プロローグ
―トウヤ―
自分の名前を静かに呼んだそいつは、いつも長い前髪であまりはっきり顔が見えなかった。それでもいつも自分の隣にいてくれて、一緒に遊んで、親にも話したことのないような相談をして、色々な事をたくさん一緒にしてくれたその子を、自分は弟の様に、友の様に、もう一人の自分の様な、掛け替えのない存在だと思っていた。ずっとずっとこの関係が続いていくと信じて疑ってなかった。会えなくなるなんて考えてなかった。
そういえばあいつに会えなくなった頃から俺の孤独が始まった気がする。すべてがうまくいかなくなった。両親の目が冷たくなった。大好きだった弟に恐怖心を抱き、嫌いになった。
あいつがいなくなったことで駄目な俺になったのなら、あいつにまた会えるようになればまともな俺になれるだろうか……。
いや、無理な話だとはわかっている。会ったとしても何かが変わるはずもない。だってそいつは俺が見る夢で会っていた人物なのだから。そいつはたぶん、俺が頭の中で作った空想の存在だ。そんな人物にすがる俺はなんて駄目な人間なんだろうか。
―トウヤ―
また名前を呼ばれる。そいつは最後に会った時よりも若い姿をしていた。俺達が初めて会った時の様な幼い姿だ。
―トウヤ―
その呼び掛けに答えなければと声を出そうとする。そこでハッとする。こいつの名前はいったい何だっただろうか。あんなにたくさん呼んでいたはずなのに、まったく思い出せない。
そいつは俺が名前を呼び返せないのがわかったのか黙り込んでしまった。もっと俺の名前を呼んでほしかった。そうすればこいつの名前が思い出せる気がしたから。だけど俺の願いもむなしく、そいつは俺の名前を呼んではくれなかった。
白い光があふれてくる。この現象は小さい頃から何回も経験した。もうすぐ夢が終わる。俺は名前を呼ばれないことの悲しさを知っている。最後に一回でもいいからこいつの名前を呼んでやりたい。必死に口を開けるも、肝心の名前が出てこない。そんな俺を見て、そいつは怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ穏やかに一言、
―トウヤ―
そう言った。そこで俺の目の前は白で埋め尽くされた。結局、俺はそいつの名前を呼んでやることができなかった。長いこと呼ばれることのなかった、俺の名前を呼んでくれたそいつの名前を、俺は呼んでやれなかったのだ。久しぶりに呼ばれた自分の名前に静かな喜びを感じた。嬉しかった。
確かに会ったからといって何かが変わる事はないだろう。でも、長く感じていなかった喜びを、俺は感じたのだ。今度また会えた時は感謝の気持ちを込めてあいつの名前を呼んでやろう。それまで絶対に思い出さなければ。そんな決意を胸に、白い光に身をゆだねた。