第十五話 亀裂
空気が重く息苦しい。
だんだんと指の先端から体が冷たくなっていくのを感じる。
海は突き飛ばされて崩れたままの体勢の私をただ見下ろしていた。
その表情には感情というものを感じない。
日下部君が昨日、たしか機嫌が悪いっていってたはず。
でもこれは機嫌が悪いという部類ではない。
海の顔の精巧な仮面をかぶった他人ではないのか。
肌に突き刺さるような視線に、威圧的な空気。
――こんな海知らない。
昨日の事あやまらなきゃと思っても、風邪をひいて喉を傷めた時のようになかなか言葉を発する事が出来ない。
たった一言のごめんなさいを言いたいのに。
伝えたい事を伝えられない事が酷くもどかしい。
それなのに、心とは反して体が強張って仕方がなかった。
「……海」
やっと蚊の鳴くような声で出たのは、名前だった。
すると今まで微動だにしなかった海が、崩れたままの私を抱きかかえると、近くのイスに座らせてくれた。
「怪我は?」
首を横に大きく振る。
それを信じてなかったのか海は跪くと、怖くて握りしめていた掌をゆっくりと解き怪我をしていないか見た。
掌を見終わると今度は膝を見ようとしたから、そっと海の肩にふれてそれを制止さる。
妙に心配症なところはいつもと同じみたいだ。
この間も包丁でほんの少し指を切っただけなのに、傷口からばい菌が入るかもしれないからと消毒をされた上に絆創膏を貼られてしまった。
その後、紙で手を切ったぐらいの深さだから放置しておいても平気なのにって言ったらものすごく怒られたっけ。
そんな事を思い出してたら、こわばりが少しずつ取れてきた。
「ありがとう。大丈夫だから」
良かった……。ちゃんとしゃべれる。
海は肩を掴んでいた手を外すと、両手で優しく包んだ。
「俺が居るから帰りたくないって電話口で言ってたよな?」
うっ。やっぱり聞こえてたんだよね。
「あれはどういう事だ?」
それを言ったら海と片桐さんのキスシーンを見ちゃった事を言わなきゃいけなくなっちゃうじゃん。
嫌だよ。海の口から片桐さんと付き合ってるなんて言葉聞くの。
「今日はちゃんと家に帰るから」
「答えになってない」
じゃあ、言えばいいの?
気になるから、片桐さんと付き合わないでって。
……そんなエゴ的な事言えないよ。
「ねぇ、海。なんで私と住んでるの?」
一瞬包んでいた手がピクリと動いた。
「お父さんに頼まれたから一緒に住んでいるの?」
「――そうだ」
そう答えたのを聞いた瞬間、何もかもがもうどうでもよくなった。
もういいや。
答えはこれで正解なはずなのに、それが酷く悲しい。
私はそれ以外の理由が聞きたかった。
だってまるで義務みたいじゃん。
「……わかった」
だから、私に優しかったんだね。同居人だから。
私と住んでるのも、頼まれたから仕方無くなんだ。
思考はマイナスのほうばっかりに傾いていく。
「もういいよ。私一人で大丈夫だから」
「桜音それは、一体どういう意味だ?」
「わかんない?」
「とにかく、こっち向け」
俯いてた顔を無理やりあげられそうになって、思わず伸びてきた手を弾いた。
「触んないで」
止めてよ。瞳に溜まった涙を流さないようにしているんだから。
顔をあげてしまったら、バレちゃうじゃんか。
「もう、海とは一緒に暮らせない」