓子の包装紙に占領されていた。プリンの空きカップが反対側から落ちたのだ。テーブルの上では、潰れたブリック・パックから甘い匂いの液体が零れている。

 壁に手を這わせてスイッチを見つけた高校生が天井灯を点す。そうして腰を屈め、テーブルに顔を近づけたり遠ざけたりした。次に身体を伸ばして左右からゴミ山を覗く。ゴミ山には食器が混じっていないことが確認された。

 悪い予感から高校生が眉をひそめて調理台に目を向ける。汚れ一つなかった。ゴミを片付けない男が、調理器具や食器だけを片付けているとは考え難い。調理台も流しもまったく使われていないのだ、と高校生は結論づける。

「葱と豆腐を買ったってことは、味噌汁を作る気だったわけ?」

 尋ねた高校生は、レジ袋を開いて長葱と豆腐を取りだす。

「私は作れません」

 ヨシユキが飄々と答える。高校生はヨシユキを見上げる。猫背でひどく痩せているが、ヨシユキの身長は百八十二センチある。天井灯の明かりは十分なはずなのに、そばかすがたっぷり散った顔の青白さを、高校生は気味悪そうに見た。

「誰かに作らせる気だったのか?」

 後ろ手をついてテーブルにもたれた高校生が、手袋をはめた片手で葱をバトンのように回した。

「いえ、味噌汁は好きではないので」

「じゃあ、すき焼き?」

「肉は嫌いです」

「冷や奴?」

「今は冬ですよ」

「鍋?」

「特に食べたくありません」

 高校生はにっこり笑顔を作った。

「ヨシユキ……さんだっけ?」

「なんでしょうか」

「蹴り入れていい?」

 厭です、と答えたヨシユキのすねに軽く蹴りが入る。

「いまの衝撃はなんでしょうか」

「ゴメン、足が滑った」

「では、私も滑ります」

 不穏な空気から、蹴り合いに発展した。高校生のプロレスゴッコと捕らえて微笑ましいのか、キレやすい若者同士の諍いと捕らえて危険を感じなければならないのか、微妙なところだ。

 互いの蹴りは段々と容赦のないものになっていく。一度、鈍い音がしたあとに、派手な衝撃音が続いた。

「見知らぬ男にっ、暴行受けてますお巡りさんっ、て叫んでいいかなっ」

「高校生にもなってっ、……幼児なみの発想ですねっ」

 お互いが相手の胸倉をつかんで息が上がっている。ヨシユキの手が衿と一緒にマフラーの端をつかみ、息のつまった高校生が自ら解いたマフラーを床に放る。底に残った茶色のカラメルソースを細く散らして、本日二個目のプリンの空きカップが床に跳ね上がるのを、どちらも見る余裕などなかった。

 数分後、背後から首に腕をかけて絞め上げられた高校生が、プロレス技のようにヨシユキに乗られて床の上を転がる。

「……ヨシユキさん、予想外に強いじゃないですか」

 海老反りになった高校生が、苦しげに自分の首にかかる腕を叩いた。

「はい。でもあなたもなかなかですよ」

 横顔に青痣を作ってヨシユキは無造作に答えた。元から細い目に表情らしきものは見てとれない。相手の首にかけた腕には相当の力を入れているはずなのに、口調は耳にすると力の抜けるようなものだった。

「なんでも作りますから、腕を離してもらえマセンカ」

 降参とばかりに高校生がぐったりと告げてヨシユキの腕が首から外されるものの、高校生は再びお願いしなくてはならなかった。

「あの、どいてクダサイ」

「はい」

 こうして竜宮城へ向かう亀は浦島太郎からようやく解放された。

 椅子にまとめて鞄とマフラーと手袋を置いた高校生は、ヨシユキの叔父のものだという白い割烹着を渡されてしぶしぶと身に付けた。

 それで、なにを作ればいいんデスカ、とオバちゃんのような姿になった高校生が向き直る。

「甘い物を」

 ヨシユキは幼児のような純粋な輝きを瞳から放った。

「作れねえよ」

 間髪を入れず高校生は即答した。

 ヨシユキの瞳が途端に濁った沼のごとき様相となる。言葉なき強烈な非難。

 不当な非難を受けて高校生も黙ってはいなかった。

「だって無理だろ、長葱だぞ! アンタが買ったんだろ、豆腐と長葱! あと、がんもどきとマヨネーズ! ……って、なんでマヨネーズ?」

 返る答えはシンプルだった。

「きらしていたので」

 火に油。

「いらないだろ、別に! マヨネーズ! 醤油や味噌じゃないんだからっ」

「ああ、醤油もきれていました」

「……そっち買えよ」

 本日知り合ったばかりの人間を相手に、怒りが高まりすぎて逆に冷静になる高校生だった。

 ヨシユキは声高に主張する。

「醤油よりマヨネーズじゃないですか。調味料と云えばマヨネーズでしょう。マヨネーズのあわない食材はない、というのが叔父の遺言でした」

「さっき、アンタの叔父さん入院してるって云わなかったか?」

「これから遺言になります」

 真顔だった。

「不吉なこと決めつけるなよ、可哀相だろ、叔父さん! アンタの叔父さん知らないけどさ!」

 拳がテーブルに叩きつけられて、振動でゴミ山がニミリ飛び上がる。ガラガラ、パササ……と崩れ落ちた。ゴミ雪崩の行方を目で追って、ひとり高まった心を落ち着かせたところで高校生は尋ねた。

「つまり、甘い物とマヨネーズ以外は嫌いだと?」

「いえ、マヨネーズが好きなのは叔父ですが……はい、まあ」

「じゃあ、別に長葱や豆腐なんて食べなくてもいいだろ。なんで買ってるわけ」

「はあ、でも長葱も豆腐も身体に良いものですから、少々無理してでも食べておきたい気持ちがありまして。特に長葱は風邪をひいたときに食べる雑炊からは外せませんし、肉などの匂い消しになりますし」

「長葱自体が匂うけどな」

「高血圧抑制、疲労回復に、食欲増進」

「そうだっけ?」

「健胃、整腸、利尿効果」

「……そうだっけ?」

「防腐作用もあります」

「ボウフサヨウ? なにの?」

「素晴らしいことに、精神安定作用までも」

「ちょっと待て。なんかおかしいぞ、ヨシユキっ」

 樹のうろのような生気のない瞳が、すっと高校生に向けられた。

「ヨシユキさん」

 高校生が苦渋を飲んで負けると、瞳から不穏な気配を消し、うんうん、とヨシユキは自分の説明にうなずく。

「長葱は身体に良いんです。叔父が昔からそうくり返していました」

「ナニその長葱信仰?」

 馬鹿一族が、という言葉を高校生は学習して飲み込む。

「それで俺は長葱をどう調理すれば?」

 少し考えた様子を見せて、ゆっくりとヨシユキが云った。

「甘い物は無理ですか」



 どうにか味噌汁を作ることで納得させて、水を汲んだ鍋をガスコンロの火にかけたとき、気がついて高校生が云った。

「ヨシユキさん、凍えてたんだからお風呂入ったら?」

「いえ、面倒臭いので」

 微妙な表情で動力が切れたロボットのごとく停止する高校生。その後、一週間入浴していないと判明したヨシユキを、バスルームに押し込んで椅子と机で出入り口を塞ぐ。

 一息ついた高校生に再び不快な予感が訪れる。自分の心が囁く言葉をまさかと首をふりつつ、洗濯機を探し回った高校生は発見した。中と外に溢れた汚れ物を。

 高校生は洗濯機に両手をかけてがっくりとうなだれた。

 やがて気持ちを立て直し、洗濯を始めた高校生の胸の内に妙な使命感がわく。自分がやらねばならない。そう、ここには他に誰もない。ご近所を守る正義の味方は俺だ。……え、俺正義の味方? いや……いい。まあ、いい。戦おう。……だけど俺が戦う相手は、倒すべき悪の親玉は、なんだ? ゴミの山か? 汚れ物の塊か? 生活無能者か? 

 洗濯機に片端から詰め込みながら、脱ぎ捨てられた洋服の汚れのほとんどが甘い匂いのする染み、つまり食べこぼした菓子とわかるのが高校生は情けなかった。

 脱力したり気を取り直したりしながら洗濯を続ける。ふと高校生はヨシユキに着替えを用意してやらねばならないことに気づく。

 一階に個人の部屋らしいものがなかったので、着替えを探して二階に上がった。

 高校生は眉をしかめる。この家の習慣なのか、ヨシユキ一人が気ままに歩き回った痕跡なのか、トイレの他に三つあったどの部屋も扉がきちんと閉められず、人間の顔の幅ほど開いていた。隙間から覗いた部屋の一つの様子に高校生は息苦しくなる。数台のパソコンやプリンタ、FAXといった類いの機器と、それを繋ぐ何十本ものコードに部屋中が埋めつくされていた。

 部屋の中央に机があって、それがどこかの古い森の苔むした大樹のように高校生の目に映る。中央の机が他より一段と高くて、そこから広がるコードが根のように見えたのだ。 根の上には色とりどりの四角形の落ち葉が散らばっている。プリントアウトされた数十枚の紙だった。すべてA4サイズの用紙で、無造作にコードやプリンタの上に置かれたり落ちたりしていた。印刷されているのは文字ではない。図でもなかった。

 近くにあった数枚を、高校生は隙間から腕を伸ばして拾い上げる。高校生にはそれがなんであるのかわからない。

 暗く濁った色合いの水玉が重なる画像が一枚。数本の色鉛筆をまとめてにぎって、縦横にこすりつけたような線が走り、両端が破り取られたような形に黒く塗り潰された画像が一枚。なにかしらの部品を箱詰めしたように、灰色の四角形がグラデーションがかかりながら無機質に上下左右対称に並ぶ画像が一枚。

 部屋には椅子が二脚あるのだが、配置の具合に一人の人間のために用意されたものだという気配があった。入院しているという叔父のものか、ヨシユキのものか。高校生は興味を失って拾い上げた用紙を床に放る。機器の充実ぶりから仕事用だろうと適当に結論をだして思考を停止する。

 家を見回して経済的にゆとりのある家だな、と高校生は感想を持つ。天井は高いし、最近になって急に散らかった様子のある部屋も一つ一つが広い。ヨシユキの叔父が絵描きであることを知らない高校生は、玄関を入る前に目にした庭のアトリエが庶民には贅沢な離れ屋に見えていたし、廊下や階段にかけられた複数の油絵も不必要な贅沢品に見えていた。

 その油画はなにを描いたのかわからない抽象的なものが多かったが、階段の踊り場にかけられた一枚は数少ない具象絵画で、いくらか高校生の印象に残った。ギリシャ神話風の白い衣装をまとった黒髪の女性の服の裾に、鳩ほどの灰褐色の鳥がもぐり込もうとしている絵だった。鳥に向ける女性の目は細く、神経質な気配を持っていた。女性がひどく痩せていて青白くつやのない肌をしているので、高校生にはこの家の生活無能な住人に似て見える。


 探しだしてきたパジャマを高校生がさしだすと、髪からぼたぼたと水滴を落とすヨシユキは、叔父のものであると云って受け取らなかった。大した問題ではないと考える高校生が、椅子と机を横にどけたバスルームの入り口でパジャマを押しつける。味噌汁作りもまだ途中であるし、また探しにいくのも面倒だというのに、ヨシユキは受け取らない。互いに押しつけあっていると、我慢できなくなったヨシユキが「ボタンが並んだ服は着ません」と堂々と云い放って高校生を困惑させた。

「なに?」

「着るのにとても時間がかかる上に、かけ違うんです」

 高校生は気力が失せていくのを感じつつ、半笑いで顔をそらした。そういえば、着ていた服にはボタンが一個もついていなかった。この天候にもかかわらず薄着だったのは、きっと洗濯済みの上着が残っていなかったんだ。残っていても叔父さんのものでボタンが並んでいたんだ――、と心の広場で行き交う通行人に向かって叫ぶ高校生。ちなみに通行人は本人の分身である。

 いい歳をした男の服のボタンを、腰を屈めて丁寧にとめてやる自分を笑いたい高校生だった。

 ヨシユキが高校生の指の動きに感心したように云った。

「あなたはなんでも一人でできてしまう人なんですね」

 いやそれ、感心するところじゃないから、と高校生は思った。



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