一話
懐かしい夢を見た。幼い頃に毎日のように見ていた夢だった。何年も見ていなかったせいで、見ていたことすら忘れていた。名前を呼ばれただけの夢だったけど、ずっと見ていたくなるような甘い蜜のような夢だった。久しく感じていなかった喜びに満たされた一方で、名前を呼んでくれた相手の名前を呼び返せなかった罪悪感もある。早く思い出して今度は呼び返してやろうと、ベッドに横になったままそんな事を考えていた。
◇
チュンチュンと鳥のさえずる声が耳に入ってくると、夢心地だったのに一気にいつも通りの憂鬱な一日が始まったのだと気分が沈んでいく。母さんが朝食を作っている音が聞こえる。きっと父さんはコーヒーを片手に新聞を読んでいいるだろう。遠い記憶にある朝の風景がぼんやりと浮かんでくる。そこに俺と弟の智輝の四人で一緒に朝食をとるのが当たり前の光景だった。だけどいつからか俺にとって、その当たり前の食卓の席に着くのが嫌になった。俺に話しかけてくれていた母さんが弟の智輝にしか話しかけなくなった。父さんはもとからしゃべる方ではなかったけど、目すら合わせてくれなくなった。そこにいるのにまるで存在していないかの様に過ぎる時間が苦痛だった。両親の望んだ通りの道を進めなかった俺が悪いのか。俺は俺なりに頑張った。その頑張りすら、無かったかの様に扱われたのが悲しかった。
下から智輝を呼ぶ母さんの声が聞こえる。それに答える智輝の声も。智輝は俺より頭も良ければ運動もできる。両親の望んだ高校にも合格した。きっとこれからも二人の期待に応えていくのだろう。自慢の息子として。そんな事を考えているとコンコンとドアをノックする音が聞こえる。これは俺が朝食に顔を出さなくなってしばらくたってから、何回もある事だ。
「兄貴、母さんがご飯だってよ。起きて下に来なよ。」
智輝がそれだけ言って下に降りていく。最初の頃は俺が出てくるまでしばらくドアをノックすることもあったが、今では無駄だとわかっているのか一言いうとすぐに行くようになった。両親に無視されている俺を憐れんででもいるんだろうか。正直ほっといてほしい。弟に同情で声をかけてもらっているなんて惨めだ。一緒に下に行くなんでできるはずない。行ったとしても母さんと父さんがいい顔をしないだろう。空気を悪くするだけだ。俺がいない方が良いんだ。俺がいない方がきっと三人にとって平和なんだろう。もうじき家に誰もいなくなる。そうすれば……。
◇
今の俺には部屋にいることですら苦痛だ。母さんが父さんと智輝のために掃除する音が嫌い。二人のために料理をしている音が嫌い。はっきりとは聞こえないけど三人で楽しそうに話している音が嫌い。嫌いな音が聞こえてくるこの家が嫌いだ。だから俺は外に逃げるようになった。それがダメな行動だとどこかでわかってはいても、それしか俺にはできないから。
階段を静かに降りて玄関に向かう。すると靴箱の上には札が数枚置いてある。これが俺が生きていくための金だ。働きもしない息子に預けるために、母さんはここに金を置いていく。死なれると困るからなのか。何にしても、情けない。本当に情けない奴だ、俺っていう人間は。悔しくて、惨めで、だけどそれにすがるしかない自分に涙が出そうになる。だが、本当に泣きたいのは母さんや父さんだろう。俺が泣くのは違う。靴を履き、パーカーのフードを頭に被ると鍵を閉めて足早に家を離れる。近所付き合いがあるここら辺も居心地が悪い。俺は俺を知っている人がこわい。今の俺を見て、何か言われるのがたまらなく怖いんだ。でも、決して一人でいたいわけじゃない。だから俺は、俺を知らない人がいる場所に行く。俺の居場所はなくても、俺は一人じゃないと思えるから。
主な移動手段である、自転車を置いている駅前の駐輪場に足早に向かう。誰の目にも留まっていないことを祈りながら。




