残されたもの1 ~白銀~
窓の外に見えるエルキミアの情景は、まさに凄惨だった。
巨大闇魔からの攻撃を直接受けた区画は、建物が倒壊、炎上し、石畳は吹き飛ばされて、焼かれた土は焦土となって風に吹かれる。
その他にも、大群の闇魔の襲撃によって傷つけられた区画。炎に薙ぎ払われたの如く一部だけが燃え尽きた一帯もある。
闇魔のエルキミア襲撃から二日。生存者達の多くは住む家が奪われ、財産が奪われ、そして、守るべき尊い命が奪われた。
学園の土地は臨時の避難所として解放され、傷つけられた人々が寄り添い生活している。
己の身に降りかかった悲劇を嘆く者。傷を負った身体の痛みに呻く者。
多くの住民が家族の安否を確かめるために、魔術局などにも詰め寄せた。
この二日間で、多少は都市の混乱も収まって来てはいたが、それでも未だにここを訪れる住民も後を立たない。
そんな学園内の一室で窓の外を眺め続ける、白銀の髪の少女―レンナフェールがいた。
「―お兄ちゃん……」
▲▽
あの日の朝、いつも通り兄を見送ったレンナフェールは、まだ少し気怠い身体の疲れを感じ、寝室で仮眠をとることにした。
ちょっとした好奇心で入った兄、アルバのベッドは暖かく、どんな場所よりも安心できた。
気付いた時には時刻は昼前。名残惜しいが寝室を後にして、いつも通り、一人分のパンを捏ねて、焼く。
―その時、“それ”は起こった。
地が震える爆音と、家を揺らす突風。
立っていられないほどの衝撃がレンナフェールを襲ったのだ。
(なにこれ!? 恐いよ、お兄ちゃん……!!)
ガタガタ、と震えるテーブルを何とか捕まえて下に潜り込んだ。テーブルの下で、不安に押し潰されそうになりながら彼女は肩を抱き、縮こまる。
風は容赦なく室内を荒らし、吹かれた本や紙が壁へと叩き付けられ、やがて床に落ちる。
一度は止んだ地震と突風も、すぐに次の爆音が響き、更に大きな恐怖を運んできた。
(何が起きてるの!?)
テーブルの下から一向に出る事の出来ないレンナフェールは、このままではいけない、と行動することを決意する。
次第に冷静さを取り戻し、彼女はまず何をすべきかを考えていた。
まず、一刻も早く避難しなければならない。
しかし、いつまた爆音が響き渡るかも分からない。それでも、動かなくては。どうにかして、自分で安全を確保しなければならない。
―今、頼れる兄はいないのだから。
意を決して、テーブルの下から飛び出したレンナフェールは、素早く近くのキッチンから小さなナイフを取り出して、しっかりと小さな手に持った。
「自分の身は、自分で守らなきゃ」
あれほど大きな爆発音がしたとなれば、何か、エルキミアに不測の事態が起きているのは間違いない。
そして、この状況だ。彼女を襲う何かから身を守る手段は持っておかなければならない。という判断だった。
そのままレンナフェールは家を出るために玄関へと足を向けて、慎重に外へ足を踏み出した。
目的地は学園。避難所でもあり、兄が待っているはずの場所だ。
彼女が外で最初に見たのは、ボロボロと至る所が崩れた壁だった。何かが飛んで来てぶつかったのだろう、それほど大きく穿たれた石壁。
彼らが住む家の北には、ゴミ処理場がある。そこから何かが飛ばされてきたのだろう。
(―こんなのがレンに当たったら……)
一瞬でも想像してしまったのを後悔した。
レンナフェールは背筋に冷たいものが流れるのを感じながらも、足を進める。
何があるか分からない状況で、その場に留まっている事が、必ずしも安全だとは限らない。
―そして何よりも、孤独でいるのが恐かった。
学園までの道のりはそう長くはない。
ここは学生区画。その名の通り、学園に通う学生たちの為に割り当てられている区画で、学園に近いところに位置している。
しかし、この地区が親元を離れた学生達が住む地区である事が、彼女を不安に駆らせる一つの要因にもなっていた。
レンナフェールの様に、家族が同居をしている家はほとんどない。
しかも、学生は学園にいる時間帯ということもあって人がまったくいないのだ。
(誰か、誰かいないの……?)
未だ震えが止まらない足を強引に前へ前へと進めて行く。
もう家を出てしまったからには、彼女に取れる行動は一刻も早く目的地に辿り着くことだけだ。
学園前の並木道までもう少しというところまで来た彼女は、幾らか安堵の表情を浮かべていた。
(あと少し!)
不思議と足取りも軽い。
この地区を抜けて学園前の通りに出れば、少なくとも自分と同じ様にこの状況から避難しようとしている人がいるはずだからだ。
しかし、ふと自分の歩む道から少し外れた暗がりを見やったレンナフェールの歩みは、
ピタリ、と止まってしまった。代わりに足がどうしようもなく震え出す。
―赤い、腐ったトマトのように赤黒い眼が、暗がりから彼女を見つめていた。
まるで、拘束されてしまったかのように身体が動かない。
ただ、頭は理解し想像してしまっていた。己が身に降り懸かるであろう、最悪なシチュエーションを。
「ガフッ! グルァァアア!!」
ひっ!と短い悲鳴をあげて後退したレンナフェールの前に、ゆらゆら、と身体を揺らし現れたのは、犬型の闇魔、ナイトハウンド。
あまりその体躯は大きくないが、小さな少女を恐怖に陥れるには充分すぎる。
「やだ、やだぁ……。来ないで……」
「グルルルル……」
壁際まで後退し、遂にペタン、と座り込んでしまったレンナフェール。
なおも獣は彼女に歩み寄る。
ナイトハウンドがその気になれば、一跳びで彼女の喉を噛み切る事が出来る。そんな距離だ。
レンナフェールは、恐怖に震える手でナイフを落とさぬようにしっかりとその柄を握り締め、精一杯、ナイトハウンドへと刃先を向ける。
―それが“限界”だった。
ジリジリ、と、まるでレンナフェールの恐怖を煽る様にして近付いて来るナイトハウンド。
その口は、むき出しにされた鋭い犬歯で、目の前の少女の白く柔らかい肉を噛み切らんと唾液を垂らす。
しかし、少女に触れるあと少しのところで、その歩みは止まった。
レンナフェールは目尻に涙を溢れんばかりに溜めつつも、瞬きをしようともせずに、狂犬を睨み続ける。
視界がぼやける、それでも目を逸らさない。
(まだ、死にたくない!)
小さな少女が見せる必死の抵抗。それが、ナイトハウンドの歩みを抑止していた。
本能的な危機回避、ナイトハウンドが飛び掛かるのを躊躇したのは、レンナフェールの瞳に強い生への執着を見たからだろうか。
ゆえに―。
「レンちゃん、伏せるのだ!! 『風を操るは風精の許しなり。吹き飛べ』!!」
飛び掛かるのを躊躇した一瞬に、ナイトハウンドは学園通り側とは反対の道へと吹き飛ばされ、グッタリと倒れたまま動かなくなった。
タタタタッ、と小走りで近付いて来る音の主を、その声をレンナフェールはよく知っていた。
「―マ、マルシアさん……?」
ニャ!と駆け付けてきた猫耳女性が肯定するように頷いたと同時に、カラン、と彼女が握り締めていたナイフが、音をたてて地に落ちた。
身体全体からフッ、と力が抜けて、変わりに震え出した肩。
「怖かったよぉ……」
独りでいて心細かった分、今にも死の危険に晒されそうだった分、隣りに人がいてくれるだけでも、涙が溢れた。
マルシアはそんなレンナフェールの傍らに座って、スっ、と少女の肩を引き寄せながら笑う。
「ニャハハ! もう大丈夫なのだ。怖かっただろ? ほらっ、おいで。なのだ」
「うっ…うぇぇん! マルシアさーん……!!」
鼻を啜りながら自分に抱き付いて来る小さな少女の温もりを感じたマルシアは、より一層微笑みを浮かべて、彼女を抱き抱えた。
「さぁ行くのだ! 学園に行けば安全なのだ!」
レンナフェールを抱えたマルシアは、足早に学園への道を歩いて行く。
腕の中の大切な重みを、確かに感じながら、尻尾を左右に振りながら。
▲▽
ガラガラッ、と教室のドアが開いた音に気付き、レンナフェールは伏せていた顔をあげた。
その顔には一筋の涙の跡。
無理もない。彼女は、一日にして家族と―離れ離れになってしまったのだから。
レンナフェールの両親は、医学を専門とする魔術師であり、魔術局に所属していた。
二人は闇魔襲撃時に人身救護に奔走した。
しかし、幾ら魔術師だとしても、彼らの専門は医学。戦闘に特化した修行をしているわけではなかった。
結果、命を落とすことは無かったものの、意識不明の重態まで追いやられてしまった。
それに加え、彼女が学園に避難してから二日。
彼女の心の一番の支えであり、唯一無二の兄であるアルバが生存者に数えられる事はなかったのだ。
後から魔術局の人に聞いてみても行方が分からない。
レンナフェールの心は深く冷たい闇に沈みつつあった。
「レンちゃん? 大丈夫か?」
教室に入ってきたのはレンナフェールを窮地から救ったマルシア。
学園に彼女を送り届けた直後に何処かへ出掛けてしまい、この二日間会うことはなかった。
彼女とて魔法使いだ。この自体の収集の為に忙しく走り回っていたに違いない。
「っ、はい! レンは大丈夫ですよ?」
ゴシゴシと腫れた目元を隠す様に擦って、彼女はマルシアに笑顔を見せた。
レンナフェールが頼れるのは、必然的にマルシアと、限られた友人だけになってしまった。
二日ぶりに知り合いに会った寂しさをぶつける様に、レンナフェールはマルシアに抱き付く。
「おっと! ニャハハ。くすぐったいのだ」
マルシアも満更ではないようで、嬉しそうに―強く、強くしがみついてくる彼女の髪を撫でた。
そのまま、レンナフェールの寂しさを少しでも和らげようと、彼女は髪を撫で続けた。
マルシアは、レンナフェールの両親とは深い間柄にあった。それこそアルバを彼らに紹介し、引き取って貰うほどに。
もちろん、目の前の少女の事も、本当の妹のように思っている。
だからこそ、少しでも彼女の悲しみを払ってあげたかった。
少しして、マルシアはレンナフェールに話を切り出した。
「レンちゃん。これ…渡しとくのだ」
「!? これ、お兄ちゃんの指輪……」
「街中を探してみたのだけれど。アルバの家で、それしか見つけられなかったのだ」
マルシアから彼女に手渡されたのは、円く、傾らかに削られただけの、銀色に輝く指輪。
彼女の兄が大切にしていた、大事な指輪。
「お兄ちゃん……」
レンナフェールはそれを胸に抱いて小さく呟いた。ゆっくりと瞳を閉じながら、胸に抱いた指輪を包み込むように強く抱き締める。
マルシアは、ただ、神に祈る様に瞳を閉じた少女を眺めていた。
少しの沈黙。ゆっくりとした時が流れる。
マルシアは思う。アルバという存在は、この少女には―あまりにも大きい。
学園に行く兄の住家に、自分も親元を離れて行くなんて、よほど彼を慕っていなくてはできない。
だからこそ、この指輪を彼女に渡すことはあまりにも酷かも知れない。大きな不安を和らげるどころか、更に煽ってしまうのではないか。
彼女の迷った末の決断だった。
しかし、そんな心配をよそに、ゆっくりと目を開けたレンナフェールの顔は―微笑んでいた。
辛いはずだ。苦しいはずだ。彼女を取り巻いて守ってくれていた“家族”という存在を、彼女はもう頼ることは出来ないのだから。
それでも、彼女は微笑んだ。そして、言うのだ。挫けそうな言葉ではなく、弱音を吐くわけでもなく。
「ありがとうございます!」
「!? ……ニャハハ!」
彼女の感謝の言葉に驚いたマルシアだったが、すぐに満面の笑みで返すように、ニコリ、と笑う。
レンナフェールの瞳が語っていた。―兄を信じている、と。
満足げに頷いたマルシアは、白銀の少女の頭を撫でながら、窓の外の遠く、どこまでも広がる闇の空を見つめる。
(レンちゃんは大丈夫……。さてさて、アルバはどうなのだ?)