少女と世界
所変わって、ここはエルキミアから数十キロほど離れた、都市外の雑木林。
木々がある分光が遮られているのだろう、辺りは薄暗い。
普段、虫や鳥だけが謳歌していて、心地の良い静けさに包まれているこの場所。
しかし現在、そんな場所に似つかわしくない、草木を無理矢理押し分けて走る音が二つ響き渡っていた。
一つは、ザザザッ!と近くの木を掻き分けながら進む音。
そして、もう一つは、ドドドッ!!と遮る物を全て圧し、払い、擂り潰す。そんな音が轟く。
長く続いているだろうその逃走劇は、漸く終りを迎えようとしていた。
前方を駆けていた何かが突如足を止めたのだ。
雑木林が開けて広場に出たかと思うと、更にその先で眼前に迫ったのは、大きな大地の穿ち、―崖だったからだ。
先ほどまで木々に遮られて良くは見えなかったが、前方を駆けていたのはまだ幼い少女。腰まで届く黒曜石の様な輝きを持つ髪は麻の紐で一本に纏められて左右に毛先を揺らす。
彼女は今まで駆けてきた疲れを多少の息切れで表しながらも、表情を崩さず立ち止まっていた。
彼女にとって、追われることは恒常的なものであるとでも言うのか。
―追い詰められている。後ろは崖、前方には猛々しく現われた追跡者が迫る。
だがしかし、彼女の表情に“絶望”はなかった。
仮面を被ったような、とでもいうのだろうか。その瞳は真っ直ぐ崖下に広がる闇を映していた。
まるでとても精巧に出来た―“人形”のようだった。
彼女が立ち止まった後ろからは、未だに地を揺るがすような足音が響く。
広場に出現した赤々と光る眼、巨大な体躯で四足歩行のそれは、口の横に優に一メートルを越すであろう双牙を携えていた。
獣は飢えていた。もう何日もしっかりとした―肉を貪っていなかった。ここは彼の縄張りでもあったが、近くには人間の住む大きな都市があるゆえに、危機感を持たない人間が運良くこの林を通ることはほとんど無かったからだ。
だからこそ、運良くこの林に足を踏み入れたこの小さな人間を逃すつもりなど彼には毛頭なかった。
「バルボア……」
まさに絶体絶命の様であるはずの少女はまるで抑揚のない声で呟いた。
威嚇するような、必死に生にしがみつこうとするような態度ではまったくない。
ただ、目の前の獣は自分を捕らえ食そうとしている。その“事実”を確認した様な声だった。
「ゴアァァァァァ!!」
少女の前方数十メートルのところにいる猪の化け物は、前足で足元の土を掻き飛ばし始めた。―突進だ。
ザッザッ!と土を払うバルボアの足。その力は凄まじく、獣の足元の土を大きく穿って行く。
少女の残酷な結末を彩る舞台を整えるように準備を進めるバルボア。
バルボアの瞳は少女だけを標的に、寸分の狂いもなく、彼女の華奢な身体をその牙で貫かんと凝視する。
対して少女は何をするでもなく、その場から動こうとともしない。
ただ、彼女の双眸は怪物の遥か頭上、“空”を見つめていた。まさに今、目の前で向かってこようとしている死の足音さえも気に留めず。
睨み合うわけでもなく相対する獣と少女。奇妙な静けさの中、バルボアが大地を穿つ音だけが響いていた。
死への激突の火蓋は、獣の方から切って落とされた。
何も行動を見せようとしない彼女に抵抗の意思はない、と思ったのか、はたまた、ただ目の前の久しぶりの獲物を待ちきれなかったのか、バルボアが轟っ!と地を蹴る。
「ゴオァァァァァアアア!!」
対する少女は、それを見て小さく、本当に小さく何かを呟き、その身体をフラッ、と前に倒した。
―完全に捕らえた、とバルボアは勝利の確信を得て吠え、疾駆する。
少女までの距離はあと五メートルほど。今更何か回避する行動を取ったとしても間に合う訳がない。
地に伏せ、巨体の下を潜り抜けようというのなら、そうはさせない。
牙を地面に擦るように、足元から天に向かって突き上げてやろう。
そう考えたバルボアに訪れた結末は、彼の想像を絶するものだったに違いない。
一瞬の内に少女が眼前から消え、足元には深い闇が広がっていたのだから。
―気付いた時にはもう遅い。
地を踏む筈の足が虚空をさまよい、数百キロはくだらない巨体が宙を舞う。
不気味にフェードアウトしていく唸り声と、巨体が岩肌にぶつかって転げ落ちる音。
闇の底から、不気味な音が小さく残響を残した。
少ししてその場に静寂が再び訪れた時、パァッ、と一瞬、広場の中心に淡い光が集まって球体を作り、それが弾けたかと思うと、そこには先ほどの少女がこれまた先ほどと変わらぬ顔でその場に現われた。
「闇魔……」
崖に背を向けるように佇む彼女は、ほんの一瞬だけ後ろを振り返って小さな声で囁く。
その声に獣を哀れむような意思はなく。また、助かったことへの安堵の意思もない。それが当たり前であるかのように、
そして、彼女はもう振り返ることはなく、そのまま歩を進めて、追われて駆けてきた闇誘う林の中へと溶け込んでいった。
ザッザッと地を踏み締める音が遠ざかっていき、やがて完全に聞こえなくなる。
その場に残ったのは、地面が抉られるほどの、何かが駆けた跡と、広場の中心にポツン、と一つ転がった、拳ほどのトルクだけだった。
林を進む彼女の歩みに迷いはない。
薄暗い林の木の色も、騒ぎに驚き、一度は飛び去り今しがた戻ってきた鳥たちの色も、土の色さえ、彼女には“無機質”に映る。
―完全なる世界からの“孤独”。
少女のその幼い、小さな肩に張り付くは、幾千、幾万もの憎悪と悲哀。
「『エルキミア』。……知聖の泉、九精の書。……急ぐ」
彼女が進む道の先には、広大な、魔法都市の城壁が聳えていた。
再び普段の様相を取り戻した林。
―何事もなかったかのように、世界は足跡を消していった。