魔薬の聖母
煌々と光るトルクの下、靴の音が反響する廊下を歩く金色の髪の少年。
講義の間の短い休息時間だが、廊下では講義の雰囲気から逃げ出すように講堂から出た沢山の生徒が思い思いに時を過ごしている。
ここでも、先ほどの講義を頭で反復しながら顔を下げて歩くアルバの姿は、やはり少なからず目線で追われる。
本人に気にした様子はないが。
廊下を突き当たり、階段を登った所で彼は頭をあげた。
講堂のある階を一階上に昇ると、そこは実験室や特別授業室、そして、ある教授の私室がある。
―薬草学の『マルシア』教授。別称『魔薬の聖母』
学園教授一の美女であり、そして、学園一の変わり者でもある彼女。
彼女は、アルバにとってとても大切で、大きな恩のある人物である。
なぜなら、保育施設内の適齢を超えたアルバを件の若夫婦に紹介してくれたのが、このマルシアだからだ。
ある日、ふらっ、と施設にやってきて、アルバに声をかけてくれた彼女。
出自の分からない彼に家族を与え、救ってくれた彼女には、言葉で言い尽くせないような多大な恩がある。
―とはいえ、学園に通うようになってから彼女が変わり者であったことに気づかされ、頭が痛い思いをするのだが。
まあ、そんな経緯もあって、アルバは彼女の頼みを聞かなければならないのだ。
その容姿から、一部の生徒には人気のある彼女だが、実際に彼女の私室を訪れる者は彼くらいだろう。
アルバは大きく深呼吸をすると、意を決したように扉のまえに立った。
コンコンッとドアをノックしてみるが、部屋の中からの返答はない。
自分をこの時間に呼び出しておいて、留守にするなんて非常識なことは、―彼女ならするかもしれない。
しかし、ほとんど研究の為にこの私室に籠っている彼女が外出をするなんて滅多にあることではない。
それこそ、何日も食事を摂らないで研究を続け、動けなくなったからといって窓の外に爆弾を投げて救助を求めるほどの―ぶっ飛んだ人だ。
寝ているだけなのかもしれない。とアルバは目の前のドアのノブを掴みながら、大きな声で部屋の中へ呼びかけた。
「マルシアさーん? 入りますよー?」
木製の扉が軋んだ音を出して開く。
決して彼女が着替え中で、ラッキースケベな展開が待っていないことはアルバも良く分かっている。実際、そういう展開も無かったわけではないが。
しかし、彼が想像していたものとは全く違う事態が彼を待っていた。
―微かに開いたドア。その瞬間に、隙間から漂う大量の“白い煙”と“火薬”の臭い。
「!? マルシアさん!!」
とめどなく、もうもうと溢れ出る白煙に、ただ事ではない、と事態を察した彼は、ローブの袖で口と鼻を覆い、部屋の中へと急いだ。
部屋の中は視界が悪く、火薬に交ざって異様な匂いが充満していた。
「マルシアさ~ん! どこですか!? ―うっ」
立ち上る煙が呼吸を阻害し、ゴホッゴホッと苦しげに息を吐いて咳き込むアルバ。
喉や肺が焼け付く様な白煙の中、少しづつ視界が揺れ、思考が正しく働かなくなる。まるで自分が何をしているのか分からなくなってくる。
口と鼻をローブで覆っているにも関わらず、その臭いと熱さは何の隔たりもないかのように彼の中へと流れ込む。
何とか煙が薄いところを探そうと必死に藻掻くアルバを嘲笑うかのように、彼の足はそこにあった何か―恐らく、本に躓き、彼は床に倒れた。
次第に身体に力が入らなくなり、視界が暗くなり始めたその時。
「あぁ! アルバ!? しまった、結界解くの忘れてたのだ……」
この事態の被害者であり、加害者であるはずの女性の声が聞こえてから数秒後、本当に意識が途絶える寸前に白煙が唐突に晴れて、息苦しさが一瞬の内に無くなった。
「ニャハハハ! 悪かったのだ! 最近、幻想呪文にハマっててな~。解除するの忘れてたのだ!」
視界が晴れた先にいたのは先程の声の主。アルバが良く知る女性。
背はスラリと高く、スタイルが良い。頭にはピクピク、と動く三角形の耳。
「……こほっ。マルシアさん? ―流石の僕でも怒りますよ?」
アルバの言葉に、にゃ!?と身構えるように後ろへ退いた女性。
彼女が、『マルシア』。猫の形態を持ったリンブルだ。
彼女は魔草、薬草などを取扱う調合師であり、凄腕の魔法使いでもある。
そのうえ容姿も端麗なので、“外部の”各学会では注目されている女性だ。
―がしかし、そんな彼女が教授内で―“避けられて”いる理由。それは。
「ニャハハハ!! なかなか味わえない体験だっただろー? 火事の時には、さっきの経験を活かすのだ!」
「だから怒りますよっ!?」
彼の声にまた一歩、ニャ!?と後ろへ下がるマルシア。溜め息を吐くアルバ。
―“これ”だ、この女、加減と反省という言葉を何処かに落として来たに違いない。
ハマった事は即実行、後の事は顧みず、前に突き進む暴走機関車マルシア号なのだ。
だが、それでも彼女の知識と発明力には、性格から来る悪影響を凌駕するほど目を見張るものがある。
ゆえに、学園側も一生懸命彼女の素行に目を瞑っているわけだ。
そんな事は彼女と付き合う機会の多いアルバにとっては既知の事実で、別段、彼も本当に怒っているわけではなかった。
―イラッとは来たが。
「はぁ……。それで、今回は何の用なんですか?」
「ニャハハハ! どうだったアルバ? この幻想呪文は元来のものに加えて魔草の効力を上乗せ―」
「聞いてください!!」
訂正だ。話を聞かない、も性格に追加して欲しい。
アルバとしても、そろそろ本当にぶん殴ってやろうか、と真剣に脳内会議を始める所だったが、マルシアは勘も良いらしい。
さてさて、アルバを呼んだのは―、といきなり本題に入ってはぐらかしてしまった。
何ともスッキリしないが休憩時間も短い。早く講堂に戻らなくては講義に遅れてしまう。 それだけは避けたいガリ勉優等生のアルバは仕方なく話を戻した。
「それで、僕を呼んだ理由は?」
「ではでは、アルバは闇魔についてどれほどの知識があるのだ?」
「闇魔ですか?」
先刻の講義の最後に嫌味な教授が予習してこい、と言い残した単語。
講義ではまだ教わっていない事だが、ここでは自分の知識内で答えろ、というマルシアの試験だろうとアルバは受け取った。
「そうですね……。僕が知っているのは、闇魔とは都市外に生息している、トルクの影響を受けたとされる動植物などが変異した害敵で、よく商人などが襲われる。と言う事ぐらいですかね。」
「ふむ、間違ってはいないのだ。ただちょーっと、違う認識があるのだなぁこれが」
男としては悔しいが、アルバよりも高い目線のマルシアがうんうんと首を縦になんども振りながら答える。
焦らすかの様な彼女の態度にアルバの気も早る。
彼の耳には、微かに講義開始が近づく予鈴の音が聞こえていた。
―この間にも短い休息時間が少しづつ減っていっている。
この教授がいつものペースで話を長引かせるのでは次の講義には間に合わない。
自分の未来を想像したアルバは、彼が積み上げてきた皆勤賞が崩れさってしまうのを忌避した。
「マルシアさん単刀直入に言ってください!」
「むっ! なんか投げやりになってるのだぁ……」
心底つまらなそうに足元のゴミを蹴るマルシア。本当にどこまでもマイペースな女性である。
「まぁ良いのだ。それで、私がアルバにして欲しいのはだな―」
と、ここで言葉を途切れさせてマルシアは真剣な顔をする。
“何時にもない”真剣な顔にアルバにも緊張が走る。
これは自分にしか頼めない重要な事で、これが―何か、“重大”な成功の鍵を握っているのではないか。そんな想像が彼の中で膨んだ。
少しの不安と期待に胸を高鳴らせながら、彼は目の前のマルシアの顔を見つめる。
しかし、彼女から放たれた言葉は。
「“おつかい”に、行ってきて欲しいのだ!」
「―はぁっ!?」
予想だにしなかった彼女の発言に、ポカーン、と口を開いたまま固まってしまったアルバ。
部屋に嫌な沈黙が流れた。
「やっ、やっぱり嫌なのだな? アルバもいい歳になっておつかいなんて……。でもにゃー、動きたくないしにゃー。まだ実験も途中だしにゃー……」
ちらっちらっ、とアルバの顔を伺いつつ言葉を発する彼女。
もちろん、こうなってしまったら承諾するまで彼女はその引き伸ばし行為をやめないだろう。
おつかいに行くのが嫌なのではない。
だが、このなんとも言えない“惨めさ”はなんなのだろうか。
自分の覚悟をふいにされた空虚さに襲われる一人の金髪少年と、ニャハハ~と悪気もなく笑う猫耳女性。
無情にもここで試合終了の……もとい、講義開始の鐘が鳴り響いたのだった。