人魚姫
「帰りたい……」
青年は幾度目かわからない溜息をついた。
あの後、洋風な白い石造りの建物から出てきた人魚たちは彼をを取り囲み、たちまち建物内へと連行し――鯛と水龍は普通に歓迎されていたようだが――わけもわからぬうちに小部屋に一人で閉じ込められた。人魚たちに話しかけようとしたが、何か喋ろうとすると武器(確かトライデントとかいうのだったか)を突きつけられるので断念した。運営め。建物の中も水が充満していて、まるで服を着たままプールの底を歩いているようだった。相変わらずの寒さに変わりはない割に、現実の深海に存在するという水圧のようなものは感じない。いったいどういう基準でどこまでリアル準拠にしたのかわからない。
「俺、帰れるのかな……」
扉は鍵がかかっているのか開かない。部屋に閉じ込められてからログアウトを試みたが、ここはログアウト不可エリアらしい。どうしろというのか。ここまで来ると、死亡することで一番最後に入った町に戻る、いわゆる『死に戻り』くらいしか脱出方法が思いつかない。ギルドや個人の拠点に転移する術もあるらしいが、ゲーム開始初日の彼には拠点なんてものはない。
だが、このゲームでは痛覚は半分くらいまでしかカットされないし、そもそも進んで自殺したい人間がそんなにいるだろうか。
『死に戻り』はゲームの中といえど、最終手段なのである。
「ていうか、これ、イベントなのか? こんなの聞いたことないぞ……」
ゲーム内の仮想ウィンドウで掲示板やWikiを必死で漁りながら、青年はぼやいた。
この際、スレでもたてて広く情報を募るべきだろうか。幸いSS機能はこの場所でも制限されていないようだ。
もっとも、釣りスレ扱いされ、まともな情報が手に入らない恐れがあるほど信じがたい状況ではあるが。そもそもこの時間帯は皆冒険に出かけている時間である。スレを覗いている暇人などいるだろうか。
トントン、と扉をノックする音が聞こえる。
「っ、はい!」
大急ぎで多重展開していたウィンドウを閉じ、返事をする。ここは下手に抵抗しない方がいいだろう。
鍵が開く音、扉が開く音とともに、扉から鯛が顔を出す。どうやって開けたのか非常に気になる青年だったが、細かいつっこみはしないことにした。
鯛は扉から中を覗いていたが、しばらくすると引っ込んだ。続いて2人、知らない人物が部屋に入ってくる。
1人は人魚だった。非常に美人な女性である。それまで見かけた人魚より、身に着けた装飾品が多い。
もう1人は厳しい顔つきの老人、こちらは男性である。衣装覗いた素肌のところどころに鱗があるが、2本の足がある。人魚ではないのだろうか?
「あなたがうちの侍女と契約した召喚士ですね?」
人魚のほうが口を開く。この個体だけかもしれないが、人魚も人間の言葉をしゃべれるらしい。若干偉そうなその口調からすると、仲間内では身分が上のほうなのではないだろうか。
「えっと、俺は確かに召喚士ですけど、侍女ってなんですか?」
「先ほどの鯛のことですが」
「え、はい、たぶんそうですけど……」
青年は返事するが、なんとも間抜けた言い方になってしまった。完全に雰囲気にのまれている。そして鯛は女性だったらしい。
「ていうか、その、おたくの鯛さんとは会話ができないので事情が全くよくわからないんですが。なんで俺はここに連れてこられたんでしょうか?」
なんとか質問をしてみる。
すると老人と人魚は盛大に溜息をついた。
「さっぱり状況がわかっとらんようだの……」
「本当に初心者なんですね……」
ゲーム開始初日だというのに酷い言われようである。運営め。
青年はちょっとキレそうになったが我慢した。
「確認しますが、あなたがあの鯛が人間に食べられそうだったところを救ったというのは本当でしょうか?」
「あー、確かにもうちょっとで刺身になりそうでしたね……」
「その後、海まで逃げたところで釣り人に襲撃されたというのは……」
「泳いでるところを釣りあげられて、追いかけられてました」
官憲に事情聴取されるとこんな感じなのだろうか。
青年は半ば遠い目をしながら質問に答えていった。
「ふむ、2人の証言は一致しておるし、まあ本当なんじゃないかの」
「そうですね」
老人と人魚は勝手に何やら納得しているようだが、青年としては何もかもが納得できないままである。大体、なぜドラゴンに乗ろうとゲームをはじめたら海の底に拉致されなければならないのか。誠に遺憾である。
「鯛さんがここの人だというのは分かったんですけど、なんで俺までここに来ないといけなかったんですかね? それにあんたらどちら様ですか」
青年の口調もすでにキレ気味である。
「彼女があなたをここに連れてきたのは、釣り人達から逃れるためだそうです。そこそこ高位の冒険者たちだったようですので。ここなら許可のないものは近づけませんしね」
「ここはいったい何なんですか?」
「ここは海の女神イリーン様の神殿です。陸上にも何か所か神殿がありますが、ここが本拠地なのです。私はここの巫女をしているアリーシャです」
このゲームは物語の背景として、神話だの伝承だのが結構細かく設定されているらしい、ということは青年も知っていた。世界各地にある神殿で祈るとそれぞれの神の加護によりステータスが強化されるらしく、その内容で神の人気に差があるとか、ロールプレイの一環として神に祈ったり、神の名にあやかったギルドを立てたりする者もいるとか。しかし、自分がいきなり核心すれすれの場所に投げ込まれるとは思わなかったが。
「儂とはさっき会ったじゃろ……」
「えー……?」
こんないかにもな爺口調で喋る厳つい老爺との面識など青年にはない。
「お主、さっき儂の目の前で震えとったじゃろ!」
「…………さっきの水龍?」
そういえば、高位の人外NPCやモンスターは人型に化けることがあるらしい、という話を聞いたことがある。
しかし、普通に人語を解するなら、なぜ先ほどは普通に会話せずに睨み合いになったのか。
「儂は水龍族の長をしておる、*****じゃ」
「えっちょっと今なんて言った?」
「*****、じゃ」
青年は奇妙な音の羅列に首をかしげる。流れからして名前なのだろうと思うが、聞いたことのない外国語で喋られたような感じがする。
「人間に龍の言葉は難しいらしいですよ」
「……とりあえず、長老様でいいですか」
「ぬう…」
恐らく大変重要なNPCと面会しているのだろうとは思う。思うが……全くうれしくなかった。
「とりあえず、あなたが侍女と契約し、名前まで付けてしまったことは、もう仕方ありませんので許可します」
いかにも頭が痛いような顔でいう人魚だが、何様だろう。そういうセリフはせめて陸上活動できるやつをよこしてから言ってほしい。
「? 名前って……まさか鯛子か……」
その場の勢いとは恐ろしい。もっと余裕があったら色々名前の考えようもあったろうに。
「一応呼吸はできるようにしてあるようですが、今のままだと不便でしょうから、水中でも動けるように女神の加護を与えましょう。この部屋を貸しますから、しばらくはここを拠点にすればいいでしょう」
「えっ」
「何か?」
「な、何でもないです」
許可が下りたからだろうか、この場でのログアウトが可能になったのはいいが、正直な話、こんな恐ろしいところに住みたくない。しかも、海底が主な活動の場となれば、ボッチ確定である。それに、いちいち怖い思いをしてここまで来ないといけないと思うと…今すぐキャラを作り直したい衝動に駆られる青年であった。
「あと、陸上にも連れて行けるように、これを授けましょう。腰にでも下げておきなさい」
「壺?」
大人の握りこぶしくらいの大きさの蓋付きの壺であった。壺の首のところに紐がついている。
「これに海水を入れて、彼女を入れれば陸上でも平気でしょう。中の水はこぼれないようになっている優れものです。直接戦闘はできませんが、術による支援ならできるはずです」
いわれるままに壺を腰に下げたのはいいが、貧相な初期装備と相まって、見た目が酷いことになっている、気がする。恥ずかしくて人前に出たくない系ファッションである。
「儂からはこれじゃ!」
水龍の長から渡されたのは冊子『簡単!龍語入門』。練習帳と鉛筆もセットだった。名前を覚えられなかったのが余程悔しいらしい。というか、このゲームは他種族の言語は体で覚えなければならないらしい。そこまでリアルを追求しなくてもいいだろうに。
「あと、これは明日以降でもよいので、陸にあるイリーンベルグという町の分殿に、この手紙を届けてきてくださいね」
「えっ」
「それから、私のことはアリーシャ様と呼ぶこと」
「ええっ」
「えってなんですか」
「すみませんなんでもないです」
結局様々な面倒事を押しつけられて、初日は終了したのだった。
結局その日はその部屋でログアウトせざるを得ず、海の上に出れたのは翌日ログインしてからであった。
昨日の恐ろしい道を逆さにたどり、青年と彼を乗せた鯛改め鯛子はイリーンベルグという町に行くことになった。青年としてはその前に普通にレベル上げしたり《始まりの町》に戻って装備を整えたりしたかったが、巫女が怖いので依頼を優先させるしかなかった。泣きたい。
やっと見えた空を見上げる青年の目に、黒く大きなドラゴンが飛ぶのが見える。憧れの動画に出ていたような立派なドラゴンだ。
「すげえ、やっぱりドラゴンはかっこいいなあ!」
青年がそう言った途端、鯛の背から振り落とされた。
そして始まる鯛の体当たり。痛い。
「え、ちょ、かっこいいって言っただけじゃん!」
体当たり。
「でも、お前空飛べないじゃん!」
体当たり。
青年が
「じゃあ、ドラゴン捕まえたら一緒に乗ろう! 一緒に空中散歩すりゃいいだろ!」
というまで、鯛の猛攻は続いた。