邂逅
「ハァ……」
沢山の人が往来する賑やかな都市一番の交易商売路を走る大きな馬車が、大きな溜め息をつく少年の横を走り抜けて行った。
優に馬車が三台は通るほどの石畳の道の両側では、血気盛んに商人達が持前のスキルでどんどんと商品を売りさばいていく。
そんな喧騒に包まれた道を、金髪の少年、アルバは妙に大きな鞄を背負い、袋をその両手にぶら下げて、フラフラ、と学園を目指し歩いていた。
時刻はちょうど昼時だろうか、街行く人々が空腹を満たす為に露店に立ち寄っている姿が多く見受けられた。
重たい荷物を携えて歩くアルバも、近くの露店から漂う様々な食の香りに足を止めてしまいそうになる。
しかし、現在、彼はおつかいの最中である。その上、講義までもサボってしまっているとなれば、良心の呵責から、自分だけ悦に浸る事は出来ない。と思い留まる。
「それにしても、重い!!」
おつかい、という量を遥かに超えた、背中にのしかかる数々の魔法薬品。
鞄と同様に、パンパンの袋も両手に持っているのだから、端からみればどうみても“嫌がらせ”だ。
そんな同情を含んだ目で見られても、当の本人はいつもどおり気にも留めない。いつものことだ。
アルバは良く考え事をすると、周りが見えなくなるほど集中してしまう癖がある。
現に、先ほどまで感じていた露店の食の香りも、彼には既に蚊帳の外だった。
(闇魔かぁ。マルシアさんが言うには、全てが悪じゃないらしいけど……)
―闇魔。
トルクが世界に与えた三つめの影響。
魔法障壁に覆われている各都市の外に生きる害敵。と定義されている、トルクの影響を受けて変貌を遂げた動植物だ。
彼らは時に人を襲い、時に人を糧とする。
彼らがいるからこそ、人々は寄り添うように都市を作った。そして、魔術局に属する魔術師や旅人など、力のあるものだけが、都市間の行き来を許される。
―といっても、噂で耳にした話では、都市以外にも独自のコミュニティを作り暮らしている人々もいるらしいが。
闇に閉ざされたこの世界に住む人々にとっては厄介者でしかないはずの彼らだが、マルシアは、彼らを“絶対悪”ではないと言う。
マルシアが、いったい何の意味があっておつかいに行かされるだけのアルバに、この事を伝えたのかはまったく見当もつかないが、何かの考えがあったのだろう。そして、このおつかいが終われば、その真意も聞けるはずだ。
というか、そうでなければ、それに興味を持った所で生殺しのままおつかいに駆り出されたアルバは、今度こそ、猫耳女性に制裁を加える事になる。
(もし無関係で、いつものようにただ意味深な言葉で都合良く雑用に使われただけの場合は、どうしてやろうか……)
彼がそう考えている内に、周りは人気もなくなり、ポツンポツン、と一定の間隔で配置されたトルクが寂れた道を照らしていた。
どうやら曲がるべき道を間違えて進んでしまったようだ。
エルキミアは、長い直線通路が格子状に配置されている、広大な計画都市だ。
その広さゆえに、区切られた地域ごとに、区番号を前、戸番号を後に、それぞれが簡潔に数字で表されている。
「しまった。ここは三十番区画だ……」
アルバは誰もいない道路の真ん中で気弱な声を出して近くの家に目を向ける。
『30番8戸』、とだけ掛かれた少し字も掠れた様な表札がカラカラ、と音をたてていた。
―ここは第三十区。通称『泥棒区画』。
これほど広大な都市に多くの人々が住むとなれば、もちろん影の部分は濃く浮き出ることになる。
ここは生活に苦しくなった貧困者や浮浪者が軒を連ねる、所謂、危険地帯だ。
頻繁に起きる盗難や暴行に好き好んでこの区画を通る者はいない。
特に、今、沢山の貴重な魔法薬品を抱えている彼は格好の標的であり、逃げる事も困難な状況にある。
(早くここを出なくちゃ!)
アルバは踵を返して来た道を足早に戻ろうとする。
―その時だった。足を踏み出そうとした彼の行動は、一つの豪音に遮られた。
それは、―爆発。凄まじい音に地が震え、空気が震え、鼓膜が震えた。
空を裂く爆音の余韻、それは大きな衝撃となってアルバの後方から迫り、土煙をあげて、驚き振り返った彼を巻き込んだ。
「うわぁぁぁ!!」
細かい砂や塵、多少痛みのある小石が容赦なく肌を打つ。
両手に持った袋を堪らず投げ出し、手を顔に翳して目を瞑った。
砂嵐のような突風を何とかやり過ごそうとするアルバだったが、次の瞬間に、その身体は数メートル後方へと吹き飛ばされていた。
飛ばされる瞬間、何かが飛んできているのが視界の端に映った。それを確認する暇もないほど一瞬で、彼は地に倒れ込んだ。
「ぐっ!? あぐっ!!」
石畳に叩き付けられる背中、それに伴って感じる割れたガラスビンと投げ出された薬品の異臭、そして腹部を強打した痛みと少しの圧迫感。
―現状の把握に頭が機能しない。
背を打ち付けた事と、何かによる、些細ではあるが、腹部圧迫のせいか呼吸もままならない。
ただ、視界を閉ざして感じられたのは、強風が過ぎ去って訪れた穏やかな微風と、顔を撫でる、サラサラ、とした細い何かだった。
―経つこと数秒、何回か小さな咳をして呼吸を整えたアルバは事態を把握するために瞼を開いた。
視界には、いつも通りの何も変わらないはずの黒、黒、黒。
ただ、今目の前に見える闇は何かが違っていた。所々が艶やかで…あの砂煙に塗れても曇らない漆黒の糸。
それが人の髪だと気付くのに、そう長くはかからなかった。
「っ!? だっ誰!?」
「ん。痛くない……」
アルバは身長はともかく、男性としては細身な方である。
しかし、仰向けに倒れていた彼に、更に仰向けに覆い被さり、布団さながらに押しつぶしている何者かは、更に小さな身体をしている事から、どうやら少女の様だった。
「ん。よっ……と」
「うわわっ!」
アルバの上の少女は、まるで猫の様に器用に体をくるりと回転させると、見下ろす様な形で傍らに座った。
先ほどの突風で、近くのトルクは吹き飛ばされてしまったのだろう。周りは普段の道より暗い。
アルバは自分の顔を覗き込む様に見下ろしながら、ちょこん、と座る自分より少し幼い様に見える少女をしばらく眺めていた。
心配してくれているのかは分からない。無表情。整った顔立ち。飾り気のない丈の少し長いローブを身にまとっている。黒い綺麗な髪は紐で一本に括られ、その長い尾が風に揺られ左右に振られる。
アルバは少女に見覚えがあった。
記憶と違うのは、括られた髪と、その瞳に映るもの。
―彼女の瞳には、たしかに彼の姿が写っていた。
「君は―」
彼が言葉を掛けようとしたその時、ズドォォォン!!と、先ほどと同じかはたまたそれ以上の轟音がアルバの声を遮った。
「うわ!? また!! っ!君!」
「あっ」
アルバは飛び起き、再び目前に迫る風の壁から少女を守ろうと、彼女の華奢な身体を抱き締めて暴風に背を向けた。
(いったい何が起こってるんだ!?)
今にもアルバと少女を吹き飛ばさんと猛る風に、アルバが思考を中断し、更に強く少女を抱きしめた時、腕の中の少女が小さく呟いた。
「―『裂けて』」
―それは一瞬だった。次の瞬間にはアルバと少女を巻き込み、容赦なくその猛威を振るったであろう乱風が、真っ二つに裂けて、二人を避けて行ったのである。
覚悟していたのになかなか訪れない痛みを不審に思って、アルバは薄く瞼を開いた。
見えたのは両側が砂に塗れた通路。
彼の腕の中に向かい合うようにして抱きしめられている彼女からは、何かをしたような様子は見られない。
彼女は、本当に、ただ一言呟いただけ。
「どういうこと……? 君は、いったい……?」
「ごめんなさい……。巻き込んだ」
「えっ?」
淡々とアルバに謝罪を述べる彼女は不意に立ち上がり、瞳を彼の後方へと向けた。
アルバの頭は次々に起こる事態の収集がつかず、頭痛が重くのしかかる。
しかし、一つだけ理解出来た。―これは、“日常ではない”。
アルバは持っていても仕方ないと、割れた薬瓶や薬草などの荷物をその場に下ろし立ち上がった。
目の前の少女は、立って向かい合って見るとやはり小さい。アルバの肩あたりほどまでの背丈だ。
間違ない、とアルバは確信した上で、少女の言葉に込められた意味も含め、疑問を頭の中で一つづつ整理していた。
(突然の爆音と突風。そして、やっぱり見間違えじゃない。“夢”で見たのは彼女だ)
つんつん……、と少女はアルバの脇腹を突っつく。
(でも、巻き込んだって……。いったい彼女は何を―)
グイグイ、と少女は、アルバのローブの袖を引っ張る。
「んっ? あっ! なっ何?」
「……後ろ」
少女は漸く気づいたアルバに呆れたような様子も見せず、ローブを摘んでいた指を、そのまま彼の後方の何かを指差して、ピクリとも動かなくなった。
タタタッと数人が駆けてくる音がする。
「君達!! 大丈夫か?」
振り返ったアルバに、先頭を走ってきた白のローブ姿の男が話し掛ける。男の胸元には、エルキミアの紋章。
「貴方は……、魔術局の方ですか?」
「あぁ、それよりも怪我はないか? 落ち着いて聞きなさい、……現在、エルキミアは上空より巨大闇魔からの攻撃を受けている。我々は市民救助の最中だ」
「えっ! そんな!? 魔法障壁が破られたんですか!?」
アルバの問いに男たちは苦い顔をするだけだった。
各都市に張られた魔法障壁はそう易々と破られる様なものではない。
ましてや、ここは世界第三の都市であり、知識を重んじる場所で、国の研究機関だ。それ相応のトルクが使用されているはずだった。
「残念だが、今は直撃を避けるだけで精一杯のようだ。どうやら小さな闇魔も入ってきているらしい。君はその子を連れて学園へ急ぎなさい。『サウラ』、この子達を」
はい!と『サウラ』と呼ばれた男が返事をして、アルバ達の前に立った。
何が何だか良く分からない状況だが、アルバの様な一般市民にはどうすることもできない。従う他ないだろう。
「さぁ、こっちだ! この騒ぎに乗じて浮浪者どもが彷徨いている。敵は闇魔だけじゃないからね」
さぁ早く!とサウラは先行しながら、アルバ達を促す。
しかし、アルバの近くに佇んだ少女は空の一点を見上げたまま動こうとはしなかった。
グルルルル!!とその間にも、男達の後方からは犬の様な闇魔の唸り声がする。
残りの男達はそれぞれ武器を持って闇魔に突撃していった。
「やはり来たか、君、早く来なさい!」
サウラが見兼ねて少女の腕を掴んだ―瞬間。何か細い閃光の様な物が、彼と少女の間を通り抜けた。
それは一瞬の内に道路を駆け、近くの民家をも通り過ぎていった。
―ポトリ、と何かが、赤黒い物を垂れ流しながら石畳に跳ねた。
「!? うわぁぁぁあああ!!」
直後に響く若き魔術師の絶叫。思わずアルバは口を押さえて目を瞑った。見てしまったからだ、彼の身体から、右手が切り離される瞬間を。
胃から逆流してきそうなものを必死に押さえながら、現実を否定しようとした。
「いけないなぁ。ノホホ! 女性をエスコートする時に、そんな乱暴な誘いかたではぁ! ノッホホホホ!!」
閃光が生み出された場所、それは立ち並ぶ家の屋根の上からだった。
嗄れた声の老人。その体躯は異様に小さく、細い。そして何より、禍々しく脈を打つ額より少し上に突出した角が、更にその異様さを掻き立てた。
(くっ、右手がやられた……。だが!)
サウラは苦しげに息を荒げつつも、その老人に向かって、左手で腰に携えた短剣を突き出していた。
「『雷を操るは雷精の許しなり。駆けろ』!!」
直後に短剣の刃に雷光が駆け、老人のいる屋根に向かって電撃が放たれた。
バチバチっ!と雷光が屋根の上で笑う老人に向かって、その腕を伸ばす。
「ノッホホホホホ! 素晴らしい。傷の痛みから一瞬で立ち直るとは。ノホッ!!」
老人はその攻撃を避けようともせずに身体で受け、屋根から吹き飛んだ。
くっ、とサウラが右腕を押さえて片膝をつく。我慢しているのだろう、額には大粒の汗が見えた。
「サウラさん!!」
「僕の事は良い!! 君は早く女の子を連れて隣りの区画へ行くんだ!!」
「でもっ……!」
なかなか決心出来ないアルバ。サウラの抑えた手から流れ出す血が、彼の決心を鈍らせる。
その間にも、闇魔たちと闘う魔術師たちの声が、一人、また一人と悲鳴に変わっていく。
「ノホホ! 心地の良い電撃ですねぇ。もう終わりですか? ノッホホホホホ!!」
「くっ! 早く行くんだ!!」
まったくの無傷で現れた老人。サウラは震える身体を奮い立たせて、老人と対峙する。
「サウラさんっ……! 君、行こうっ!」
アルバは、サウラの思いを無駄にする事は出来ない、と少女の手をとって暗闇の道を走り始めた。
「ノホホ!! 無駄ですよぉ!! どこまで逃げてもぉ! ノッホホホホホ!!」
老人の声から逃れるように、アルバは全力で駆ける。
少女は、ただ引きずられる様に着いてくるだけだった。
かろうじて突風の被害を免れたトルクが、均一に作られた道を照らしている。
時折どこからか悲鳴が聞こえ、爆音が響いた。
「はぁ……はぁ……。ここは、23番か。ここまで来れば……」
今まで無我夢中で走ってきたアルバだったが、看板に書かれた数字を見て安心したのか、ガクガクと震える足の歩みを止めた。
―ここまで闇魔に出会わなかったのは“幸運”だった。
あと少しで学園に着く。その安心感が、多少ではあるが、彼の精神状態を冷静に保たせていた。
ふとアルバが隣りを見ると、 そこには少しだけ息を切らしてはいるが、淡々と前を向き続ける少女。
アルバはまだ自分が少女の小さく、滑る様に傾らかだが、冷たい手を握っている事に気付き、手を離しながら、顔を朱に染めた。
「ごっごめん! 引っ張ってきちゃって。何処か、怪我とかない?」
少女は答えなかったが、その静かすぎる眼は少し揺れて、彼を見つめていた。
アルバも早く逃げなくてはいけない状況だと分かってはいたが、この少女に自分の疑問を投げかけずにはいられなかった。
「僕は、アルバ。君の名前は?」
「―マリア……」
小さな声だが、彼にはハッキリと少女の声が届いていた。
アルバは安心感を覚え、マリアと名乗った少女はその瞳に戸惑いを見せた。
―この時、二人の運命が“交叉”した。