心構え
自分は、今、どこか別の世界にいる。そう気づいたのは、今いる世界が、あまりにも“綺麗”だったからだ。
なんと言い表せば良いのか分からない。でも、自然と口から出たのは、そんな言葉だった。
事実だけ述べるならば。そう、この世界には、―“光”が溢れていた。
この世界には、―“青い空”があった。
彼女が知る、真っ黒な空ではなく、どこまでも高い、吸い込まれそうな、青色の空が。
ああ、これが“夢”なのだ。と少女は思った。
彼女は、今まで夢など見たことがなかった。眠るという行為で、その心が安らぐことはなかったのだから。
彼女は、本当の意味で、やっと“心が安らぐ”眠りというのを経験したのだ。
そして、これは、それを表すかのように、彼女の心が見せる幻の世界。
“夢”というものが、どういう原理で世界を構成し、何を基にして形作られるのかは、彼女には分からない。
過去の体験かもしれないし、架空の想像かもしれない。
しかし、今の彼女のいる世界は、彼女の、いや、“彼女たち”の“理想”の世界なのだと、少女には理解できた。
自分が今、佇んでいるのは、丘の上だろうか。
足元には、活き活きとした鮮やかな緑色の草。
彼女の傍には、立派にその手を広げた大きな木。
視界に広がる緑色の絨毯には、所々に色鮮やかな花々が咲き乱れ、遠く、地平線には、キラキラと揺らめくように輝く“青い”大きな川が見えた。
―“美しい”。
この世界は、どこまでも美しかった。ここには、彼女の知る世界にないものが溢れていたのだ。
この場所から動きたくない。この世界から離れたくない。
そんな思いが湧き上がってくる。
この世界には、彼女を責めるものはいないのだ。彼女に覆いかぶさるように迫る“闇”も、この世界には存在しないのだ。
そんな想いが強くなればなるほど、彼女には、ここが“夢”の世界なのだ、という強い実感と、深い悲しみが襲ってくる。
“夢”とは、醒めるから夢なのだ。いつかはこの世界も揺らぎ、消えて、彼女は否応なしに“現実”へと引き戻される。
だからこそ、―今だけは、少しでも長く、この景色を眺めていたかった。
ただその場に座し、視界に広がる、風吹き抜ける広大な草原を眺めていた漆黒の髪を持つ少女がいた。
ふと、ザッザッと足音がしてきて、少女の方へと近づいてきた。足音の主は、少女のすぐ後ろで立ち止まり、小さな身体に影が掛かった。
座っている少女に対して、上から覗き込むようにして、少年が彼女を見ていた。
突然、背後に立たれたというのに、恐怖感はないのだろう。むしろ、“安心”しているように見える。
―ああ、“彼”が来てくれたのだ。
少女は、ゆっくりと体勢を後ろに倒して、傍に立ってくれている人物の顔を見上げるように、首を擡げる。
はっきりと視界に映るのは、“彼”の満面の笑みと、“青い瞳”、“金色の髪”。
この光溢れる世界でも、彼の輝く“色”は、彼女が今まで見てきた光よりも煌々と輝き、どんなものよりも“綺麗”に見えた。
彼の笑みに、彼女も溢れる想いをそのまま表情に映し出し、微笑む。
少年は、少女に手を差し伸べた。少女も、その手を取る。
繋いだ手を彼は引っ張って、少女を立たせると、もう一度しっかりと手を繋ぎ直して、輝く空の下に少女を誘った。
そのまま、“光”の世界を寄り添って歩いて行く二人。
段々と遠く、小さくなっていくその姿を、―“彼女”は、その場から動かず、ただ眺めていた。
そして、彼らが離れていき、その姿がもう見えなくなるほどまで遠くに行ってしまったのを、“嬉しく”思っている彼女に、“夢”の世界の終わりが迫る。
頭上の青い空から、光が降ってきた。細かい、雪のような光の粒が、彼女を誘うように、一点に、彼女の立つ場所に降り注いできたのだ。
―もう、“終わって”しまうのか。
そう自覚した彼女の表情に、“悲しみ”はなかった。なぜなら、彼女は“満足”したのだ。彼女は、もう充分に“力を尽くした”のだ。彼女は、大切な物を“託す”ことが出来たのだ。
―そう、“後悔”なんて、もう“ない”。
フッ、と彼女の身体は光に包まれ、“消えた”。
その場に残ったのは、静かな風に吹かれる、どこにでもあるような地味で、普通の植物だけだった。
▲▽
滝の裏にある、そこそこ大きな洞穴の中。水で出来た、柔らかいのに、しっかりとした硬さもあるベッドの上で、彼女は目を覚ました。
ずいぶんと長い時間眠っていたのだろう。疲れをとる筈の睡眠が逆に身体を固くし、気怠さをもたらしていた。
体勢を起こし、腕を上に持ち上げて、身体を解すように伸びをする。
そうして、何となく脱力したところで、マリアは自分の異変に気がついた。
―“涙”を流している。
そういえば、何か不思議な映像を見ていた気がするが、もう殆ど何も覚えてはいなかった。強いて言うならば、“色”が焼き付いている。
―“青”。透き通る様な、でも、単色ではなく、様々な濃淡を見せる“青”。
いったい何がその色をしていたのかも、もう記憶にないが、そんな色を眺めていたような気がする。
これが、“夢”というものなのだろうか。何とも儚く、うつろいやすいものだ。
マリアは、まだ完全に覚めていない目を擦るように、流れる涙を手の甲で拭い、ベッドから降りた。
「あら、おはようマリア。だいぶ長い時間寝ていたから、かなり、そう“かなり”疲れていたのでしょうね。体の調子はどうですか?」
ベッドから降りた彼女の正面にあるテーブルに備え付けられた椅子に座っていたウルムから、そう声が掛かった。
「問題ない。……私は、どれくらい寝ていたの……?」
「そうですね、だいたい、そう“だいたい”丸一日くらいですかね。今日は、貴方たちがここにやってきて、二日目。時刻は夕飯が済んだ辺りです」
彼も心配していましたよ、とそれに付け加えて、彼女はマリアに微笑みかけた。
そんなにも長い時間寝ていたのか。と彼女は驚きを隠せない様子で、ウルムの対面の椅子に腰掛ける。
彼にも心配を掛けてしまったようだ。明日にでも会ったら謝らなければいけない。
そこで、彼女は洞穴の中に、金色の少年の姿がないことに気づく。
「……彼は……?」
何の毛無い質問だったが、ウルムは、それはそれは嬉しそうに口元を隠し、笑いながら答えた。
「うふふ、彼は、こことは別の場所で休んでいますよ。可愛らしい乙女と相部屋なんて、彼には恥ずかしすぎて、そう“恥ずかしすぎて”無理だったみたいです。夕食は先ほどまでここで一緒に食べていましたので、明日になったら、またここに来るでしょう」
「……そう。分かった」
何となく、彼女の笑いから察した。ああ、また彼女の悪い癖が出たのだな。と。
そう思った時に、彼女の表情は、とても柔らかい笑みを作っていた。
何よりも驚いたのは、彼女自身だった。
顔の筋肉が自然と動くのを感じたのと同時に、自分は今、“笑えている”のだ。と実感出来たからだ。
長い間、心を閉ざしていた彼女の表情は、ずっと無だった。
笑うことも、しかめることもない、無表情。だから、彼女の顔は酷く固まったままだった。
それが、今“笑えた”のだ。
満面の笑みとは言えないが、誰が見ても笑顔だと分かるような表情を作ることができた。
確実に、急速に彼女の中で何かが変わっていっていることを、改めて彼女は自覚した。
「マリア……。貴方、本当に、そう“本当に”良い表情をするようになりました」
「彼の、ううん、“皆”のおかげ。ウルムも、お母さんも。大切な何かを、私にくれたから……」
彼女が今感じているのは“感謝”。
自分を形作ってくれた。色々な知識を与えてくれた。掛け替えのない想い出の中で、共に過ごしてくれたことへの感謝。
彼女たちが与えてくれた全てのものは、彼女の中で色づき、彼女を支えてくれる。
それは、忘れることのない。なくなることのない。大きな“光”なのだ。
「うふふ。さあ、ご飯にしましょうか。丸一日なにも食べていないのです。運動していなくても、きっと、そう“きっと”お腹は減っているでしょう?」
ウルムがそう言って、席を立つ。
見れば、奥の調理場には、彼女の分であろう魚やスープが暖かい湯気を立てていた。
言われてみれば、空腹を感じる。―身体は“正直”だ。
それを自覚した瞬間に、彼女のお腹から、クゥ、と小さな可愛らしい音が静かな洞穴に響いた。
それを聞いて振り返り、笑うウルム。
―恥ずかしそうに顔を赤らめて俯く、“普通”の少女の姿がそこにはあった。
カチャカチャ、と木製の食器が音を立てる。
まだ湯気が立つほど温かなスープを口に運ぶ少女の姿を幸せそうに眺めながら、ウルムはマリアに問いかけた。
「ねぇマリア。貴方は、ここに“二人”で“翔んで”来ました。しかし実際、相当、そう“相当”無茶をしたようですね。エルキミアという場所で、“仇成者”の襲撃を受けた事は、アルバ君から聞きました。貴方はどうやってここまで翔んで来れたのか、聞かせて頂いてもいいですか?」
その質問に、マリアは口の中のスープを飲み込み、匙をテーブルに置いて、自分の体験を語りだした。
「……呪文促進薬を使った」
「呪文促進薬……。確か、魔素の発生を無理やり早めて、力を引き出す危険な、そう“危険な”薬ですね」
肯定し、頷く彼女を見つつ、ウルムは考えた。
それは、彼女がマリアにその存在を知識として与えた薬だった。
彼女もその薬を実際に見たことはなかったが、昔、動物たちの中で人里に暮らしたことのある年老いた猫が、その存在を彼女に教えてくれた事があった。
―呪文促進薬という、濁った緑色で小さな丸薬状の魔素の発生を早める薬を人間が発明し、その薬が流通したことによって、各地で魔法を使った争いが勃発した。しかし、それはすぐに“ある理由”で収まり、薬は精製することを“規制”された。
そんな内容だった覚えがある。その時の彼女には、あまり興味のないことだったが。
考えずとも、そんな薬があれば争いが起きるのは当然のことだ。なぜなら、簡単に自分の力を引き出すことが出来るのだから。
大きな力を持ってしまえば、俗世に生きる彼らが考えるのは、“侵略”、“強奪”だ。自身の生活を豊かにするために、同じ人間を攻め、殺し、何もかもを奪う。
比較対象が近くにいればいるほど、自分の生は、自分で価値を“勝手に”決めてしまう。
劣っている。勝っている。その事実を、強く意識してしまう。
―近くに同じ様な人間がいるからこそ、“隣の芝生は青い”のだ。
そして、その安易な力は、当たり前のように代価を要求する。
―魔素の枯渇。器の限界を超えた魔素の放出。
待っていたのは、“精神の崩壊”。
しっかりと、充分な魔素を取り入れることのできる器を持ったものならば耐えられたかもしれない。
しかし、何も知らず、ただその利点のみを見て薬を使った者は、その身から溢れ出る魔素の扱い方が分からず、次々と心を壊していった。
その危険性を、その惨劇を持って知った人間たちは、それを“規制”したらしい。
完全に“禁止”しなかったのは、その圧倒的な力を惜しんだからなのだろう。
愚かなことだ。その過ちを何度繰り返そうとも、欲に溺れてしまった彼らには、その悪魔の誘惑に抗う術はないのだ。
そこまで考えて、彼女の疑問は、なぜマリアがそんな危険な薬を持っていたのか、というものに移った。
その表情は、真剣で厳しいものだった。
「マリア。私は、貴方にその危険性を教えていたはずですね。……いや、怒っているわけではないのです。慎重な行動をする様に私自身が教え込んだ貴方がした事です。それは必要な行為だったのでしょう。私の疑問は、なぜ貴方がその薬を持っていたのか。ということです」
怒らせてしまったと思ったのか、少し怯えた表情を見せた彼女に、表情を厳しくしすぎたか、と反省したウルム。
すぐに表情を元の笑顔に戻して、彼女はその疑問を問うた。
ホッ、とした表情を見せるマリアは、その疑問に答える。
「私が、持っていたわけではない。彼が、アルバが持っていた。彼が、傷つけられているのに、何も……できなくて。……見ていた。彼が膝をついた時に、彼の手から、その薬が零れた。咄嗟に、飛び込んだ。よく……分からなかったけど、それが、必要だと思った」
時折、目を伏せながらマリアは経緯を語った。
ウルムは、そんな彼女に言い聞かせるような、優しい声で語る。
「そう……。良く頑張りましたね。貴方の行動は、確かに彼を救いました。そして、貴方自身も」
「しかし、忘れてはいけませんよ? 貴方が傷つけば、悲しむ者がいるのです。今回は運良く、そう“運良く”何も障害は残りませんでした。しかし、次はどうなるかは分からない。もしかしたら、―貴方は“心を壊していた”かもしれない。そんな事、誰も望んではいない」
マリアには、ウルムが心から彼女の事を心配しているのが分かった。そして強く反省した。
危険な事をしてしまったのは仕方がないが、倒れた彼女を誰よりも心配してくれていたのは、ウルムなのだ。
「―だから、これからの旅では、人を“頼る”ことを覚えなさい。まずは、彼を。そして、いつかは“皆”を。それが、貴方を“危険”から救ってくれる。分かりましたか?」
「―うん」
そんな思いを理解できたから、彼女はウルムの言葉に、彼女の強い意思を込めて、返した。
そう、あの時は―“孤独”だった。しかし、今はそうではない。
彼女の心には、大きな支えが、大きな“光”があるのだから。
そのマリアの表情に、ウルムも一度大きく頷いて、冷めてしまいそうだった食事を、再開するように彼女に勧める。
匙を持ち、美味しそうにスープを口に運んでいく彼女を見ながら、表情には出さず、頭の中で、ウルムは考えていた。
―なぜ、一般人である彼が、規制されるほどの“特殊”な薬を持っていたのか。
何か特別な理由で、買い求めたとは考えにくい。規制されているのだから、如何に専門的な店であったとしても、市販されているような薬ではないはずだ。
彼自身が精製した、というのも有り得ないだろう。
まず、知識がないだろうし、もし知識があっても、あれほど生真面目な彼だ。今の状況ならいざ知らず、その時に、法を犯すような真似はしないだろう。
となれば―。
―専門の知識と技術を持った“何者か”が、彼に近づき、気づかれない内に、“忍ばせた”としか考えられない。
それも、―この状況を、“見越して”いたかのように、だ。
深まる疑問。沸き上がる不安。しかし、彼女にはその真実を知る術はない。
(願わくば、そう“願わくば”。その“人物”が彼らの“敵”ではないことを祈ります……)




