追憶3 ~精霊~
暫くの間、彼女を抱きしめたまま、私は涙を流しました。彼女はただじっと私の顔を眺めていました。
頬を伝う涙が漸く乾き始めた頃、私は彼女を抱いていた腕を離し、安心するために確認の意味を込めて彼女に問いました。
この水晶があれば、貴方のお母さんを助けることができるのか。と。
彼女は私の言葉に数秒沈黙したあと、小さく首を横に振ります。ではなぜこれを?と更に問うと、淡々と、それは、お母さんのだから。と返答しました。
意思疎通がなかなか上手くいかないことに、自分の経験の少なさに少し憤りを覚えました。
しかし、今は彼女と共にロザリアの元へ向かうことが、この私の心の中に芽生えつつあった初めての感情を解決する術であると自分を納得させ、私は彼女の手を引いて住処へと向かったのです。
住処の周りには、私が少女の捜索を頼んだ動物達を筆頭に、伝を受けて集まったその他の動物たちが集まっていました。その中央には先ほどの狐。
ワイワイガヤガヤと集会でも開いているかのような騒々しさにちょっと顔が綻びつつ、私はこんなにも信用され、愛されているのだなと嬉しくなりました。
群がる森の住人たちに困った様子で説明していた中央の狐が、私を見つけたのか安堵の表情を浮かべました。
それに答えるように周りの動物たちに声を掛けると、周囲の視線が私に集まり、口々に言葉が発されました。
全て聞き取ることは出来ませんでしたが、おおよそは私の帰りが遅かったことへの心配。
確かに、彼女を捜索し始めてからだいぶ時間が経っていました。
最初は退屈しのぎのつもりで行なっていた、私の小さな施し。
それが積み重なって、森の動物たちの信頼をこんなにも得ていたことを私は認識しました。
そして、今では彼らが私の大切な“家族”であることを理解したのです。
そんな大事なことに気づくことが出来たのも、私の手に引かれている、その小さな少女のおかげだったのでしょうね。
動物たち一人一人に捜索の礼をすると、彼らは満足したのか森の方へと帰っていきました。
全員の相手をしたのでだいぶ時間を食ってしまいました。
最後に住処の方から知らせを持ってきてくれた鳥が飛んできて私の肩に乗り、その痛々しい血のこびりついた羽の毛づくろいをしながらロザリアの容態を伝えてくれました。
彼の治療の為に魔法を行使しつつ、耳を傾けるには。
今は目を覚ましている。また譫言のように彼女の娘の名を呼び続けている。との事でした。
それは好都合。私は彼の治療をしながらそのまま肩を貸し、住処に入りました。
彼の伝えたとおりに、呻くようにマリアの名前を呼び続けている彼女。
その驚異的な生命力のおかげか、はたまた何かが彼女をこの世に縛り付けているのか。
天井を見つめる彼女の目は焦点が合い、顔は幾分か血色が良くなって来ている気がしました。
私は、マリアから手渡された奇妙な水晶を彼女に返そうとしましたが、彼女はまた首を横に振り、私の元を離れて二脚ある椅子の片方、彼女の母親の近くの椅子に腰掛けました。
そしてロザリアの顔をじっと、声をかけるでもなくただじっと見つめます。
あくまで、私がロザリアに渡さなければいけないのでしょう。私はロザリアの視界に入るように足を進めました。
彼女の傍らに膝を着き、顔をのぞき込むようにしてみると、やっと私の存在に気づいたのか、彼女は私の手を弱々しく掴み、また、マリアは?といつものように問います。
スっ、と対面の椅子を指しました。
しかし、彼女は以前のようにそちらを向くことはなく、ただ一言、そう。と納得した声で呟くだけでした。
その視線は私の手の中にある水晶を見つめ、その表情は何かを確信したような、来るべき時が来たことを知らされたような、決意に満ちた表情でした。
そうですね。ここからは彼女の言葉、私との会話を一字一句そのまま伝えましょう。
「ああ、魔力を感じる……。遂に、遂に……この時が来た」
今までその口を開いても、出るのは娘の名前と、感謝のみだった彼女から、そんな言葉が発されました。
私が驚いているのを無理もない、と言いたげな表情で彼女は続けます。
「これが、“運命”。私が、ここに……“翔んで”こられたのも。……貴方に、出会ったのも……。……“涙玉”を、貸して……」
未だその体を満足に動かすことの出来ない彼女の必死の言葉に、私は右手に握り締めていたその水晶、彼女が“涙玉”と呼んだものを彼女の伸ばされた手の中に納め、そのまま私の両手で手ごと包んで、しっかりと握らせました。
「ありがとう……。そして……ごめんなさい」
彼女の感謝と、突然の謝罪。
その意味を考える間もなく、彼女の手の内にあった水晶が眩い光を放ち、握り締めた手から溢れました。
まさにあれが“極光”とでも言うのでしょうか。瞬く間に私の視界は白く塗りつぶされてしまいました。
彼女が何をしたのか、何をされたのか理解の及ばないまま、私があまりの眩しさに翳していた手を退け、目を開いた時。
私は深い、どこまでも続く深い闇の中に佇んでいました。
またもや私の理解の範疇を超える出来事に、酷く狼狽えていたのを覚えています。
ふと、目の前の空間に違和感を覚えました。闇の中で何かが蠢いているような、はたまた空気が揺らいでいるような。そんな奇妙な感覚でした。
ポツポツと、そうですね、雨の降り始めのような感じです。
空から。といっても、どちらが空でどちらが地か分からないのですが、そう、“空”から光の粒が一点に向かって降ってきたのです。
ポツポツと、一粒、二粒、次第に雨の様に多く、そして強くなっていく光の雨。
それは闇の地面に染み込むわけでもなく、地を流れるわけでもなく一点に積もって行き、次第にその姿を見せ始めました。
光り輝く、女性。長い髪を風もないのに左右に揺らす美しい女性。
それは、先ほどまで見ていたロザリアその人でした。
ただ、私の知っている彼女と違うのは、あんなに痛々しかったその脇腹の傷はまったくなく。
そして何よりも私の目を惹きつけたのは、その背の“片翼”の翼。
神々しい、汚れのない光の翼。まさしく、彼女は“天使”でした。
河原であの少女に感じた“畏敬”とはまた違う感覚が私の体を突き抜けました。
それは“崇拝”と“使命”。
自然と私は彼女の前で膝を着き、頭を垂れていました。
心が悟ったのです。彼女は私が崇めるべき存在で、彼女に仕えることこそが私の使命であると。
どうしようもなく身体が震えました。歓喜です。そう、全身が喜びに震えていたのです。
思えば、百数年前に生まれたはずの私は、自分の出自を、親を、自分の使命を知らずに生きてきたのです。
気が付けば、滝壺の底で目を覚ましました。
自分はレミエルであること、強い力を持っていることを理解しながら、私はそれに少しも疑問を持たずに過ごしてきていたのです。
だからこそ、目の前の彼女を見た瞬間に、私は存在理由を与えられたといっても過言ではない心の激動を覚えたのです。
私は、その瞬間に“生まれた”と言ってもいいでしょうね。
膝を着き、深く頭を垂れる私に向かって、ロザリアは近づき、私の手を取って、顔を上げるように言いました。
その声に顔を上げた私の手を引き、立たせ、彼女は微笑みました。
「名も知らぬレミエル。貴方の施しに感謝するわ。ありがとう」
もったいない言葉でした。
ただ私は彼女を誰とも知らず生命を長らえさせただけ。
むしろ、ワイザーに偽装していたのだろう彼女への行いは、彼女を自分の仕えるべき人であると理解した今では、あまりにも無礼極まりない。そう思いました。
そんな私の心情を理解してか、彼女はクスクスと笑いながら言うのです。
「あら、お願いだから、いつもどおりの貴方でいて頂戴。私が貴方に感謝しているのは事実なのだから。私は貴方と対等な立場で話したいの。……といっても、そんなに時間は残されていないけれどね」
しかし、と言い淀む私を曇りない瞳で見つめる彼女。
仕方ない、と私は内から溢れ出ようとする彼女への崇拝の念をそのままに、態度を緩めました。
うんうん、と満足した表情で頷く彼女に、私は苦笑を見せざるを得ませんでした。
何だか、今まで二日間の短い世話をしてきた彼女の姿からは、というかさきほど、あんなに神々しい姿を見せた彼女からして、何か“イメージ”とは違う。
想像していた彼女はもっと粛々と荘厳な感じだったのに、目の前の彼女はなんというか、フランクな、親しみやすい感じでした。
毒気を抜かれたように佇む私に、彼女は表情を戻して語りだしました。
「さて、私は貴方に伝えなくちゃいけないことがあるわ。もうあまり時間がないから、しっかりと聞いて欲しい」
私は頷きました。是非もない。彼女の言葉は一字一句聞き逃さないと私は気を張りました。
「では、先ず私とあの子、マリアの話、そして、貴方の話。」
「私は、“精霊”。“光の精霊”ロザリア」
「そして、あの子は、次世代の“精霊術師”私の大事な、大事な娘」
“精霊”、その言葉に聞き覚えはありました。世界を作り出したのは、一柱の神と二人の“精霊”。
“光”と“闇”の精霊。
その一人が彼女だとでも言うのでしょうか。そして、彼女の娘であるマリアの“精霊術師”とは。
私の疑問も彼女の言葉の中で語られていきました。
「私は、九代目の“光の精霊”。精霊とは、神が引き連れし初代。そう“光”と“闇”の精霊が作りだした、世界の構成を司る“生命体”。自然界に溢れる事象を司り、操る者。そして、あの子は、その力を借り、世界の事象を“意のまま”に操ることのできる唯一の人間」
「私は、“大いなる闇”に追われ続ける彼女を助ける為に、八年前に彼女を“保護”し、四年前に彼女の“心を封じた”」
「それでも、強大なる“闇”は彼女を捕らえ、喰らいついてきた。私の力でも襲い来る闇は払えず、貴方が知るように大きな負傷をしてしまった」
「私がこの場所に“翔んで”こられたのは、あの子の力と、私の力が合わさったのと同時に、貴方の強い力が道標になったから。貴方もまた、“精霊”へと転じる力を持つ者」
何度か言葉を区切りながらも、彼女は淡々と真実を述べていきました。
問いたいことは沢山ありましたが、“時間がない”それが嫌というほど理解できました。
彼女の身体が、透けてきていたのです。
足元から徐々に光の粒子に還るように。だから、私は口を挟みませんでした。
本当はもっと語り合いたい、もっと彼女のことを知りたい。そんな欲求を抑えつつ、耳を傾け続けました。
そう、彼女の言葉を、心に深く刻み込みながら。
そして知るのです。自分の存在を、彼女の真意を、少女の運命を。
そして、これから関わって行くだろう自分が向かい合うべき、大切な“使命”を。




