逃避
マリアは考えていた。目の前にいる少年のなんと奇妙なことか。
彼女にしか分からない異変。そして、彼女自身にも分からない変化。彼女は、彼女が意識しないうちに、アルバの姿を見た瞬間から、―困惑していた。
(色が、消えない……)
色の無い世界で、目の前の神々しいほど輝きに満ちた金色の髪。透き通るような青い瞳。それだけが色鮮やかに輝いていた。
それは、今まで彼女が感じたことのなかった、認識したことのなかった“色”という概念。
アルバと名乗った少年の語りかける声に、どこか落ち着かない様な疼きをマリアは感じていた。
この少年は、何かが違う。気を付けなければいけない。心を保たなければいけない。彼女の中の何かが、そう彼女に“事実”を言い聞かせていた。
「えっと、マリア。さっき巻き込んだって言ってたけど……、いったいどういう意味?」
「私は……、狙われている」
えっ?という彼の驚いた声に、マリアは、やはりこの少年も自分にとって有意義な存在には成り得ないのだ、と瞳を逸した。
それは、また別の彼女の受け入れられない感情が示した無意識の行動だったのかもしれない。
自分には関わらない方が良い。そうして、離れて行ってくれたほうが良い。彼女にとって、世界はモノクロであるべきで、自身は孤独であるべきなのだ。それが、当たり前なのだから。
しかし、そんな彼女の考えとは裏腹に、目の前の少年はマリアに笑みを持って語る。
「そっか……。じゃあ尚更ほっとけないよ。さぁ早く逃げよう!」
今度は、マリアが微かにその表情を崩したところを見せる事になった。
アルバはマリアの手を取り、緊急時の非難場所に指定されている学園へと歩みを進める。
(―分からない……)
マリアは普段他人の為に用いることのない思考で、この訳の分からない感覚を考えていた。何よりも、この手の温かさはなんなのだろうか、と。
少しして、アルバは周りの状況に違和感を感じていた。あまりにも静かすぎるのだ。
先ほどまで聞こえていた爆音や怒号なども聞こえない。まるで、“結界の中”に封じられたような。―“不可解”な静寂。それは、アルバに不安を感じさせた。
そしてそれは、単なる思い過ごしではなく、彼に現実を叩きつけることになった。
次の瞬間、カランカラン!とアルバの目の前に突然、金属が軽い音を立てて放られる。
それは、先ほど見た短剣。―血に濡れた、短剣。
「サウラ……さん……」
ザッザッ、と地を踏み締める音。単なる足音が、なぜこれほどまでに恐怖を運んでくるのだろうか。
「ノホホ……。逃げられないと言いましたよねぇ。ノホッ!」
舌なめずりをしながら近付いてくる不気味な老人。間違いなく、先ほど彼らを襲撃した、あの異様な人間。―いや、“化け物”だった。
「良い青年でしたよ。若いし、何より、意思が強かった」
アルバは震える身体を必死に動かし、サウラの短剣を手に取った。
―まだ暖かい、湿った柄。心が挫けそうになる。
「お前は……、いったい何者なんだ」
それでも、彼女を守らなければいけない。そう自分に言い聞かせて、彼は刃先を老人に向ける。
「私? 私はアルメダ。そうですねぇ。―結界術師と呼ばれますよ? ノホホホホホホ!」
アルメダは両手を広げて小さく何かを呟く、すると、ゆっくりと小さな立方体の箱が四つ現れて、彼らの方に迫ってきた。
「っ!? 危ない!!」
「あ……!?」
咄嗟に、アルバがマリアを押し除けて逃がす。箱はギリギリで二人が飛び退いた場所に突き刺さった。
刺さった一つの箱に、他の立方体の箱が誘導されるように集まり、重なった瞬間、人一人分入るほどの、ガラスケースの様な囲いがその場に現れた。
「ノホホ! 惜しいですねぇ。ほら、もう一つ! ノッホ!!」
嘲笑うかの様にアルメダの手から八つの箱が現れる。先程の二倍、どうやら四つで一組の結界を作る魔法のようだった。
(くっ! 考えろ……。考えろ!)
幸い、あまり動きは早くないので避ける事はできるが、このままでは逃げ場がなくなってしまう。
学園の戦闘授業ではあまり成績の良くない彼だ。身体能力で状況を覆すのは難しい。
アルバは自分の持っている物を分析する。使えそうな物は、サウラの短剣、非常用の小さなトルク、―そして。
(んっ? これは……魔法薬?)
まったく覚えのない、小さな一粒の丸薬。おつかいで買った薬品から溢れて、たまたま紛れ込んだのかもしれない。トルクと同じローブのポケットに入っていたために気づけた。
アルメダに気を配りながら豆ほどの小さな薬を取り出す。チラッ、としか見る暇がないが、それは濁った緑色をしていた。
「ノホホ! そろそろ終わりにしましょう。マリアさん。―まだ、“精霊の涙”を渡す気にはなりませんか?」
アルメダが魔法を行使しながら、ゆっくりと彼らの方へ近づき、そのいやらしく弧を描いた口を更に広げながら、マリアに問うた。
必死にアルメダの魔法から逃げながら、アルバは聞き覚えのある単語に一瞬気を取られる。
(精霊の涙!? それって、トルクとは別物ってことか!?)
アルメダの問いに、マリアははっきりと答えた。
「―拒否する」
その言葉を、聞く前から分かっていたかのように、アルメダはニコニコと笑いながら、声を深く沈ませて、更に近づきながら言う。
「そうですか、残念ですよ。ノホホ……。また若い血肉が失われる事になる!」
ヒュッ!と風を切る音がした。会話に気を取られ、避けることから気を取られたアルバ。
間一髪、咄嗟に身体を横にずらしたアルバの頬を、鋭い何かが断った。
「斬撃!? うわぁ!!」
細かく、鋭く、アルバは何かに切り裂かれていく。
「ノホホ! ほら、ほらぁ! また貴女のせいで人が死ぬ。傷つく!!」
(僕は人質か! くそっ! でも、彼女だけは、なんとか……!)
「っ! マリア! 僕は大丈夫だから!! 早く逃げっ! ぐっ!!」
腹部に立方体による痛打を受けて吹き飛んだアルバが、アルメダの作った結界の壁に背中を打ち付けて崩れた。
その光景に、またマリアの心が揺れる。彼から流れ出る血が、―“生々しい”。
(分からない。分からない……。逃げられる。私“だけ”なら。でも―、私の今の力では、二人は……“翔べない”)
「ぐっ!! まだ…だ!」
「良く、力も無いのに頑張りますねぇ。ノホホ!」
ドゴッ!!と硬い物質が肉を叩く音が響く。アルメダの手から放たれた物体が、アルバの腹部を強く打った。
「ぐっ! あぁ!!」
身体をくの字に曲げ、後方へと吹き飛ばされ、そのまま石畳の上を滑って行く。
口から血を吐き出し、遂に立つこともままならずガクリ、と膝をついたアルバ。
(ハハ。本当に何やってるんだろう……。ただ、夢であった少女に似てるからって……。あれは、ゆ……め……)
意識が飛びかけているアルバの手から、小さな丸薬が零れ落ちた。
未だ当惑していた彼女の瞳に映った、その濁った緑色をした薬。
―彼女には、その“知識”があった。
瞬間、マリアが走り出す。
少し遅れて、アルメダもハッ、とした表情で立方体をアルバに向けて飛ばす。
「呪文促進薬!? 逃がしませんよぉ!!」
―それは、魔素の発生を早め、力を引き出す薬。普通ならば市販されているわけがない。―“特殊”精製薬のひとつだった。
立方体がアルバを囲う寸前に、マリアがそれを飛び込んで掴み取った。
代わりに、マリアの肩に立方体の一つが突き刺さる。その痛みに耐えながらも、彼女はその薬を口に放り込み、言葉を放つ。
「きゃっ! っ……『翔んで』!」
パァッ、と光が少女と少年を包み込む。アルメダの手から放たれた後続の物体は、彼らには届かず空を切って直線上の建物に突き刺さった。
「ノホッ! 小娘ぇぇ!! 逃げても逃げても闇は近付くばかりだぞ! ノッホホホ!!」
次の瞬間、光が弾けて周りを白に染め上げた。
終始、余裕の表情を見せていたアルメダも流石にその目を閉じ表情を崩さずには居られない。
次に、アルメダが目を開けた時、既に二人の姿は無かった。
ただその場に小さな、しかし強い光を放つトルクが一つ落ちているだけだ。
アルメダの顔に深く皺が寄る。悔しげに唇を噛み締め、地面のトルクを睨むその目は、赤く激怒に揺れていた。
ふと、スーッ、と何かが近付いてくる気配に、アルメダは表情をまた笑顔へと戻す。
姿は見えなかったが、アルメダの背後に重なるようにして赤い影が立つ。
「……逃がしたか」
「ノホホ……。失態ですよマグナ。これ以上は無意味ですねぇ。全軍退却です」
了解。と言い残して影は消える。ゆらゆらと揺らめく空気がその熱気を示していた。
「“精霊の涙”。次こそは、必ず……。ノホホ!!」
―大きな混乱の中にある都市に、突如、一陣の突風が吹いた。
舞い上がる塵が視界を隠し、晴れた時には、都市中の闇魔は消え失せていた。
甚大な被害を被ったエルキミア襲撃の知らせは各都市を駆け巡り、すぐに復旧のための対策が為されていった。
大きく傷ついた都市の被害状況は、死者六万、行方不明者合わせて、九万人にも登った。
―その日、ある少年と少女が生存者に数えられる事はなかった。