ウルムという女性
グツグツと鍋が火に掛けられているわけでもなく、気泡を上げている。
鍋の中には、さっき採ってきたばかりの野草と、蓄えのあった鹿の干肉が細かく削がれて煮込まれていた。
鍋をかき混ぜているのは、黒髪の小さな少女。
特にこれといった表情もなく、ただ淡々と鍋をかき混ぜ、時にその灰汁を取り除き、味付けに塩を振る。
少女の横には、どうやったのか、水で形成されたナイフで器用に果物の皮を剥き、種を抜き、食べやすい大きさに切り分けている水色に透き通った女性。
言葉はなく、室内には鍋の煮立つ音と果物の割かれる音だけがする。
奇妙に静まり返ったその空間は、不思議と圧迫感はなく、むしろその静かさが安心感を生んでいた。
マリアとウルムにとって、この雰囲気はとても懐かしく、心地良いものだ。
マリアがここにいた時も、こうして二人で料理をした。
ウルムはレミエルという種族であり、口に食物を摂取するという食事行為を必要としない。
彼女にとっての食事とは、空中に漂う目には見えぬ力、“魔素”を彼女の身体へと取り入れることが、彼女の食事という行為に相当する。
彼女の容貌から分かるように、彼女は水の化身だ。もちろん、その体には触れることも出来るし、人間的な温もりもある。意識すれば本当の水の様に体を変えることも出来るのだが。
身体はもちろん、身に纏った衣も透けてはいるが、普通の人間と変わらないようにその魅惑的な体は隠されている。
彼女にとっての料理とは、一種の嗜好の一つであり、自分が調理した食物を摂る訳ではなく、彼女の身の回りの動物に振舞う為に行なっているのである。
それもこの少女と暮らすようになってから行うようになったこと。
マリアは、食事を必要とする。それも、栄養や食べやすさなど、動物に与えるものとは勝手が違う。
マリアがこの地にやってきてからは、それはそれは齷齪したものだ。
この世に生まれてからまだ百数年“しか”経っていないウルムにとって、それは初めてのことばかりだった。
毎日の食事、寝床、病気の看病、怪我。そうやって、一から何かを模索し、時に失敗し、危険な状況を乗り越え、それでも目の前の少女が生きていてくれることへの喜び。
体験したことのなかった、思い遣りを持った生活が、充実した約四年間があったことを、ウルムは黙々と果実を切り揃えながら思い出していた。
「ウルム……。完成した」
ふと声を掛けられて、ウルムはマリアの方を見る。右手には木で作ったおたま。左手には、味見をしたのか、これまた木製の小さなお椀。
『「出来た。っ、……熱い。舌が、ヒリヒリする……」』
『「ああ! もう……、大丈夫ですかマリア? そのままでは熱いに決まっています。ほら、今度からは、そう“今度からは”この別の器に少し注いで、冷ましてから味見しなさい」』
『「分かった。ウルム……。舌……痛い」』
『「火傷したのですね……。ええっと、こういう場合には……。確か、そう“確か”冷やさなければいけないのでしたね。マリア、口を開けて」』
『「あー……」』
ふと脳裏に思い起こされたほんの些細な日常の想い出。
あの頃の少女の面影が、目の前でこちらを見つめる少女と重なる。
(……うふふ。大きく、そう“大きく”なりましたね)
「ウルム……?」
「ん、ええマリア、美味しくできたようですね。少年たちはまだ掛かりそうですし、もう少し、そう“もう少し”そのままにしておきましょう」
「分かった。……手伝う」
そう言って、ウルムの腰掛けている席の隣に座るマリア。
「あらあら。では、盛りつけをお願いできますか?」
マリアは了承の意に、コクっと頷いて、ウルムが切った果物を少し大きめの木の器に盛り付けていく。
果物の一欠片一欠片をジッと見つめては器に並べていくマリアの表情は、とても不思議そうで、今まで何度も見てきたそれを改めて認識し直すかのような仕草だった。
それも仕方のないことだ。以前、少女にはその果物に対する興味などなかった。
いや、興味を持つことは“出来なかった”のだから。
「うふふ。ねえマリア、その果物は“綺麗”ですか?」
ふとウルムの口から溢れた問いは、事情を知らないものが聞いたならば首を傾げるような発言だっただろう。
ただの果物だ。それも、剥かれて、ほんのりと黄色に染まった実をさらけ出す、何の変哲もない果物。
しかし、それを見つめていた少女にとっては、―大切な一歩。
「……分からない。でも、……“美味しそう”。これは、……“いきてる”の?」
自分の発言を正しいか問うような少女の視線。それを受けて、ウルムは柔和な笑みで返す。
「ええ、その果実は“いきて”います。貴方がこれから見ることになるだろう物、人、景色は全て、そう“全て”“いきて”いるのですよ。そして、“いきて”いるものは“綺麗”なのです」
「そう。これが、“綺麗”……。じゃあ、ウルムも、テーブルも、椅子も、花も、土も、岩も、水も“綺麗”」
ぐるっと周囲を見渡し、一つ一つを確かめるように指さしていくマリア。その瞳は、輝いている。
「ええ、貴方の視界に写っている全てのものが、貴方が思えば、そう“貴方が思えば”それは全て“綺麗”に映るのです。どうですか?“世界”は“綺麗”でしょう?」
「うん。とっても……」
僅かに綻ぶ少女の顔。笑っている、とは言い難い表情かもしれない。
しかし、彼女の煌めく瞳が、彼女の小さな呟きが、彼女が“初めて”笑ったことをウルムに感じさせた。
ウルムはふと思い出す。マリアと初めて出会った日のことを。
あれは、今から七年ほど前。
静かな森がいつもとは違い、どこかざわめいているような、不思議と落ち着かない日だった。
▲▽
この地に生まれて、百数年。ウルムはこの土地の外には出たことがなかった。
この土地は、人里から遠く離れた森の奥地であり、彼女はレミエルとして生まれ、生まれつき強い力を持っていた。
意思だけで魔法を行使し、その身を水の様に変化させることの出来る彼女を害する生物もいない。その上、不思議とこの土地は魔素が濃かった。
生きるために魔素を糧とする彼女にとって、この土地は最適の土地であり、そこを離れて冒険をするほどの好奇心を彼女は持ち合わせていなかったのだ。
そんな土地で退屈せずに生活できていたのは、彼女のその性分だけではなく、この森に住む生き物たちのおかげだった。
ここの動物たちは、その濃い魔素のおかげなのか、言葉を話すことが出来た。
そう、いつからかリンブルと呼ばれる獣人たちがいるように、人間の言葉を解する彼らもまた、人へと成りうる影響を魔素から受けたのかもしれない。
多くの動物たちが、彼女の持つ強い力を恐れることもなく集まってくる。
そんな動物たちに川から魚を採って与えたり、時には闇魔から身を守ってやったりしているうちに、彼女は森の主となっていた。
動物たちは彼女から与えられるだけでなく、彼女にも色々なものを与えた。
近く―。といっても同じ森の中でも数百キロは離れた所にあるというリンブルの集落で暮らしたことのある者は、彼女にこの世界の常識と様々な物の名称などを知識として与えたし、森の外に出たことのあるものは、拾ってきた色々な器物を実際に見せてくれたりした。
実際は、そのほとんどが壊れて使い物にならなかったが。
不思議とこの場所に他の人種が訪れることは、ほとんど無かった。
森の濃い魔素が道を迷わせているのではないか、と数十年前に年老いた猪が言っていた気がするが、理由はどうでもいい。
話を聞く限りでは、他の人種は強い力を畏怖し、排除しようとするらしい。
実際に、指で数えられるほどの回数しかないが、ワイザーやリンブルがこの場所に迷い込んだ事はあった。
しかし、ご多分漏れず、彼女を見ると畏怖し話を聞こうともしない。
中には彼女に興味を持ち、話しかけてくるものもいたが、心を読むこともできる彼女には意思も筒抜けで、誰一人として彼女を“人”として見る者はいなかった。
そういった人々の記憶を消し、動物に頼んで遠くに運ばせる。
そんなことを幾度か繰り返すうちに、ウルムは“人”に嫌気が指していた。
“人”が知らないこの場所で、誰にも知られず、関わらず、暮らしていけば良い。
そんな感情を持ち初めて数十年、彼女に大きな転機が訪れた。
不思議と森がざわついている。そう感じたのは久しぶりのことだった。
森がざわつく時には、何か良からぬことが起きている印だとウルムは理解していた。
ウルムが感じた違和感が確信に変わったのは、彼女の住処に一匹の狼が知らせを持ってきた時だった。
ここから少し川を下ったところにある泉のほとりに、人間の親子と見られる二人が倒れている。そういう知らせだった。
内心あまり関わりたくないと思った彼女だったが、自身が納得していようがいまいが、彼女は、この周囲の森の主だ。
理由がどうあれ、見捨てるわけにはいかない。
そう考えて、彼女は知らせにきた狼に、先導させ、泉へと向かうことにした。
泉に着くと、酷い臭いがした。血の臭いだ。
倒れていたのは、ワイザーらしき血にまみれた女性と少女。
幸い、近くに闇魔はいなかったようで、親と見られる女性は原型を留め、まだ微かにではあるが息をしていた。
酷い。そう呟かざるをえなかった。倒れている女性は原型は留めているものの、その身体には幾重もの裂傷が走り、脇腹は何かが近距離で爆発したかのように抉れていた。
その彼女の腕の中には、彼女とは対照的に傷一つ無い少女が抱きかかえられている。
―これは、助からない。
ウルムはそう冷静に事態を観察した。ある程度の傷であれば、彼女の力で癒すことは出来る。しかし、目の前の女性の腹部の傷は、限度を超えていた。
失った箇所を戻すような力はレミエルである彼女にですらない。
とりあえず数刻、命を長らえさせることは出来るだろう。
しかし、ウルムはすぐにそれを行わず、思考を巡らせた。
このまま死なせてしまったほうが良いのではないだろうか。
意識のないうちに、その生を終えたほうが。もって数刻の余命を与えられたとして、それが彼女を苦しめるものになるのではないだろうか。
そう考えているウルムの前で、女性が小さく唸った。
瞼を開け、その虚ろな、しかし、強い瞳をウルムの方へ向ける。
「そこに、……だれか、いる……の? ……この子、を……お願……い、しま……す。ど……うか。どうか……」
もう目もよく見えていないだろう。声を出すのも辛いはずだ。
それでも、彼女は懇願した。自分の生ではなく、胸で静かに眠る少女の生を。
「……わかりました。名も知らぬ、そう“名も知らぬ”ワイザー。しかし、助けるのは、“貴方も”です」
ウルムの言葉を聞いて安心したのか、それとも襲い来る痛みに耐えかねたのか、女性は意識を手放す。
ウルムは急いで魔法で止血をし、彼女たちを魔法の泡に包み込んで運び、住処へと急いだ。
女性にとっては、酷な選択をしたのかもしれない。
それでも、彼女には、彼女の瞳にはウルムを惹きつける何かが宿っていた。
聞かなくてはならない。彼女の名前を。意思を。
心に思い浮かんでくる衝動に少し戸惑うが、彼女のした選択に迷いはなかった。
この選択が、彼女の人生を大きく変える選択であったことを、このときの彼女はまだ知らなかった。




