少年と世界
※注意
この小説には、作者独自の人生観や意味の捉え方、考え方などが多分に含まれております。
文章に深く入り込む方の中には、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
ご了承の上、本文にお入りください。
――遥か昔、神は二人の精霊を連れて、この世界に降臨した。
神は荒れ果てたこの地に生命を与え、新たな世界を形成した。
二人の精霊は神の命により、世界に“闇”と“光”をつくり、それらを互いに司った。
精霊の力の拮抗した世界は多くの生命の進化を助け、生命の息吹は荒野を駆け巡り、世界は歓喜に満ちた。
それはそれは美しい世界だった。
花が野を埋め尽くし、山々から滾滾と湧き出る清らかな水は大河となり海原へと流れる。
青い空には、白く棚引く雲が悠々と漂い、水はその色を鏡のように映し、煌めく。
多種多様な生物が誕生し、その与えられた生に感謝する。
とても平和で、幸福な世界。それはいつまでも終わることなく続いていくものかと思われた。
しかし、ある日“闇”を司る精霊は禁忌を冒してしまう。
怒った神は世界を二分し、“光”を司る精霊を連れてこの地を去った。
その時、世界は目が眩むほどの眩い光を放ち、そして“空”は消え去った。
――後に、その日は『断罪の終末 ラムルク』と呼ばれる。
▲▽
ここは、闇に閉ざされた世界『ラミュリエル』。
主に四つの大きな大陸があり、そのほかに小さな島が幾つか漆黒の海に浮かぶ。人々は各地に大きな城塞都市を作り、寄り集まって暮らしていた。
そんな世界のとある都市にある学園内の一室に、静かに本の頁を捲る音が響いていた。
本を捲っていた人物は、なぞる様に視線で文章を追いかけている。該当する箇所の文を一通り眺め終わると、短く重い溜め息と共に本を畳む。
本の表紙に降り積もっていた白い埃が、天井から吊り下がる“トルク”の淡い光に照らされながら宙を舞い、床に着地した。
「どれも“同じ”かぁ……」
本を読んでいた人物がその心境を言葉に乗せて、残念そうに呟く。
その声は程よく高く、良く通る声で、若干の幼さを感じさせるところから少年のものであるようだ。
少年は、今自分がいる部屋をぐるりと見渡した。
両側と正面の壁際には、今にも本の重みで軋み、仕切り板が折れてしまいそうな本棚。床には、本棚に収まりきれなかったのか、無造作に山積みされ所々崩れている雑多な本たち。
少年の真後ろには、ついさっき少年が通って来た、床に散乱した本を通れる程度に押し分けて作った細い通路があった。
部屋に窓はなく、年々降り積もった埃も相まって酷く鬱屈した雰囲気を醸し出している。
「これで百冊」
少年は先程畳んだ分厚い本を、手近にあったまだ崩れそうにない本の山の上に重ねた。
そして、細い通路の埃の絨毯に新たな足跡を着けながら、物思いに耽った様子で部屋を後にする。
部屋を出ると、常にシットリと湿っているかの様な輝きを見せる石造りの廊下に出た。こちらは、さきほどの部屋とは違い塵の一つも無く清掃されている。
煌めく廊下を照らす“トルク”の明るさも先程とは比べ物にならず、少年の顔も明確に見て取れた。
大きめの綺麗な青の瞳。すっきりとした口元。まだ幼さの残る顔。
そして何より目を引くのは、少し短めで癖っ気があるが、一種の神々しささえ感じる金色の髪。
少年の名は、『アルバ』。
歳は十五、この学園にて修学する学生である。
普段は学生が行き交うこの学園内の廊下には、現在他の生徒の姿はない。奇妙なほどに静まり返った廊下を一人が歩く音だけが響き、支配する。
何故、彼以外の生徒の姿がないのかと言うと、時刻は一般的に言う“深夜”だからだろう。
――いや、“夜”と言う表現は間違いではないのだが、少々誤りがある。
何故なら、この世界に“夜”や“朝”といった視覚的に捉えることのできる時間の概念はないからだ。それは、人間が活動する時間帯の一部を表す“単語”としての概念でしかない。
先程までアルバが見ていた神話の様に、世界は闇に包まれている。
世界が今の状態になったのがいつの頃なのか検討もつかないが、とても長い間、人は闇の中で生きている事になる。
アルバはゆっくりと上を見上げて、天井に吊るされている“トルク”を眺めた。
この世界が闇に包まれて尚、生命の営みを続ける事が出来るのは、この“トルク”のおかげだ。
これもまた神話に語られる事物で、“光”を司る精霊が別れ際に落とした涙、と言われている。
光のない世界で唯一、人の手が無くとも光を放つ粒子。これが何らかの理由で固体を作ったものが“トルク”だ。
この粒子は世界中に存在するが、生物が自然に行う生命活動に特殊な働き掛けをする訳では無い(といっても、それもまた仮説の話なのだが)。
生きていくこと“には”――だ。
実際、トルクの存在がアルバ達の生活を助けているのは事実だ。
しかし、神話に語られる物に頼っている世界であるというのは、些か心許無い事だ、と彼は歳に似合わない苦笑を見せる。
視線を頭上のトルクから離し、また彼は歩き始めた。彼が部屋を出てから数分経った頃であろうか、ふとアルバの靴が床を叩く音が土を踏み締める音に変わる。
何度も行き来した学園内だからだろう、下を向き、ぶつぶつと何かを呟き思案に耽りながら歩いていた彼が何か物にぶつかる事も無く、目の前には広い校庭が広がっていた。
「青い空……夢物語でしかないのかな……?」
ほんのりと明るい、いつもの学園の並木道の真ん中を歩くアルバの瞳が頭上に向けられる。
周りは光の粒子によって照らされて、あまり暗いという印象は無い。彼もまた、この世界に順応した人間だからだ。
空を見上げた彼の目に映るのは…黒。
光を放つ粒子の先にあるはずの、色彩豊かであるはずの“空”は、真っ黒に染め上げられている。そこにあるのは、濃淡の無い、果てしない“闇”だけだ。
「納得できない」
ボソリと呟くような声であるが、強い意思が込められた言葉を彼は自分に言い聞かせる様に放つ。
すべての事柄を何らかの形で証明し、明らかにする。所謂、学問。
彼が意識的にそのような意味で何かを追い求めている、というわけではないのだろうが、根本的には変わらない。
いうなれば、謎への興味と関心、そして探求。
アルバは、これらの要素が人一倍強く、好奇心に溢れる少年だった。
しばらく歩くと並木道は終わり、彼の向かう先には綺麗に整列した家並みが見え始めた。
ここは、『ラミュリエル』第三の都市。
知聖都市『エルキミア』。
彼の住む都市であり、この世界で三番目に数えられる大都市だ。
その名のとおり、知識を重んじる学者や学生が多く住み、先程の学園もそうだが、研究機関も世界屈指の実績を持っている。
しかし、日夜研究に研究が重ねられているこの都市の研究者たちでさえ、闇に包まれた世界、神話、トルクなどの事実は解明される事が無かった。
――もはや、それらは“諦められた”と言っても良いだろう。
古代より不変の物としての認識が常識になり、そこにあることが当たり前である、と誰もがその存在を疑うことはない。
研究を続ける学者も次々と姿を消していってしまった。
研究者の多くは、先の見えない事実よりも、目先の解明できる物への結果を優先したのだろう。
それゆえに、アルバが本を読んでいたあの部屋は、重要視されなくなった神話、古い世界史が乱雑に放り込まれていたのだ。
碁盤の目の様に端然と並ぶ家の間に、スッと真っ直ぐ伸びる道の曲がり角を、右へ左へとジグザグに歩いて行く。
しばらくして、黙々と歩いていたアルバの歩みが一つの家の前で止まった。
『21番5戸』と表札に書かれている家で、周りの家と比較しても何ら変わりのない家だ。
ローブのポケットから小さな鍵を取り出して鍵を開けると、家の中へ入る。
「ただいま」
彼の言葉に返事をする者はなく、家の中は静まり返ったままだった。
「僕が帰って来るまで待ってるとか言ってたけど、流石にもう寝たよな…」
床を踏み締める音だけでも、静寂の中ではやけに大きく鼓膜を震わせる。あまり大きな音を立てない様に廊下を歩き、リビングへと続くドアを開けて、中をソッと覗きこんだ。
リビングはそれなりに広かったが、広さとは対照的に家具の小ささが目立った。
部屋の中央には小さな長方形の木製のテーブルに、二脚が対面する様に置かれた椅子。部屋の北側は小さな仕切棚を挟んでキッチン、南側は簡素な作りの小さなソファがあり、壁側には本棚が置かれていた。
そんな飾り気の無さゆえに開放感が溢れた空間の小さなテーブルに、これまた小さな少女が腕を組んだまま肘を着いて伏せっていた。
彼女の手元には眠る直前まで読んでいたと思われる本が無造作に転がっている。
「先に寝てて良いって言ったのになぁ」
アルバは、やはりか、と困った様に頭を数回掻くと、彼女の側に寄り肩を少し強く揺らした。
「う、うん?なっ何? 誰!?」
机に伏していた少女は突然の外部からの衝撃に目を覚ました様で、先ほどまでくっついていた瞼を必死にパチクリさせながら周りを見渡している。
頬に腕の形をしっかりと赤く残した少女の顔と、その慌てた表情にアルバの顔もほころんだ。
アルバは彼女の肩を再度叩いて自分の存在を伝えると、もう一度はっきりと少女に聞こえる様に柔和な笑みで、ただいま、と話しかけた。
「お兄ちゃん?……あっ! おっおかえり! その、レンは寝てないよ!! お兄ちゃんが帰って来るまで寝ない……って決めてたんだもん……」
眠たそうな目を擦ってアルバの方を見た少女は、彼と気付くや否や身振り手振りで一生懸命に寝ていなかった事をアピールしていたが、次第に意気消沈。最後には申し訳なさそうに俯いてしまった。
少女の名は、『レンナフェール』。
美しい白銀の髪と碧眼、整った顔立ちを持った、アルバの妹だ。
アルバには両親がいなかった。いや、彼がここに居る事実から、生みの親である両親は存在するのだろうが、彼には彼らがどこにいるのか、どんな顔をしているのかは分からなかった。
――そう、アルバは捨て子だった。
物心ついた頃には、すでにここエルキミアの保育施設の中にいた。親という存在を知らず、自分は捨てられたのだということすら理解しないうちから、他人と生活してきた。
十歳の時に、保育施設内の適齢を超えた彼はある魔術師の若夫婦の養子に迎えられることになる。
引き取られた先で待っていたのは、“先生”と呼ぶ大人の存在ではなく、始めて“親”と呼べる存在と、始めて出来た妹との暖かな生活だった。
現在は、アルバが学園に通っているため親元を離れている状態にある。
アルバが住んでいるのは学生が住む学生区画。両親が住んでいるのは一般居住区画だ。
この世界の都市は外敵などからの防衛の意味を込めて、とても広く作られている。同じ都市に住んでいても、彼と彼の両親が住む区画では相当の距離がある。
レンナフェールは兄と離れるのが嫌だったらしく、ある日トテトテと彼の元へやって来てしまって、今に至る。
そんな彼の暖かい家族の一人であるレンナフェールは、よほど素直で純粋な女の子なのだろう。うぅ、と少し唸りながら自己嫌悪に陥っているしまっている様だ。
歳は十二歳、多感なお年頃なのである。
内心、可愛いな、と彼女を眺めていたアルバであったが、このままでは拉致があかない。 それに、明日も定刻で学園の講義は始まるのだ。睡眠不足で頭が重い状態では、まともに話など耳に入っては来ないだろう。
それだけは避けたい生真面目な彼は、今だ俯いて唸っている妹を宥めるために彼女と目線を合わせて向き合った。
「レン。待っててくれてありがとう。僕は気にしてないから顔をあげて?」
「うぅ、ほんと? レンは約束守れなかったんだよ?」
「うん。遅くなった僕も悪いしね。ほら、もう遅いから寝よう」
アルバはなかなか強情に食い下がってくる彼女の髪を撫でながら促す。サラサラと流れる白銀の髪が、彼の手の中で踊った。
すると、彼女は気持ち良さそうに目を細めてから暫し撫でられ続け、満足したのか、うん!と頷くと立ち上がり、机に転がっていた本を掴むと空いた方の手で急かした様に彼の手を引いた。
まったくもって、切り替えの早い妹だ。
グイグイとレンナフェールに手を引かれながら、アルバは考えていた。
世界の成立ちに対する関心が失われた世界。空と太陽というものを記した神話。不変のものとされてきたトルク。
(僕は……知りたい。研究者でさえも諦めたこの世界の事を)
寝室の二つ仲良く並んだベッドの間にある、小さな机。その上に、スタンドライト型のトルクの光に照らされて、鈍い輝きを見せる一つの指輪が透明のガラスケースに納められている。
質素で何の模様もない、ただ円く滑らかに削られただけの銀色の指輪。
保育施設を出る時に彼に手渡された、たった一つの生みの親へと繋がる手掛かり。
アルバは暖かな毛布にくるまり、天井を見上げていた視線を、ふと左に向け、窓の外の闇を暫し見つめた後にスタンドライト型のトルクに布をかけた。
(何かきっかけが欲しい。このままじゃ……だめ……だ)
――ゆっくりと薄れて行く意識の中、浮かんだ彼の願いが思わぬ形で叶う事。
そして、それから始まる“闇”と“光”の運命の渦に、彼自身が巻き込まれて行く事を、彼がこの時知る由もない。