無意識の暗示による人間の認識の構築 結晶を探して 永遠なる創造者
Ⅰ 無意識の暗示による人間の認識の構築に対する敵対者
奴隷の収める国、背教の徒の住める国、異教徒に侵されし国、卑賤者の満つる国にすむなかれ。
法を破った者、白痴、驕れる者、下賎、墓掘り人と交わるなかれ。
なかばを超える民が奴隷であり、無神論者に満ち、再生者を失いし国は、飢えと病に苦しみて速やかに滅亡す。
御巣高山より30年
彼は8月1日の習志野駐屯地の夏祭りの中にいた。
すでに30年前の出来事など覚えている人などは少なく、事故当時にここの空挺部隊が救助にあたった事など記憶の彼方に追いやって久しい。
思い出すのはかつて、母方の祖父祖母の田舎に帰省していたときの事だ。静岡県の山奥で豊橋駅から飯田線で山に向かって乗って行き、2時間位かかる。家は昔からあり、小さな集落があった。山を所有し斜面に畑、茶畑、戦前は川原に近いところで田んぼやっていたり養蚕を屋根裏部屋でやっていた。昭和の40年代は鶏をやっていたがその当時は鶏舎だけですでに廃業していた。昔は大家族で彼の母方の兄弟逹が集まるその家族も含めて15人位は集まった。そんな、昭和の夏の1日であった。
その日の夕方、近くの川で泳いだ後、子供逹はアニメ番組「装甲騎兵 最低野郎」を見ていた。その時、テレビにニュースの緊急速報が流れた。「日航123便墜落!」
墜落事故の続報はなかなか伝わらず、周りは奇妙な、不可解な空気が流れていた。8時頃、速報にて「自衛隊員が銃撃を受けている」周りの一人は何が起こっているんだと当惑した。
依然として、救助部隊の到着や負傷者の収容などの情報は流れず、時間だけが過ぎ、お盆休みの夜は過ぎていき、その夜が飲み込んでいった。
その時、その闇の中に不可解な世界の中に彼が存在し、自分が意識している世界の外側に意味不明で説明ができない物であると認識した瞬間であった。たしかに、そこには未知な物が存在していただろう。それを呼び込んだのは偶然でありうる。それは自分自身に注意深くなっていたことが関係していた。
しかし、人の中にある、あるいは存在するであろう意識は水面下に沈み、その事は忘れ去られてしまった。
その後、テレビ、新聞、ラジオなどすべての報道で墜落事故の報道が伝えられた、繰り返し、繰り返し。
事故の詳細は今になっては少しでも調べればわかるだろう。連日、自衛隊員、消防団、各組織の人々は真夏の炎天下の中、山の奥深い場所で凄惨な事故現場で懸命な救助にあたった。搭乗人数の大半が死に生還者はたったの4人という前代未聞の事故であったと伝えられている。
これが彼の住む世界のニンシキである。
敗戦国は戦勝国の実験場
以前にマインドコントロールとは何かと言われていたがそれは狂信者、詐欺師などが狭い部屋で洗脳することではない。
それは繰り返し人の望む連想を繰り返し繰り返し聞かせればそれを人は信じる事である。
なにを人が望んでいるか、ずっと安楽な生活が続くこと、自分への称賛、自分の欲望が成就して、それがずっと続くことである。
普段、自分の考えを外の人が覗けるならそのような思考を発見できるかもしれない、それはできないが。
人は妬みや謗り「お金」、「愛」、スポーツ、大きな集団に属する事が大好きなのでそれを利用した暗示は効果的だ。
それが大多数が信じているTV、新聞、著名人などが繰り返し言っていればそれを事実にしてしまうだろう。
そこには科学の真実も法律も憲法もねじ曲げられる。
そういった事を念頭において現代史を見ていくといくつも疑問に感じる事件が幾つもある。
だれも見ざる、聞かざる、言わざるといった感じだ。まさに無機物の石になった如くだ。
人がなにを望んでいるか、それは集団としての欲望は機械的で石の如く無機物の如く、自由がない。
しかし、個人が求める意思、自由な意識の獲得を目的するならば
機械的な欲望から自由になれるかもしれない。
集団の運命から自由になれるかもしれない。
しかし、あくまでも可能性でほとんど不可能かもしれないが幸運なことに可能性だけはあるかもしれない。
つまり、無意識の暗示に対する敵対者とは機械的な欲望の思考の渦から這い上がる行動ではないだろうか?
機械的な思考(意思とは呼ばない)を打ち破るのは意識の瞬き、火花が必要だ。いかにそれに近づくのか?
それに近い物はいろいろと述べられたり話されていたりするがそれは「私」に定着できない。なぜならばそれは繰り返し経験をして自分の血肉にしなくてはいけないからだ。
火、光はあらゆる瞬間で自分自身を「聞く」ことだ、観察、眺める、俯瞰する。
その中で「(機械的な思考)奴隷、(自分に目的に対する)背教の徒、(自分の目的に反する人格)異教徒に侵されし国、(行動を起こさない為の自己憐憫、自己鎮静)卑賤者や法を破った者、白痴、驕れる者、下賎、墓掘り人」を自分の中に見いだすかも知れない。
そうすると何かが現れる。
そうして、その火花が何であるかを理解してその価値、いかに自分を燃え上がらせるかを理解すると卑金属から「金」へと変容が始まる。
それが石から意思へ変化。
自分の中に何かが蓄積するとそれが判断の基準、目的、意味になりうるかもしれない。
日本は外交、経済、貧困、社会の混乱などの問題が表面化して来ており、「私」は何を基準にし、何を信頼するかがわからなくなってきた。
なぜ、前世紀の悲劇がまた起こらないと思うのか?
人間は今も100年前も200年前も根本は変わらないのではないだろうか?
悲劇は周期的な集団の精神的な病気の様に現れる。
意識の進化は集団では出来ないことだが個人では可能かも知れない。
再生者は存在するのだろうか?
Ⅱ 結晶を探して
空の空 すべては空
日の下に新しき事は何も無し。
風は地表を巡るがまた同じ場所へ帰る
川は巡って海に流れ込むが雲となって同じ場所に帰る
しかし、人はその帰る場所を知らない
幾度と繰り返されたか
風を追いかけるのと同じことだ
すべては物憂い。
人は日の下で労苦するがそれが何のためになるのか?
日の下に新しき事は何も無し。
「私」は日常的に起こる事に飽き飽きとしていた。どんな事があってもどんな人に会ってもその時は面白いと思ったり、悲しくなったり、怒ったり、不安を感じたりはするがその印象はすぐに消え去ってしまい、生活がまた機械的に進むのだと漠然と感じていた。
ある時、知人に弓道をしてみてはどうかと勧められたが彼は特にスポーツには関心がなかったが勧めもあって自分で弓道場を探してみた。
探して自分の条件にあう場所が見つかった。練習時間が決められて、離れた距離の場所では学生であったしバイトもあったので通えないので1日中開いており、比較的近い場所の道場があったのでそこに行くことにした。
その道場は弓道会では有名な夫妻が指導しており、先代の時代から弓道会に影響があった人が指導している道場だった。
ということは通ってくる人達もいろいろな年代の人がいていろんな社会的階層の人が来ていた。子供、学生、社会人、老人、職人、医者、会社員、会社役員、社長、主婦、俳優、などである。
内向的な彼はこんな場所に来るのは初めてであるし戸惑っていたが、蹴躓いたり、泥を被ったり、ガタガタ、ゴトゴトと2年ほど通っていた。
まず、弓術が好きかと言われれば熱狂するほど好きだという訳ではなかったが、道場に行くと巻き藁という2メートルほど先にある物に向かって弓を引く。
体に注意を回して胴作り、体の十文字などを見つつ、リラックスをしつつ、自分の思考を「聞き」つつ弓を引く。
夫妻が居らっしゃれば、時々、弓の助言を頂き、また弓を引く。それを続けていく。それを繰り返す。
時々、繊細な注意力を体に感じたりするような事もあるがすぐにそれは消え失せたりする。
射場の板床の後ろの畳がある一段上がった所で座っている時も自分を「聞く」。
時々自分の周りに湯気のような物が見えたり感じたりする事もあった。
それを繰り返していた。
2年を過ぎたくらいのある日に彼は弓道場に来ていた。道場には道場主で男性の老先生と若い男性の会社員の人と、若い女性が来ていた。
若い女性とは何度か話したり、行き帰りにあった時は挨拶をしたりと面識あり、スタイルがスラリとして、可愛らしい雰囲気をしていて興味があり、好きであった。
その日はいつも通りに巻き藁に向かって弓を引く。
なぜかその日は彼女が気になって仕方がない、体に注意を巡らるすが彼女に思考と感情が行く。
思考と感情が不誠実な連携をしている様な感じだった。
そんな感じで弓を引いていたが、しばらくして彼女が弓を引き終えて帰って行ったがそのまま、彼は弓を引き続けた。
一寸すると彼女が忘れ物を取りに帰って来たが彼は後ろ髪を引かれるような感じで彼女の存在が気になっていた。
射場に立ち巻き藁ではなく的に向かって弓を引いていた時だ。
彼女に向かう「思考と感情」と自分を「聞く」事と体に注意を巡らす事を続けていた。
その軋轢が高まって来たときに急に回りの音が静かに感じ、思考がはっきりとし、自分が天と地の間の柱になった様に地から天へまたは天から地へとエネルギーが流れる様な感覚を覚えた。
そのまま、弓を引くと自然に会になり、矢はすごい勢いで飛んでいき的の真中に当たった。
後ろでは老先生が「おう!」と聞いた事が無いような声を上げていた。
こんな声を聞いたのは2年弓を引いてても初めての事だった。
ふと、彼は自分の足元を見ると小さな「結晶」落ちていた。
彼女はそのまま帰っていった
しかし、経験した感覚が非常にまれな印象であり、彼の中に響いていた。
その後、彼女は同じ大学を通っていた男性と結婚する事になったという事を後で聞いたのだが、あの時はそれを何かの理由で感じ取っていたのかもしれない。
この場合は以前からの繰り返した「聞く」事が積み重なって、その時、自分の中の能動的な力と受動的な力を自分の中に作りだした事によって、火花、光の様なものが現れて科学反応の様に心理的に内部が変化したのだと思う。面白い事に体の使い方の変化もあったようだ。
だが、それはその場の一時的なものである。しかし。記憶は残っており、思い出すことで何時でもその「響き」を感じることができる。
さて、「結晶」を発見しに行くとしよう。
Ⅲ 永遠なる創造者
人は島では無い、人は島では無い、人は大地の一部であり大陸の一片である。
だから、誰が為に鐘が鳴るかと尋ねてくれるな、鐘はすべての汝のために鳴る。
我々の可能性はあるとも言えるし無いとも言える、その可能性はいかにして人生の中にある機会を有効に活用するかにかかっている。それは受け取られるか、受け取られないかにかかっている。
一人一人に機会が与えられているがそれは単に儲かる、愛が得られる、尊敬されるなどの問題ではなく、その中で個人的な葛藤を通じて高次の物質の結晶化にかかっている。
その葛藤は憎しみ、怠惰、憤怒、傲慢などの巨人を打ち倒す英雄的な戦いに通じる。
英雄には宿命的な戦いがあり、その中で新たな力を得る。
意識的に苦しまなければ、その中に私が存在しなければならない。
その中で永続するモノの片鱗を感じることが出来れば幸いである。
その結晶化のシステムは古い文献の中に埋もれているかもしれないし、普遍的であるかもしれない。
しかし、人は傲慢と偏見の狭い世界の中に住んでいるのでその影響に触れたとしてもその価値を判断することはできない。
そこでもまた、人が陥っている機械的思考や感情の繰り返しは周りの人や読んだもの、聞いたもの、見たものの影響が存在する。その情報は正しいか正しくないかなど関わりなく積み上げられる。また、幼児の頃から周りの人の感情を模倣し始める。そうして出来上がったのが「私」である。そこに意識の瞬きは存在するのか?
人間の中で真に存在することを探求する人達が存在していた、その影響は彼が生きている社会や周りの人間や学んだことや聞いたことの中に痕跡にあります。それは機械的に繰り返す感情、肉体、思考の奴隷としての生活だけではありません。この方向へと向かう道に、理解が深まると、この価値を判断できるかもしれません。
リアリティや存在の探究に引き寄せられるようになるでしょう。
我らの存在はいろいろなものがごたまぜになっているが
探求のさきにはより精錬された思考感情や深い体の感覚を経験しその片鱗を見る。
日々の時間はその錬成に
無駄な努力は存在しない
了
Ⅰはマヌの法典から引用
Ⅱの冒頭は旧約聖書「伝道者の書」より
この章を読むとほかの部分とは違った印象を受ける。
深い感情から現れた詩歌のようだ。
「伝道者の書」を検索すると全文を読む事が出来る。
Ⅲはジョン・ダンの詩からです。
ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)』で有名ですね