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闇空のスカイライト  作者: 日明 観影
一章 知は旅の始まり
15/34

追憶2 ~畏敬~

「思えば、あれは必然、そう“必然”だったのでしょうね。そう、私がレミエルとしてこの世界に、この場所に生まれ、そして彼女たちに会うことになったのは」



 ▲▽



 彼女、ロザリアとその娘、マリアを助けてから、二日ほど特に何事もなく時間が過ぎました。

 驚くべきことに、風前の灯火だった彼女は、その驚異的な生命力で生きながらえていたのです。

 当初は持って数時間だと思われていたその時間を、彼女の中の何かが必死に繋ぎとめていたのでしょう。

 意識はほとんどありませんでした。時折、そっと目覚めたかと思うと、譫言のように彼女の娘の名前を繰り返し呟き、傍らに立つ少女の手を苦しげに手を伸ばして握り、私に向かって感謝の言葉を述べて意識を手放す。そんなことの繰り返しでした。


 なぜここに迷い込んだのか、なぜあの子をここまで大事にするのか。


 なぜ、私にそんな“優しい”瞳を向けるのか……。


 問いただす時間もなく、彼女は昏昏と眠り続けました。唯一聞き出すことの出来たのは、意識を失う瞬間に名を問うた私に答えた、『ロザリア』という名前だけでした。



 娘、マリアの方はどうだったかというと。

 彼女もまた何も私には語ってくれませんでした。


 傷つき、その体を動かすこともないロザリアよりも、むしろ私の意識を釘付けにしたのは、彼女の方でした。

 彼女は、目の前で倒れている母親を見ても、普通なら怖がっても不思議ではない私の姿を見ても、“関心”を示そうとはしなかったのです。

 話しかけられれば反応はする。私が果物を採ってきて与えれば、手に取り齧る。


 しかし、こんなにも彼女を愛してくれている母親の呼び掛けにさえも、何をするわけでもなく、ただ見つめるだけ。

 まるで、そこに倒れているのは人形で、ああ、もうこれは壊れるのだ、と、ただ事実だけを見つめ続ける漆黒の瞳。


 正直に言えば、私はその子に初めて“恐怖”を抱きました。

 百数年生きてきて、初めて感じた、そのわけもなく体の奥底から沸き上がるような震え。


 名しか分からぬ、小さな、無力な筈のただの少女。その瞳の奥にある“無”が何よりも私を恐怖させ、身を震わせ、心を縛りつけたのです。


―まるで、“人形”ではないか。と。


 そんな少女の世話をしつつ、ロザリアの介抱をしているうちに、二日間は瞬く間に過ぎてしまいました。



 事態が動いたのは、三日目のことです。その日の朝、私は少女の食事の為の果実を取るために森に赴いていました。

 食物を必要としない私にとっては彼女たちのような人間が、何をどのように食べるのかという知識はありませんでした。

 ただ、生の魚には寄生虫がいることは知っていましたし、森の動物達を狩って与えるわけにもいきません。必然的に果実くらいしか私に選ぶ選択肢はなかったのです。

 

 森の動物たちも、その頃には私が二人の人間を保護していることは知っていましたので、彼らは人間が食べられる果物が採れる場所をその二日間教えてくれたりしました。

 

 果実のなる木から、五個ほど果実を採り、水で形成した籠の中に入れて、今日も彼女は生きていられるだろうか、少女が何か語ってくれたりしないだろうか。と不安、そして僅かな希望を胸に抱きつつ、来た道を引き返している時のことです。

 

 とても慌てた様子で、一匹の鳥が小枝に当たるのも顧みずに、飛んできて、私のすぐそばの木の枝に降り立ちました。

 私が、少女と女性の様子を見ていて欲しいと頼んだ者でした。

 

 何があったのかと問う間もなく、彼は私に焦りに満ちた声で伝えました。

 

 住処の外に出た少女が、滝壺に落ち、流された。

 

 報告を聞いた私は、出来る限りの速さで川の方へと急ぎました。

 あの滝は、私の力であまり大きな音を立てないように、滝壺の少し上で流れを緩めてありますが、その圧倒的な水量に変わりはありません。

 流れる速さは普通の小さな少女が抗えるものではないのです。

 

 そこから私の住処までは走って五分ほどの距離。

 もし、あの流れの速さで流されてしまったなら、先日、彼女らを助けた泉のすぐそばまで流されているかもしれない。

 

 頭の中で瞬時に考え、私は直線距離で一番最短の道を向かいました。

 途中何事かと顔を出した動物たちに事情を伝え、川の周囲、到るところを調べて欲しいと頼みつつ。

 

 なぜ私がそこまで必死になったのかは、その時の私には、わかりませんでした。

 後に、それは私の使命であり、運命であった事を知ることになるのですが。



 河原についた私は、驚きました。確かに、私の読み通り少女はそこにいました。

 ただ、私の予想と違っていたのは、川原に、“立っていた”のです。

 

 微動だにせず、まるでちょっと泳いだだけのように、滴る水を払いもせずにその場に立ち、森のある一点の方角を見つめ続ける少女がそこにいました。

 私は、また心が震え上がるのを感じました。ただ、今まで少女に感じた震えとは違った、また初めての感情を。

 

―それは、“畏敬”の念。


 言葉にするのは、とても難しい瞬間でしたが、あえて言葉にするならばそれが一番近いでしょう。

 

 それほどまでに、少女の立ち姿は“神々しく”“畏れ多く”“尊かった”のです。

 

 無限に続くかのような数秒間、私はその姿に見惚れていました。

 ふと、彼女は動き出しました。視界に入っているだろう私の方へではなく、見つめていた森の一点の方角へ。まるで導かれているかのように迷いのない歩みでした。

 

 咄嗟に私は声をかけました。口から出たのはとても短い問いかけでした。


 どこに行くのですか。 


 何か声をかけなければ、彼女はどこかへ行ってしまう。それを危惧しての発言。

 

 彼女は私の問いに一瞬だけ視線を寄越したあと、何事もなかったかのようにまた歩きだしました。

 

 ああ、私は未だ景色の一部なのだな。と少し悲しくなりました。

 確かに付き合いはまだ二日ほどですが、私は彼女の世話をしているのに。

 

 このとき、私ははっきりと自覚しました。私は、彼女に自身を見てもらいたいのだと。“関心”を持ってもらいたいのだと。



 私の思いを知ってか知らずか、彼女はゆっくりと森の奥へと進んでいきました。

 私は何を言っても今は無駄なのだろうと、彼女の後ろを着いて行ったのです。

 

 着いた先は、先日二人が倒れていたあの泉でした。泉を赤く染め上げていたロザリアの血はもう既にどこかに流され、土は乾いていました。

 一匹の狐が水を飲みにやってきていたので、森の動物たちに少女が見つかったことを知らせて欲しいと頼みました。

 

 なぜ彼女はここに来たのだろう。私の疑問は膨らむばかりでした。

 

 思えば、私はなぜ彼女たちがこんな森の中の小さな泉のそばに倒れていたのか、まったくと言っていいほど見当もつかなかったのです。

 森を歩いてきたならばわかりますが、ロザリアが負傷したのはその流血具合から、どう考えても発見した数分前。

 もし森の中で何者かに襲われ、その場で力尽き倒れたならば、そこまで何かしらの跡が残っているはず。しかしそれもない。この場にも襲われた形跡はない。

 

 それに、この森に入ったならば森の動物達からもっと早く報告が上がっていたはず。となれば考えられるのは、瞬時にその場に現れた。

 

 “転移”してきた。


 そう考えるよりほかありませんでした。

 そんな魔法はレミエルである私ですら、使えません。

 なぜなら、それは自分の存在を一時でもこの世から消したことと同義だからです。

 魔法は行使したものが意識し続けなければ維持できない。一瞬でもこの世から姿を消してしまえば、その意識は途絶えるはずです。そして、その先に待っているのは“無”消滅のみです。



 私が思案に耽っているその前で、マリアは泉の傍に近寄り、ゆっくりと足をつけました。

 泉と言っても水深は深いところで二メートルはあります。

 私が彼女を引き止めようと肩をつかもうとした瞬間。彼女は小さく、しかしはっきりと聞き取れる声で呟きました。

 

―“開いて”と。

 

 それは神秘的な光景でした。

 

 直径六メートルほどの泉の中央に一筋の光が走り、泉の水がまるで中央から押し出されるように左右に開いていったのです。それも“一瞬”で。

 

 水のレミエルである私にも同じことは出来るでしょう。しかし、私の魔法は意識し続けなければその効果を発揮しません。

 それに、与えられる効果はゆっくりとしか制御できない。

 

 辺りに火を燃え上がらせるにしても、魔法とはその事象を引き起こすだけ。

 あとの火の行方は自然に任せられます。意識し続けて大量の炎を出し続けても、それが対象に燃え広がるには多少の時間が必要でしょう。それと同じです。

 

 しかし、目の前の彼女はそれを一瞬で行なってしまった。

 魔法では歪められても、変えることは出来ない自然界の法則の縛りを、完全に“越えて”しまった。その事実がまた私を震えさせたのです。



 大きく泉の底まで水が裂け、左右に水壁の出来た幅一メートルほどの道。そこに彼女は入って行きました。

 

 泉の中央辺りで立ち止まった彼女は、泉の底から何かを拾い上げるような動作をしたあと、踵を返して元の場所に帰ってきました。

 彼女の後ろでは既に裂けた水は元に戻り始めており、彼女が泉の端へと着いた頃には、もう波一つ立てず何事もなかったかのような下の様相を取り戻していました。

 

 呆気にとられ、黙したままの私に、彼女は近づいてきました。

 やっと関心を持ってもらえたというのに、まだ何も話すことも、動くこともできない私を余所目に、彼女は私の目の前に立ちその右手に持った何かを差し出して言うのです。

 

―これを、“お母さん”に。


 差し出された手に乗っていたのは、白と黒が混ざり合うようにして混ざり合わない、波間の渦のような不思議な模様の丸い水晶。

 

 どうしようもなく震える手で、私はその水晶を受け取りました。手に感じるのは、軽い重みと、少女から微かに移った温もり。

 

 その時、私は“感動”と“後悔”を感じていました。


 

―彼女は、マリアは“いきて”いるのだ。何も話さなくても、何も感情を表さなくても。


 

―決して“人形”などではなかった。マリアは言った。“お母さん”と。



 まるで関心も無く、ただ“物”を見つめていただけのように見えた少女が、ロザリアを、今にも死に導かれそうな彼女の母をちゃんと、確かに“母”と認識していた。

 

 この子は、関心がなかったのではない。感情がなかったのではない。ただ、それを受け入れることが、意識することが出来なかっただけなのではないか。


―“心”が、閉ざされているだけなのではないか。


 彼女は“事実”だけを見ていて、“事実”だけを受け入れていたのではないか。


 ロザリアが“母”であるという事実。彼女が死にかけているという事実。私が彼女達を助けたという事実。

 

 それを、彼女は受け入れていた。理解していた。

 

 ただ、そこから沸き起こる感情を認識できていなかっただけなのだろう。

 そして、自分が何をすべきなのか知らなかっただけだったのだ。

 

 彼女は何も知らない、無垢な“子ども”なのだ。



 ああ、私はなんて愚かだったのだろうか。



 こんなにも、こんなにも、彼女の身体は小さく、そして“暖かい”のに。


 私は、未だに微動だにしない彼女を強く、強く抱きしめて、初めての“涙”を流しました。


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