第八話:食欲
昨晩の食堂での騒ぎから一夜明けた朝。ノインは窓から差し込む陽の光に照らされて目を覚ました。陽はいつもより高い位置にあり、ノインは寝坊したことを自覚する。
「あちゃ~、寝過ごしたか……。まあ、昨日はいろいろあって疲れてたしなあ」
ベッドから起き上がり、ノインは手早く着替えることにする。というのも、朝食が提供される時間は決まっており、それを逃すと食いっぱぐれてしまうからだ。
ベッドの横で丸まって眠っているライムエルにも起きるように声をかける。
「ライムエル、何時までも寝てないで早く起きろ。起きないと朝食を食べ逃すぞ?」
「んむ……?それは困るのう……」
寝ぼけた目をこすりながら、ライムエルは大きく欠伸をする。昨日まで長年眠り続けていたにもかかわらず、まだ眠り足りない様子だ。
「……まあ、周りに人がいないからいいんだけど。声を出さないようにしろよ」
『おっと、すまんすまん。寝起きで気が緩んでいたようじゃ』
今度はきちんと念話で伝えてきたライムエルは、ゆっくりと翼を羽ばたかせて、いつもの定位置であるノインの頭の上へと着地する。
『よし!それでは食堂へと参ろうではないか!!』
「そうだな。ああ、言い忘れてたけど、ライムが食べる量は基本的に俺と同じだけだからな。俺が食べていいって言ったら別だけど」
『わかったわかった。食べ過ぎてはいけないというのは、昨日お主に教わったからのう。そのさじ加減はお主にまかせるぞ』
これで食費の方は何とかなるだろう。ノインは内心安堵しつつ、食堂へと向かうのであった。
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「おや、遅いお目覚めだねえ。ギリギリの時間じゃないか」
食堂へ到着すると、給仕をしていたマールが声をかけてきた。
「昨日はいろいろあって疲れてたんですよ」
「ああ、その頭のドラゴンのことかい。昨晩の騒ぎは、うちにとってはうれしい悲鳴だったよ。『ドラゴンに料理をあげるんだー!!』ってみんないつも以上に料理を注文してくれたし。これは今晩も期待できるかねえ」
マールが笑いながら案内してくれたテーブルには、見慣れない椅子が置いてあった。普通の椅子よりも足が高く、座面がテーブルの高さに近い。小さな子どものための椅子だろうか。不思議に思いつつも、ノインは普通の椅子へ座る。
「ノインさん!ライムちゃん!おはようございます!!あ、その椅子、ライムちゃんのために準備したんです!よかったら使ってください!」
ノインとライムエルを見つけたミルナが、元気の良い挨拶をしながらこちらに駆けてきた。どうやらあの椅子はライムエル用だったみたいだ。
「態々ライムのためにミルナちゃんが用意してくれたのか」
「はい!昨日の小さなテーブルでもいいかもしれませんけど、やっぱりノインさんと一緒に同じテーブルで食事ができればいいかなと思って!倉庫に良さそうな子ども用の椅子があったので、持ってきました!」
「ミルナちゃんは気が利くなあ、ありがとう。ほら、ライムもちゃんとお礼をするんだぞ」
ライムエルは用意された椅子へと降り立つと、ミルナの方へ向いて一鳴きした。
「いえいえ!そうやってライムちゃんが笑顔を向けてくれるだけで私は幸せですから!!それでは、私はまだ仕事があるのでこれで失礼します!」
そういってその場を離れたミルナと入れ替わるようにして、奥から料理を持ったマールが出てきた。パンと熱々のソーセージ、野菜サラダ、そしてスープが今日の朝食らしい。
猫舞亭で提供される朝食は選ぶ事ができず、グライセのおまかせである。というのも、提供する料理を統一することで、グライセの負担を軽くするとともに食材のロスが出にくいようにし、値段を安くしているからだ。
そういった理由もあるが、もともとグライセの料理はどれも美味いので、選べないくらいで文句を言う客はいない。
目の前に料理が並べられると、ノインとライムエルは備え付けられたフォークを手に取り、一つ一つじっくりと味わって食べていく。
パンは近隣のパン屋から朝一番で届けられたものなのでグライセが作ったものではないが、近隣で評判のいいパン屋なだけあり、少し冷めたくらいではパンの柔らかさは失われない。
ソーセージはグライセの手作りであり、バジルやパセリなどのハーブをいくつも使用した香り豊かな一品に仕上がっている。パンにも合うがエールにも合う。これだけを目当てにこの店に来る客もいるくらいだ。
野菜サラダは新鮮な野菜を一口サイズに切り分けて盛りつけたものだが、特筆すべきは上にかけられたソースだ。玉ねぎ、人参、にんにくを細かく刻み、油、塩、酢、はちみつと一緒に混ぜ込まれたこのソースの味は、グライセ以外には作れない。細かな配分を、グライセの長年の経験と勘で行うため、作り方を聞いても同じようにはできないのだ。
似たようなものは作れるかもしれないが、この甘さと酸っぱさがバランスよく調和したこの絶妙な味わいは、もはやグライセの味と言ってもいいだろう。他にも、グライセは料理に合わせた様々なソースを自作しており、どれもこれも評判がいい。
スープは具だくさんで、たくさんの野菜と肉が入っている。猫舞亭のスープの特徴は、野菜が融けだすくらいに煮込んだ後に、さらに追加で野菜を投入することだろう。二段階で野菜を投入するために、具としてたっぷり野菜があるのにもかかわらず、スープにも野菜の味が濃く出ているのだ。
簡単な料理に見えるかもしれないが、いろいろとグライセの特色が色濃くでている料理。それを朝から堪能することができて満足するノインだった。ライムエルもお気に召したようだ。
『うむう、野菜とは種類によってかなり味が違うのだな。上にかかって味付けされている液体がとても合う。美味さを引き出していると言っていい』
『それは、グライセ特製のソースだな。ここまで美味いソースを作れる人物は数少ないから、しっかりと味わうといい』
『ふむ、これはソースというのか。それにこのソーセージという肉の塊、なにやらいい匂いがするではないか。味も見事だが、香りでさらに食べたくなる気持ちが湧き出てくる』
食べたくなる気持ち、すなわち食欲のことだろう。ノインに出会うまで食べることに興味すらわかなかったドラゴンが、それを意識できるようになってきたのは、美味いものを食べることができたからだと思う。体が「もっと食べたい」と望むのも不思議ではない。
『その食べたくなる気持ちというのが食欲だ。俺と出会う前までは、食べるということに興味すらなかったわけだし、いい傾向じゃないか』
『ほう、これが食欲。食べたくなる欲求か……。うむ、なるほどのう。このことを知ることができたのは僥倖じゃ!お主に従うと決めたワシの目に間違いはなかったようじゃのう!』
ライムエルはうんうんと頷きつつも、目の前に出された料理を口に運ぶ動作は止めない。そして念話でノインにこんなことを伝えてくる。
『長年生きたからこそ分かる。欲というのは生きる上で非常に重要なものじゃて。それがないと、何のために生きているのかわからんのじゃよ。生きるための目的というべきもの、それがぽっかりと空いているんじゃ。だからかのう。あそこでず~っと眠り続けていたのは。ワシには欲が何もなかったんじゃろうな』
いつの間にか重い話になっている。特にやりたいことのないまま数百、数千年を生きるというのは、ノインには想像しづらい。だが、ノインから”食”を取り除けばどうなるだろうか?ノインには食欲以外に強い欲求はない。それがなくなれば、ノインも何のために生きているのかわからなくなるだろう。ライムエルの場合は、それが何年も何年も続いていたのだ。
『二十年程度しか生きていない俺が言っても、言葉に重みはないだろうが……。何のために生きているのかわからないというのは、辛かっただろうな。でも今は、俺と同じように美味いものを食べたいという欲があるだろう?生きる意味が見出せてきたんじゃないか?』
『うむ!ワシは昨日生まれ変わったと言っても過言ではない!これからは美味いものを食べるためにノイン、お主と共に邁進していくとしようぞ!』
『そうだな。だが、食事は味だけで楽しむものでもないぞ』
『なにっ!?そうなのか?』
『ああ。でも今はそれでいいと思うぞ。美味いものを食べてれば、ライムにもそのうちわかるようになってくるさ』
『そうかそうか。ならば今はただ、目の前の食事の美味さを堪能することにしよう』
それっきり一人と一匹の間には会話がなくなる。今はただ、目の前にある食事の味を楽しむ。一人と一匹に、今はそれ以上のものは何も必要なかった。