テラー
一言で言うとジャック回です。アリスとハッタどーすんだよって感じですがジャック回です。
ジャックが植えた豆は日を追うごとに成長し続け、ついに大木となった。
そして、枝葉を足場にして上り詰めた頂上で、彼はあるものを見た。
彼が木を降りた後、そこに何があったのかは、まだ誰も知らない。
もしかしたら、ジャックは豆の木を……。
◆◆◆
アリスは、あの紅茶を飲んだ部屋の前にいた。しかしその扉をノックする勇気はなく、彼女はただその場に立ち尽くしていた。
その時聞こえてきたのは、ジルの声だった。
「あいつは、アリスは自由でなくちゃいけねぇんだ!」
アリスは驚いたように目を見開き、何もない廊下で扉から一歩離れた。
そして、ついに深まりすぎた思考がオーバーヒートした。
この世界で別れること、この世界で死ぬこと、この世界で出会ったこと、この世界にいる自分のこと、ジルのこと、グレースのこと、あの優しい紅茶の味……。
それでも、きっとそのことを知っていても、グレースは強かった。そして今まで自分が出会った誰よりも優しく、明るかった。ならば自分がその足を引っ張るわけにはいかない。そのあまりにも不確定な一点の思考が、アリスの感情を冷静に戻した。
そして再び一歩踏み出し、今自分が会うべき男に会うための扉を開けようとしたその時。彼女の横を一人の青年がすり抜けた。
「バター! 大変だ!」
扉には鍵がかかっていなかったらしく、青年はそれを片手で軽々と押し開けた。
ハッタを呼ぶその名前から、アリスはその顔を見ずとも青年が誰なのかわかった。
ジャックである。
だが先ほど見た堂々たる手品師の彼ではない。今のジャックは非常に慌てていた。その様子は何か見てはいけないものを見てしまったかのようなおびえすら見えた。
アリスが青年の陰から部屋をのぞき込むと、奥の方でハッタが、なぜか頬をさすりながらゆっくりと立ち上がっているところだった。どのような経緯でこの状況にいたっているのかはわからないが、おそらく先ほどのジルの発言が関係しているのだろう。そして間違いなく彼が一発殴った。アリスが気付かないうちに、さらにハッタに話しかけづらい状況ができてしまったのだ。
ようやく意識を取り戻したハッタが、猫背のままこちらを見た。
「ん? どうしたんだい親方」
「あーっもうこの際その呼び方はいいから、すぐに来てよ。大変なんだ。豆の木が!」
ジャックは大股で数歩部屋に入り込み、ハッタの腕を掴んで彼を引きずるように部屋を出た。その途中、ハッタはとりあえず扉に立てかけてあった杖だけを取った。
「おい待て、そいつはまだ俺の相手だ!」
突然の出来事にジルがそう怒鳴りつけたころには、二人の手品師は廊下から消えていた。
一度だけ舌打ちをしてからハッタを追うように部屋を出たジルが、扉付近のアリスに気付いた。
「おう、お前か。悪いがあいつとの喧嘩は一旦おあずけだ。すぐに追いかけるぞ!」
アリスの反応を見る前に、ジルは再び走り出した。
アリスは少し考えたが、もう建物から出たであろうあの緑の燕尾服を追うことを決めた。どんな場所でもいい、もう一度だけ、明るく話し合えたならそれで満足なのだ。彼女はそれ以上のことは望まなかった。だからこそ、背負うものが少ないからこそ、その反応速度は早かった。
後から宿に入りアリスの様子を見に行こうとしたグレースは、突然入り口から飛び出した三人の男に驚いた。しかし後から出てきたアリスに手を引かれ、ある程度の状況は理解した。
「何かあったの?」
グレースが走りながら聞く。
「わからない! でもここであいつを見失ったら絶対後悔する! だから追いかけるのよ!」
グレースはそれ以上は聞かなかった。だがその手にはまだアリスのカチューシャがあった。彼女は願っていた。このカチューシャなしで、二人をつなぐ複雑な思い出をなかったことにして、その鍵であるカチューシャを封印して、二人に再開してほしいと。その時にこのカチューシャが、笑って話せる思い出になればいいと。
だからグレースはアリスを追った。これからハッタに再会する、普通の少女を追った。
石畳に覆われた緩い坂道。その両脇にはレンガと木材のみで建てられた家が立ち並び、道の奥から流れ込むような青空と合わさってとても明るい雰囲気に包まれていた。
しかし、その道をハッタの宿から十分ほど走った先に一軒だけ、負の気配を発する家があった。横に畑のある、普通の家だった。
ジャックの家だ。
その畑の中央には、ほかの作物を押しのけるようにして生えた大木が、はるか上の方からしだいに緑色を失っていくのが見えた。
「まただ、また木が枯れていく……」
一番先にたどり着いたその持ち主が、その様子をただ立って見上げていた。
「ちょっと待って。まず君の家にこんな大木があるなんて聞いてないんだけど」
ジャックに腕を掴まれたままのハッタが冷めきった声で聞く。一方で数秒遅れてやってきたジルは、そもそも一般家庭の庭にこんな大木が生えていることに驚いた。それはあまりにも高すぎて、おおよその数字を導き出すことも不可能なほどだった。しかし、あと少しで雲に届きそうな頂上から生命が失われていくのは、地上からでも確認できた。ようやく追いついたアリスとグレースもそれに気付く。
「二週間くらい前に、知らない旅人から豆をもらったんだ。この豆は育つと雲の上まで伸びるって言ってた」
だが、あと一歩のところでその発言に届かなかった大木は、瞬く間に枯れていく。
「雲の上だけでも僕は行ってみたかったけど、その人はさらにその先にすごいものがあるって言ってたんだ」
「すごいものって?」
上空から降ってくる硬い枯れ葉を手で払いながら、ハッタが聞いた。
「世界の出口」
その言葉に、ジャック以外の全員が驚いた。ジルはすかさずジャックを両手で捕まえる。
「おい、それはどーいうことだ」
その顔は驚愕の裏に、一目でもわかるような巨大な不安を抱えていた。もし、この大木が雲の上まで育ったら、その先に本当に世界の出口が会ったら、それが現実の世界につながっていたら。まだ出会ったばかりのグレースと、まだ結論の出ていないアリスと、別れなければいけなかったかもしれない。そんな不安要素をすべて抱えた大木が、今まさに彼の目の前で死を迎えているのだ。ここまで別れる不安を抱え続けてきたジルが冷静でいられるはずがなかった。
しかし、襟を掴まれたジャックの顔は変わらず、まっすぐにジルを見ていた。
「その豆の話には続きがあったんだ。豆の木が枯れる条件が、二つあったんだ」
もしかして、自分たちの誰かが、その条件を満たしていたのか。ジルはなぜか安心した。本来ならこのような場所でグレースと別れることが目的だったはずなのに、いつしか彼はアリスと同じように、グレースを想ってしまっていた。
しかし、問題はその条件だった。
「外の世界から来た人と、その人がこの世界に居続けたいと思う気持ち」
ジルは思わずその手から力が抜けていくのを感じた。他でもない、グレースの望みを絶ち切ったのは、世界の出口への道を閉ざしたのは、ただ右手が動く喜びに溺れていた自分だったのだ。
「この木は、外の世界から来てしまった人が自由に出られるようにって、その人が僕に預けてくれたんだ。なのに、お前たちの中にその条件をクリアしている奴がいる! まずはそいつと話をさせてほしいね!」
ジャックはジルの手を払い、三人の旅人を一人ずつ睨みつけた。だがその必要もなく、犯人はすぐに見つかった。ジル以外の二人が、明らかに目線でジルを示していたのだ。それに気付いた瞬間、当の本人はどう言い訳しようか必死に脳を回転させていた。
ジャックが明らかに様子のおかしい容疑者に話しかけようとした時、無意識に選択肢から消していた男の声がした。
「ごめんねジャック。それは僕だよ」
ジルとジャックだけではない。犯人を特定しかけた二人の少女も、その発言に驚いた。
「僕が外の世界から来て、こっちで店をやり直そうとしてたんだ。君のことを知らなくて、こんなことになるとは思わなかった。本当にごめん」
真犯人、いや、おそらく共犯者であるハッタが深々と頭を下げた。ジャックはその根拠のない謝罪にどう反応すればいいか迷ったが、その間にハッタは頭を下げたまま、ジルにウインクをした。
それを合図に、ジルはあらためて考えた。世界の出口につながる豆を持ってきた旅人、そして彼は外の世界の人、おそらく現実の人間を知っている。つまりその旅人もまた同類。そして豆のことから、夢と現実を行き来できる力を秘めているに違いない。その過程として、初めからこの世界の住人であるジャックの好奇心を利用したのだ。ならば自分達はその旅人を、豆を作った人間を知っておかねばならない。先ほどの混乱が準備運動となったのか、ジルの脳は予想より冷静に働いた。
「ところで、その旅人の名前って聞いてるか?」
ハッタへの返事に迷っていたジャックが慌てて振り向く。そしてこちらの方が答えやすいと判断したのか、その口は簡単に開いた。
「旅人のこと? 確か、テラーって名乗ってたっけ」
テラー。その名を忘れないようにジルは、そして彼の質問の意味に気付いたアリスとグレースも、何度かその名前を心の中で繰り返した。
「それともう一つ。多分答えられないだろうが、そいつは何者だ?」
その時、ジャックの口がにやりと笑ったようにも見えた。その雰囲気の変化に気付いたのか、ハッタが慌てて顔を上げる。
「僕だよ」
ジルは思い出した。このやり取りは、かつて自分が第三の女王と駆け引きをした時にしたものと同じだと。ならばテラーは。ジルは確認のためにもう一度だけ聞き直す。
「……そいつの名は何という」
ジャックと四人の間に、風が吹いた。
「テラー……。いや、今はジャックだな」
いよいよ本題に入ります。ところでテラーってちょっとオシャレな名前だと思うんですよ。偏見かな?