猫と犬
童話じゃないような気がしてきました。
田舎に住んでいるとある人物が飼っている、黒と白の猫がいた。凛とした雰囲気を持つ猫で、窓辺で外を眺めるのが日課だった。
ある日、その猫の飼い主が死んだ。高齢だったのだ。猫は自由になった。同時に、不自由にもなった。
だから猫は、家を出た。窓を開けて、外へ出た。夜の空気がおいしかった。でも冷たくて、中から猫を侵蝕するようだった。
冷たい風を頬に浴びながら、猫はアテもなく歩いた。もともと、目的など無かった。ただ、自由や不自由から、解放されたかった。
しばらく行って猫は、ある一匹の犬に出会った。みすぼらしい身なりをした犬だった。犬と言えば猫の天敵だが、猫に恐怖など無かった。その犬の瞳に、怯えと、安堵と、不安と、希望と、そう言ったものが宿っているのを見たからだ。
猫はすぐに、その犬も自分のように自由と不自由と束縛とから逃げてきたのだと分かった。犬もそれが分かったようだった。だから二匹はすぐに打ち解け、寄り添うようにしてその夜を過ごした。
次の日、猫は言った。
「あなたは……どうして外に出てきたの?」
犬はこう答えた。
「逃げるため、かな」
「何から?」
「何もかもから」
同じだ、と思った。猫は、不自由と束縛と、絶望と不安と、恐怖と怯えと、自由と希望と、安堵と安心から逃げてきた。負の感情だけではなく、正の感情からも逃げてきた。犬も、何もかもから逃げてきた。自分を包む全てから。この世からは逃げられないと知りつつも。
ゴミ捨て場の鴉を見た。彼らは悲しくないのだろうか。人間が捨てたゴミを漁って生きている。雀や椋鳥から恐れられ、人間から嫌悪され、まるで世界の中に混じり込んだ異物のように扱われて、それでも孤独のまま、生きている。そんな事を知っても、哀しくはならないのだろうか。
日々は過ぎた。日に日に、二匹は弱っていった。まともに餌を食べていないのだから当然だ。草を食み、土をも食んできた数日で、二匹は着実に弱っていた。
「死ぬかな」
犬が掠れた声で呟いた。
「死ぬよ」
猫も短く言葉を返した。
「もうじき、死ぬ」
それでも、猫の心に恐怖は無かった。犬も同様だった。恐怖も絶望も、とうの昔に捨てた。否、逃げてきた。恐怖する事が怖くて、絶望する事に恐怖して逃げてきた。
「……立ち向かうべきだったのかな」
犬が唐突に言った。
「恐怖や絶望や、不安や不自由に」
「……そうだったのかも」
ギャアギャアとやかましく騒ぎ立てる鴉が、再び二匹のもとに近付いてきた。
「でも、もう遅い」
そう。もう何もかも、遅いのだ。今更恐怖に立ち向かっても、絶望に立ち向かっても、すぐに返り討ちにあうだろう。そしてまた恐怖を恐れ、絶望に怯え、また逃げてしまうだろう。
逃げてはならない。感情から。この世から。
「……死ぬよね」
「死ぬね」
二匹は繰り返すように呟いた。
「……寂しいよね」
「……寂しいね」
逃げてはならない。感情から。寂しさから。
「……もう少しだけ……生きていたいな」
「……うん」
捨ててはならない。感情を。生きる希望を。
「ねぇ……死んで天国に行ったらさ」
「うん?」
「また、会えるかな」
犬の言葉に、猫は少しばかり動きを止めた。
「……決まってるじゃん。会えるよ」
猫はそう言って微笑んだ。
「だよね……。じゃ、少しだけ先に……」
犬は呟くように言った。
「逝ってるよ」
犬も微笑んだ。猫は小さく頷いて、犬の幸せそうな寝顔を見守っていた。
「独りになっちゃったな……」
猫は呟いた。自分ももうすぐ死ぬはずだ。
それでも、猫の心に恐怖は無かった。犬だって同じだったはずだ。恐怖も絶望も、再会の希望が打ち消してくれる。寂しさを分かち合った、再会を約束し合った犬との出会いに感謝した。
立ち向かわなくてもいい。だが、逃げてはならない。
全て受け止めなくてもいい。だが、背を向けてはならない。
遅かったかもしれない。気付くのが、少し遅くなってしまったかもしれない。だがそれでも、猫は気付いた。犬との出会いを通して、気付いたのだ。
「会えてよかったよ」
呟いて、猫は目を瞑った。
翌日、そこには寄り添うようにして微笑んだ、猫と犬の身体が倒れていた。