自由という枷
気が付いたら、クリーニングの割引期間が終わってました。年末年始が心配です。
「僕は、彼女を将来の結婚相手として考えている」
その一言は、ジルの心に迷いとは全く別の、湧き上がる炎のような感情を強く植え付けた。
ジルはもはや何も考えなかった。そしてふらりと立ち上がり、ハッタに掴みかかろうとしたが、その体は立ち上がった状態から動かなくなった。
ハッタが夢の力を使って、ジルの動きを止めたのだ。もはや我を失ったジルは、それに抵抗するすべをなくしていた。
「まあ落ち着きたまえ。君はここまでの旅でおそらくアリスを守る役目があったのだろう。だけどそれは少なからず彼女を守りたいという感情につながってくる。そしてそれは同時に彼女を幸せにしたいという、恋愛感情のようなものになってくるのは仕方のないことだ。もし君が心から彼女を愛しているのであれば、僕は君をこの世界から追放してでも、彼女から引き離さなければならなくなる。それはとても辛く、きっと彼女にとっても悲しいことだ。だから君にはできる限り自然な形で彼女と別れてほしい。どうかな?」
ジルは全力でハッタの力から逃れようとした。しかし、それでも動くのは首から上だけで、彼の顔だけに、必死さと強烈な怒りが見えた。
「てめー、何勝手なこと言ってんだ……」
膝の上のダイナを撫で続けるハッタの表情は、いたって冷静だった。今のジルにはそれが何よりも許せなかった。
「彼女は十六歳で僕が二十一歳。時間をかければ結婚できない年齢でもないし、何より僕には安定した収入がある。この世界で彼女と再会して、彼女と結ばれることで、僕はようやくバターの名を捨ててハッタとして生きていけるんだ!」
ハッタの声は、彼の目は、彼のすべてが本気だった。それに彼の発言はどれもすべて正しかった。
それでも、ジルは反対の姿勢を貫いた。
「お前、何もわかっちゃいねぇくせによお。てめーのことばかりべらべら喋りやがって……」
「それは、どういうことかな?」
怒りに打ち震えるジルを受け入れるハッタの声は、全く変わらなかった。
「何もわかってねぇっつってんだよ! あいつはな、まだこの世界にいるべきか迷ってんだよ。それをてめーの都合だけで結婚するだと? もしそーしようもんなら俺がお前をこの世界から消す! あいつは、アリスは自由でなくちゃいけねぇんだ!」
その意志の強さに、ジルのアリスへの想いに、ハッタは初めて彼に驚いた。そして手元の紅茶を一口飲んで呼吸を整える。
「……そうか。君はそういう風に考えているのか」
ハッタの動揺ぶりに気付いてか、ジルはもうひと押し言ってやろうかと思ったが、もう言葉が見当たらなかった。それ以上、彼はまだアリスという少女を理解できていなかった。
「いいか、てめー」
「もうわかったよ」
それでもなんとか相手を止めようとするジルの言葉を、ハッタは遮った。
「君の気持ちは充分伝わったよ」
ここでようやくハッタの顔から暗さが消えた。先ほどまでの鋭い眼光も、威圧するような口調も、その強烈な気配も感じられなくなった。先ほどまでの、笑顔のハッタに戻ったのだ。
「ごめんね、君を試すような真似をして」
「……は?」
ジルは自分の熱が冷めていくのを実感した。
「結婚するなんてのは全部嘘だよ。確かにアリスは魅力的な女性だけど、まさか君から引きはがそうなんて考えてないよ。アリスを傍で守ってくれる人がどんな人なのか、確かめてみたかったんだ」
「っ! お前なぁ……」
ジルは一瞬で先ほどの反論を思い出し、急に恥ずかしくなった。
「でもこれで安心したよ。どうやら僕がいなくてもいいみたいだね」
「……いいや」
ジルはまだ解放されたわけではないが、あきらめたように目を閉じた。
「そこまで言えるお前も相当だよ。どうだ、俺らと一緒に来ねぇか? あの紅茶が毎日飲めたら嬉しいんだがな」
「それは、アリス次第だね」
ハッタはなんとなしに窓から外を見る。そして力が抜けたように両腕をだらりと下げると、ダイナが彼の膝から飛び降りた。それと同時にジルも解放される。
「まっ、それはそれとしてよぉ」
ハッタがその声に気付いて振り向く頃には、すでにその目の前にはジルの拳が迫っていた。
「余計なこと言わせんなよな」
一人が気絶した部屋で、ジルはダイナを肩に乗せてつぶやいた。
◆◆◆
宿の裏。季節の物ではない花壇が花を閉じた状態で並べられているスペースに、アリスは座り込んでいた。
「どうして、どうして今になってあいつに会わなくちゃいけないの……」
彼女の目から涙がこぼれそうになった時、ようやくグレースがその姿を見つけた。
「アリス! ここにいたんだ。探したよもう」
グレースはごまかすように笑いながら、アリスに近づこうとする。その手には、いつもアリスが身に着けているはずのカチューシャがあった。
「もうやめてよ、何も知らないくせに!」
アリスが膝に顔をうずめたまま叫んだ。その様子を見てグレースは一歩だけ後ずさりしたが、勇気を出してその隣に座った。
「何も知らないから、何か知りたいんだよ。アリスと、ハッタさんのこと」
グレースは、ハッタの作ったカチューシャをアリスに付けようとはしなかった。
アリスはしばらく動かなかった。しかし、彼女の口はその横を一粒の涙が伝うと同時に開いた。
「……もう。こんなことで、年下の子の前で泣いちゃうのね。私」
「何があったか、教えてくれる?」
アリスはグレースから目を背けたまま、何も言わずにただうなずいた。
「私がこの世界に来て、あの国の戦争を止めたいって言った時、あいつはとてもよろこんでくれたわ。軍の兵士は私みたいな子供には何もできないって言ってたけど、白の女王とあいつだけは私を信じてくれたの」
グレースはそれを黙って聞いていた。確かに、戦場に少女が一人加わったところで、何かが変わるはずもない。もしそれがアリスでなければ、きっとハッタにも理解されることはなかっただろう。
「それで、結構恥ずかしかったんだけど鎧の寸法を測ってもらった時、その時だけ城が攻められたの。まだあの頃は私の警備も薄かったから、すぐに敵兵が入ってきた。そしたらあいつ、ただの木の杖で槍の兵隊と戦ってさ。その時は誰にも勝てなかったけど、味方が来るまで私を守ってくれた。でもあいつが振り向いた時、何か所も槍で刺されて、服なんかボロボロで、それなのに『これで測らせてくれるかな』なんて言ってさ。私びっくりして、どうして夢の中なのに普通に戦ったのって聞いたら、あいつなんて言ったと思う?」
「……なんて言ったの?」
アリスの質問は、正確な答えを求めていなかった。ただグレースには、ここまで共に旅をしてきたジル以外の誰かには聞いてほしかったのだ。
「『そんなことしたらつまらないじゃないか』なんて、野宿のルール作った時のジルみたいなこと言われちゃって。だからあのルールを聞いた時、次にあいつに会ったらどんな顔すればいいかわからなくなったの」
「そんなの、普段ジルにしてるみたいに普通にすればいいじゃん」
グレースの答えは、というより問題を無視したような答えは、単純なものだった。アリスはグレースが元気づけてくれるために考えたものだと思い、笑いそうになった。
「そう簡単じゃないのよ。年頃の女の子ってのは」
「そう? あたし十一だけど、アリスほど悩んだりしないと思うな」
やはり年下のグレースには理解してもらえない。アリスはもうどうすればいいのかわからなくなった。
「そりゃ初対面の相手には、特に大変な時期だったら色々あると思うよ。でもさ、せっかくあっちから探してくれて、久しぶりに会ったんだから。笑顔で応えてあげようよ。話聞く限りだと、ハッタさんかっこいい人だし」
「……そういう問題じゃないのよ」
いや、だからこそなのだ。アリスが何かを振り払うように首を横に振ると、グレースは構わず彼女の前に移動して、顔を上げた時に目が合う位置までしゃがんだ。
「でもさ、死んじゃったら、特にこの世界では目が覚めたら二度と会えないんだよ? 過去に何かあったとしても、せっかく会えた時にそんな風にされたら悲しいじゃん?」
アリスが驚いて顔を上げた。この場で死という単語を出されるとは思わなかったからだ。そして思い出してしまった。白雪姫の国で考えた答えのない疑問を。この世界における死の定義を。その顔は、悲しさと迷いに包まれていた。
「あたしね、現実の世界には家族がいないの。みんな病気で死んじゃったから。でも最後に引き取ってくれた孤児院の人たちはとても明るかったよ。みんな、別れることの悲しさを知ってるから」
グレースの穏やかな顔は、ジルのごまかすような笑顔に重なって見えた。そしてアリスは、自分の未熟さを知った。自分を信じて守ってくれたハッタも、この夢から覚めてしまったらきっと二度と会えなくなる。ならばそうなる前に少しでも明るく接しなければならないのだ。アリスは気付いた。それが、この世界に来てしまった人の、悲しい決まりなのだと。
「あたしは現実に帰りたいと思ってるけど、アリスやジルが嫌いなわけじゃないよ。現実に帰っても、きっと会えるって、多分無理だけどそう信じてるから」
あまりにも曖昧な、しかし確かなグレースの覚悟を前にして、アリスは立ち上がらざるを得なくなった。
「生きているなら、なんとかなる。か……」
その場から立ち去る途中、アリスは無意識にそんなことをつぶやいた。
「それ、誰のセリフ?」
後から立ち上がったグレースの質問に、アリスは一度だけ振り向いて答える。
「私のセリフよ」
その顔には、強気な笑みが浮かんでいた。
ハッタの変態さが炸裂する回だったと思います。ちゃんと伝わっているか不安ですが。
ところで、以前ハッタはジルより後に白雪の国を出ましたが、この町ではハッタの方が数日先に着いていましたね。どうやら川沿いを進む作戦は遠回りだったようです。