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1《家政婦》

三分の二ほど書いた状態で眠らせていた小説を、完結を目指して手直ししながら投稿していく予定です。

ジャンル分類に悩んだので、もっと適切な所があれば教えてください。

   1《家政婦》


 甘いものを、とせがんだヨシユキの口に放り込まれたのは真っ赤なトマトだった。三月の初めのことだった。冷蔵庫から取りだされた季節外れの野菜は、鼻の奥で独特の青臭さを滲ませ、夏の青空とつるりとした感触の酸味の記憶を呼び起こした。

 中途半端な大きさである。ミニトマトと普通のトマトの中間の大きさのそれを、潰さないように慎重にくわえながら、ヨシユキは台所の椅子に横座りした自分のかたわらで、半分背を向けて皿を洗う着物姿の若い女性を恨めしげに見上げた。

「これふぁ、すっはいものれす」

「噛んでご覧なさい。きっと思い浮かべた味と違います」

 芝居がかった口調で女性は楽しそうに云うと、水滴を落としながら人差し指でヨシユキの口に赤い実をきゅっと押し込んだ。

 子供の頃から甘いものを偏食してきたわりにはきれいにそろった前歯が、はりのある薄い皮をぷつ、と断ち切った。ヨシユキは噛みしめそうになるのを顎で堪えて抗議した。

「いひふぁさん、けいやふいふぁんれす」

「契約違反?」

「やといふしは、ふぁたしれす」

 雇い主は私、と云ったつもりだが伝わったかどうかはわからない。

「あなふぁにふぁ……」

 ヨシユキの言葉に耳をよせていた女性は、そこでにこりと笑って、屈めていた身体を伸ばす。すらりと背が高いため、それだけの動作でずいぶんと離れたように感じられる。

「なに云っているのかわからないので、口の中のものを先に片付けてください」

 女性は濡れた四本の指をそろえてヨシユキの顎を押し上げた。不意をついた素早い動作だった。

 トマトは適度な弾力で抵抗しつつ、歯に触れて実を崩した。

 反射的に顔をしかめたヨシユキは、しかし予想に反して口の中に広がったさわやかな甘みにきょとんとした。探るようにおそるおそる咀嚼を始める。そこに敵がいないことを確認して、飲み込んだ。口の端から汁がこぼれた。親指でぬぐって舌先で拾う。やはり同じように甘かった。

 母親譲りのすがめなくても細い目で、ヨシユキは問うようにかたわらの女性を見上げた。 温かいほほえみがヨシユキに尋ねてくる。

「美味しいですか」

「……ええ、甘かったので」

 ほほえみに混じる姉のような母親のような気配を、不思議そうに見すえてヨシユキは答えた。少し考えてから、尋ねた。

「手品の種明かしは?」

「ありません。果物のように甘いトマトもあるんですよ。品種が違うんです」

「マニアですね」

 ヨシユキがつぶやいた。

 肌を伝う水から袖口をかばいながら、白い手首が蛇口を閉める。

「ぼっちゃまにもそう云われましたけれど、フルーツトマトくらいはもう常識ですよ」

 流しの下にある扉の取っ手に、洗濯済みの乾いた青いタオルがひっかけてある。そのタオルで手をぬぐい、たすきを肩で解きながら自分に向き直った相手を、ヨシユキは子供のように椅子の背に両手をかけて見上げた。先ほどまでは横座りだったが、いまはくるりと回転して完全に馬乗りしている。

「いちはさんは自慢のぼっちゃまの口にも、いまのようにトマトを押し込んだのですか?」

「いいえ」

 ぼっちゃま、とはこの若い家政婦が住み込みで働いている別の家の一人息子のことだ。その家はヨシユキの家から歩いて二十分ほどの距離にある。近所付き合いどころか自宅からでることさえまれなヨシユキにとっては、顔も知らない相手だ。

 だがヨシユキが知らなくても、同居している叔父ならば社交的で近所のことに詳しい。現在病気で入院しているのだが、見舞ったついでに叔父が雇った臨時の家政婦について尋ねると、いくつか情報が得られた。

 ぼっちゃま、とはいちはと同じ年齢でヨシユキより三つ年上の二十六歳。ぼっちゃまの父親は複数の生花店を経営していて、母親は生け花の先生だという。

「いちはさんは、なにをなさってぼっちゃまにマニアと呼ばれたんでしょうか」

「眠っている間にこっそり枕もとにバンペイユを置きました」

 バンペイユとはなんだろう、とヨシユキは思う。

「起きたときに驚いたみたいで、あとでちくちくと嫌味を云われました」

 嫌味を云われたと云うわりには、笑っている。

「バンペイユってなんですか」

「バレーボールくらいの大きさの黄色の柑橘類です」

「ああ……それは驚きますね」

 つまりぼっちゃまは、住み慣れた自宅で心安らかに目を覚ましたところを、巨大な蜜柑に視界を襲われたわけだ。映像の暴力。

 会ったこともないぼっちゃまにほんのわずかに同情をよせつつ、ヨシユキにはまだ気にかかることがあった。

「ところで、いちはさんはなぜぼっちゃまの枕もとにそのバンペイユを?」

 あら、だって、といちはの瞳がきらめく。楽しむように端が曲がった小さな口もとを、たすきをにぎりこんだ指でいちはは隠した。

「お化け蜜柑を目にして、ぼっちゃまがどんな風に驚くかを想像するとおかしくて」

 確信犯らしい。

 他人の家に使用人として住み込むという日常を、さぞかし落ち着く時間のないことだろうと同情していたヨシユキだったが、まったく不要なことだったらしい。

「それはそうと、いちはさん」

「はい、なんですか」

 ヨシユキはちらっと自分の背後を確認する。ぴかぴかに拭き清められた四人掛けのテーブルの上に、肉じゃがとヒジキの煮物と菜の花のピーナッツ和えの夕食が、ヨシユキの側に一人分だけ用意されている。着物姿の家政婦の水仕事を見学している間に湯気はほとんど失せてしまった。

「今日は私と一緒に夕食をとってお帰りになりませんか」

 あらあら、といちはが子供をあやすような声をだす。女性にしては低めの声も、やわらかな口調を使うことで女性らしい印象が強まる。古風な女性を演出して遊んでいるような気配がいちはの仕種にはつきまとうが、ヨシユキは別に不快ではない。

「お一人では寂しいですか? でも、駄目です。ぼっちゃまが家で一人ですから。私は帰りますよ」

 いちはは答えながら、たすきを右手の四本の指にくるくると巻きとってこぶしほどの大きさにまとめ、左の袖口にさし入れた。ヨシユキはじっと、ふくらんだ着物の袖を見る。着物の袖というのは、洋服のポケットにあたる役割を兼ねるものらしい。片付けることに慣れた動作だった。

 着物など間近に見る機会なく二十三年を過ごしてきたヨシユキは、無意識に観察してしまう。いちはの着物は、袖口にレンガ色の裏地が細くはみだしている。裁縫のミスではなく、そういうものだというさし色の美しさがあった。着物は灰色で、まず丘を描いたようなベージュ色の曲線があり、文様化された牡丹が白とレンガ色の二色で小ぶりに描かれていた。牡丹の間には青い小花が散る。

 そっとその袖をつまんでひきとめたい気持ちがヨシユキに涌いた。かすかな衝動で、実際の行動にはつながらなかったが。

 顔を横切る一筋の皺のような細い目をいっぱいに開いて、ヨシユキは虫食い穴のようなぽっかりと暗い瞳で、自分の確信を確認するように、いちはを見上げる。いちはがにこりとほほえんだ。ヨシユキもそれに倣う。

 試さなくてもわかった。衝動が行動につながったとしても、要求は同じ調子の笑顔で押しとどめられるだろう。

 一日に二時間ほどの家事労働とひきかえに少しばかりの賃金を払う。ヨシユキは確かにいちはの雇い主と云えたが、いちはにとっては知り合いから頼まれたアルバイトのようなものだろう。そして知り合いとは、ヨシユキ本人ではなくヨシユキの入院中の叔父である。住み込みでの仕事先のあるいちはには、本格的にヨシユキから賃金を得る必要はないのだ。解雇されたところで困りはしない。困るのは生活無能者であるヨシユキのほうだった。

 家事のすべてを担っていたヨシユキの叔父が突然入院することになったのが三ヵ月と少し前のことで、一人になるとヨシユキはご飯を炊くことさえできなかった。

 その叔父は、云ってなかったけど病気なんだよね、と軽く告白して家から姿を消した。売れない絵描きだった叔父は、小器用でまめに家事をする男だった。近所のスーパーマーケットで買い物中にいちはとも知り合ったらしい。叔父が消えて五日間で買い置きの食料が尽き、その後にヨシユキの服は汚れ、家中にうっすらと埃が積もった。冬だったのが多少の救いになった。ゴミが溜まっても匂わない。

 叔父は笑いながら云い残した。

「僕がいなくても、生き延びてみせろよ」

 生活無能者であるヨシユキが困り果て、とりあえず食品の買い物だけ済ませて、道端に座りこんで援助者を物色しているところへ通りがかった一人が、近所のスーパーマーケットからの買い物帰りだったいちはだった。面識のなかったいちはが最初、不審者以外の何者でもないヨシユキを思いきり避けて通りすぎようとしたのは云うまでもない。他者を見捨てることに躊躇のない足取りは、このとき薄く積もっていた雪の上にしっかりと刻まれ、またヨシユキの心にも刻まれた。

 それが叔父が家から姿を消して十一日目の出来事で、以来、家の中にひきこもって定職もなく一日を終えるヨシユキに、いちはは近所のよしみで本業から時間を割いている。雪の中、叔父の名前を出して必死に呼び止めた成果であるが、いちはの生活の中心は別の家にあり、ヨシユキとは別の理由から自分一人の身の回りのことさえままならない青年が、彼女の帰りを待っている。いちはのぼっちゃまは、脚の不自由な車椅子生活者なのだ。

 別に勝負ではないのだが、勝てるはずもない。いちはが帰る家は、いちはの亡くなった母親が家政婦として働いていた家で、高校生にして天涯孤独となったいちはを援助して学校を卒業させた夫婦のいる家で、夫婦の息子がいちはの幼なじみだという家なのだ。

 ヨシユキは椅子の背を抱いた姿勢で台所をでるいちはを見送った。もう毎日のことなので、玄関まで見送ることはやめている。いちはが帰ると家の中は静まり返った。唯一の家族が入院中なのだ。ヨシユキは一人きりになる。ヨシユキの父親はとうに亡くなっている。ヨシユキの母親は夫が亡くなると、幼いヨシユキを養育費と共に夫の弟に押しつけてヨシユキの前から姿を消した。叔父に聞くと、結婚前の職場に戻って励んでいるらしいのだが、子供に会いに来ることはない。

 ヨシユキは秋の終わりに最後の枯葉が落ちる山肌を見つめたのと同じまなざしで、叔父が与えた目標の実現の可能性を検討する。静まり返った胸の内に、ひとつの言葉が落ちる。 私は、親しい人間、というものがほしい。

 叔父の云い残した「僕がいなくても、生き延びてみせろよ」という言葉はつまり、人と関われ、ということだった。なかなか難しい。


 ああ、だからサトウメグムでウツギハライチハなのか、と思った。



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