間接キスは期待の味
────ふと、宙を見上げた。
宙を埋める漆黒の海。夜を流れる白雲の波。黒海に揺らめくは、大輪の白貌。
寄せては返し、夢幻に煌く星々。
森林に囲まれた大地から海を仰ぎ、私は呟く。
ああ────今宵も満月は、美しい。
黒海の下、夜の紅魔館。私はテラスで、彼女と対面する。
「月を見上げて、どうしたのかしら?」
「……レミリア」
私は彼女の名前を呼んだ。紅魔館の主、レミリア・スカーレットの名を─―愛しさを込めて。
彼女はテラスの傍に用意された純白の四脚椅子に腰をかけ、同じく純白のテーブルへ両肘を立てた。
彼女は自身の艶やかな白い手先を絡ませ、その上にちょこんと顎の先をのせ、高貴な笑みを浮かべた。
「ほら、そんなところにいないであなたも座りなさい。折角、夜のお茶会をするんだもの。月に見惚れるなら、私と共に。それではだめかしら? ねえ、さとり」
「ええ。私も月に見惚れるならあなたと一緒がいいわ、レミリア」
テラスの柵に預けていた体に力を入れ、ゆったりとした足取りで彼女の元へ歩く。
一歩進めば顔が紅潮し、一歩近づけば胸が高鳴る。どれだけ心を落ち着かせようとも、私の体はレミリアへの愛に従順だ。理性で本能を抑えられない。
席に私が座ると、レミリアがテーブルの横に置かれたベルを鳴らした。
風と、草木のざわめき、虫の合唱。それまで夜を彩っていた音階に、新たな音が現れた。りんりん、と鳴るベルはどこか心地よく私の心にすとんと落ちる。
私にとってどんな音も、レミリアが奏でる音の前では霞んでしまう。
私がベルの音に聞き惚れていると、目の前に館のメイド長が現れた。
彼女はレミリアと私の前に紅茶とケーキを置き、レミリアの命によりその姿を消した。
「私のケーキはビターチョコ。あなたのケーキはイチゴのショート」
「『あなたの好みは周知済み』ですか。そうですね。わたし、イチゴが好きなんです」
レミリアの心は私の好みを的中させた喜びでいっぱいだった。吸血鬼特有のカリスマを持ちうる彼女だが、どこか幼い印象も受ける。ある意味、感情表現が素直なのだ。
その素直さをカリスマでひた隠そうとする姿は、まるで自身の幼さを恥じる成長途中の乙女。表面に出る面と心を覗いて見えた面。二つを垣間見て、私は思う。やっぱり、彼女はかわいいと。
「……、何ニヤニヤしてるのよ」
「あら。ニヤついていましたか。それはすいません」
「ニヤつきをニコニコに変えても同じよ。いったい何が楽しかったのよ」
「さあ? 当ててみたらどうですか?」
私がくすくすと一人で楽しげに笑っていることが気にくわないのか、レミリアは表面上ではにこやかにしているが、裏では少しだけ剥れてる。
素面が冷静なのに心の中で膨れっ面という差が凄くて、余計にかわいいです。これでニヤつくのをやめろと言うのが、無理な話。
「まぁいいわ。ほら、折角咲夜がもってきてくれたんだもの。食べましょう」
「そうですね。早く手をつけてあげないとレミリアが食べれませんもんね」
「な、なんのことかしら?」
「『客人より先に食べてたら食いしん坊にみられないだろか』。ふふ、そんなレミリアも可愛いので私としては大歓迎ですよ?」
「う、うるさいわね。私ほどカリスマであふれている吸血鬼でも考え事くらいするのよ」
そういってそっぽを向くレミリア。
彼女はわたしが心を読めることを知っているのに、毎回こういう反応をする。
心を読まれて平気な存在、人間にしろ妖怪にしろ、珍しいのは珍しい。だけど、それだけだ。レミリアように、私が心を覗いて口に出した言葉一つ一つに反応してくれる人はそうはいない。
私が相手の心を覗いて一方的に話すことが原因ではあるけれど、それは私の性分。だから、仕方ない。それを前提において、こうして楽しくお話できるのは彼女くらいなもの。だから、私は彼女のことが好きだ。彼女を除く私を恐れず、きちんとこちらを見つめて話をしてくれる彼女のあり方が、大好きだ。後、彼女は可愛い。それはもう、ずっと愛でていたくなるほど。
さて、彼女が本当の本当に拗ねてしまわないうちにケーキを食べましょう。
フォークでケーキにそっと差し入れると、何の抵抗もなくすっと一口サイズにカットできた。それを口の中へ運ぶ。その瞬間、私の口の中でクリームが蕩ける。それがふわふわのスポンジと小さくカットされたイチゴに絡みつき、ほのかな甘みと酸味、やさしい口溶けを届ける。まるで、好きな人と初めて手をつないだような、そんな、ほのかで優しい、幸せな甘さだ。
「ふふふ、気に入ってもらえたようね」
「ええ。おいしいケーキです。さすが、レミリアのメイドさんですね」
「ふふ。咲夜は私の自慢の娘よ。このくらいできて当然だわ」
レミリアは館に住むものを、家族と評する。血縁の妹は間違いなく家族だろうが、彼女はメイド長や門番、図書館の魔法使いに小さな悪魔、はては館で働くメイド妖精たちも家族と言う。もしかしたら、彼女を気に入った理由には、そういったところもあるかもしれない。私も、地霊殿の皆は家族だと思っているから。
「あ、さとり。折角だからケーキを交換しましょう。違う種類のケーキがあるのだもの。片方の味を知らないだなんてもったいないわ」
「はいはい。甘いケーキも食べたいですもんね」
「なっ!? ち、違うわよ!」
ほらまた。私が心を覗けることを知っているのにこうしてすぐに言葉を返す。こうしてレミリアと会話していると、案外私も、普通の会話に憧れていたのかもしれない。
「はい、レミリア。ほら、そっちのケーキをください」
「む……。なんだか納得いかないけど、はい。どうぞ」
微妙な表情を浮かべたままレミリアがケーキとフォークを一緒にのせてこちらに渡してきた。
それを受け取り、レミリアも私が渡した皿の上のフォークを持ったのを見て、二人互いのケーキを口に入れた。
イチゴのショートケーキとはちがって、ビターチョコにはまた違った味わいを感じた。と、そこではたと使っていたフォークに目を落とす。
無意識にお皿もフォークも交換していた自分を思い出し、これがレミリアが使っていたフォークだと認識する。
――――途端に、恥ずかしくなった。
「ん。どうかしたかしら?」
「い、いえ。な、なんでもないです」
「そう?」
き、気づかれるわけにはいかない。間接キスで少し動揺しているなんて。ああ、でも。一度頭にその言葉がよぎっただけで顔が熱くなる。言葉では好きだのなんだの言えるのに、こういう少しでも行動的なものになると私は途端にダメになる。ああ、どんどん顔が熱くなる。夕日も、紅い月もでていない今じゃ言い訳はできない。
だいたい、どうして私はフォークごとお皿の上のケーキをレミリアに渡してしまったんだろう。レミリアも、なんでフォークまで受け取ってしまったのだろう。
もし、確信犯だったりしたら……。
そう思うと、彼女の心を覗かなくてはという衝動に駆られる。おいしそうに再びショートケーキを口に運んで、フォークのクリームを小さくて可愛く、綺麗な口でペロリとなめとるレミリアが視界に入る。その動作に、いいようのない感覚を覚える。思わず、自分の唇に手を当ててしまいそうになるのを押さえ、彼女の心を覗く。
――――ど、どどどど、どうしましょう。これさとりのフォーク、か、間接キス? これ、間接キスよね!?
……まずいです。心を覗いたら余計顔が熱くなりました。なんですか。なんで彼女まで同じように動揺してるんですか!? いつものカリスマはどこにいったんですか!?
「ねぇ、さとり。顔が赤いようだけど、どうかした?」
――――こ、ここは冷静に。冷静にならなきゃ。大丈夫。大丈夫よ、私。たかが間接キスよ。
レミリアの慌て様がこちらに直接伝わってくる。向こうが焦る程、こちらが余裕を持てる……なんてはずもなく、私もまた慌てていくだけ。だって、彼女が間接キスを意識しているのをみると、私に気があるんじゃないかと思ってしまうから。
レミリアが私のことを気に入っているのは知っているけど、それと気があるかどうかはまた別の話。そして、彼女は私の気持ちを知らない。だから、私は彼女の心の動き一つでこんなにも心を乱してしまう。
「さとり? ねえ、さとりってば」
「は、はいっ!? な、なんですか?」
「ずっと黙って、どうかしたの? ビターチョコはあわなかったかしら?」
「い、いえ。そんなことはないですよ……」
レミリアの冷静な言葉に私はまた動揺する。でも、それも少しの間だけ。すぐに、レミリアの声が聞こえてきた。
――――ふふふ。完璧だわ。私は冷静。私は冷静になれているわ。大丈夫。大丈夫なのよー!
彼女の心の中では大丈夫と思えているらしい。なかばやけくそのようにもみえるけれど。その姿を見て、動揺していた私の心が落ち着いた。彼女のいちいち可愛らしい心の動きは、どうやら私の心を落ち着かせる効果でもあるようだ。そして、落ち着いた心でふと一つの期待が生まれた。
こんなに私との間接キスだけで動揺してくれるなら、本当にキスをしたらどうなるだろうか。彼女とのキス、いったいどんな味なのだろう。
「さとり。ケーキを返すわ。こっちはあなたの好きな味だもの。もっと味わいなさい」
「……ふふ。ええ、ありがとうございます」
そんなこと、考えても仕方なかった。レミリアは私の気持ちを知らないのだ。キスの味なんて、どれだけ想像してもこれから先知ることなんてない。
ああ、でも。間接キスの味なら私は知ることはできたんだった。そう、間接キスの味は――――、
――――そう、きっと……キスを期待する味だった。




