転校生は恋する乙女
朝のホームルームが始まる前の時間、暇を持て余した瑠瑠はぼんやりと窓の外を眺める。藍色の髪が風に煽られては、音もなくさらさらと零れ落ちる。
そのどこか儚げな様子に、女子生徒から熱い視線が集まる。
小さな声で交わされるのは、彼への憧れと恋情を秘めた会話だ。
「久遠くんってホントかっこいいよね。ウチ結構好みかも」
「でも彼女いるんでしょ? ほら、あのアニメ声の子だっけ」
「それ、なんかこの間別れたらしいよ。部活の子が言ってた
「うっそ、そうなの? じゃあ狙っちゃおっかな〜」
「いいじゃん!、アキって可愛いしいけるよ!」
少しずつ大きくなっていく声は、当然瑠瑠の耳にも届いている。
だが彼にとってそれは、耳障りな雑音でしかなかない。
無表情の仮面の下で、ただひたすらに同じことを思う。
(……あぁ、うるさい。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい――穢い)
――瑠瑠は、生まれつき人の声に敏感だった。
音に敏感なのではなく、声だけに敏感なのだ。
ゆえに彼は、人と会話することを避けた。
だって、みんな“穢い”のだ。
母親の声はキンキンと高くて穢い。
父親の声は微かに酒焼けしたようにしゃがれていて穢い。
二つ下の弟の声は嫉妬の“聲”が乗っていて穢い。
赤ん坊の声は感情が込められすぎていて穢い。大人の声は綺麗事ばかり言うせいで嘘臭くて穢い。
声質だけの問題ではなかった。人の声には本人の感情が乗るのだ。
高すぎる声は駄目。低すぎる声も駄目。響くような声も、囁くような声も駄目。感情が乗りすぎても駄目。乗らなすぎても駄目。駄目、駄目、駄目。
とにかく周囲の声が受け入れられなかった。
本音と建前が同時に聞こえて、どちらが本物かわからなかった。
物心ついた時からあらゆる声が穢く聞こえて、他人との違いに戸惑ってきた。
――おとおさん、おかあさん、どうしておとおさんたちはたのしくおしゃべりできるの?
――あら、どうしたの? お友だちと仲良くお話しできなかったの?
――だって、みんな“きたない”んだもん。かえりたいとかつまんないとかみんないってて、なのにたのしそうで、きもちわるい。
――誰かに言われたのか?
――ううん。でも、“こえ”でわかるよ。ねぇ、なんでみんなたのしくおしゃべりできるの? みんなみんな、あんなに“きたない”こえなのに。
初めてそのことを明かした時の両親の様子は、今でも鮮明に思い出せる。
母親は震えながら一歩後退って、ひっとか細く穢い声を出した。父親はそんな母親の肩を抱きながら、異常なものを見るような怯えた目でこちらを見た。
異様な空気に感化されたのか、まだ赤ん坊だった弟が急に泣き出して、鼓膜を刺す感情の“聲”が気持ち悪くて仕方なかった。
それから家族はみんなよそよそしくなり、瑠瑠への連絡はすべてスマホのメッセージアプリを介してされた。
彼の前で声を発することもなくなり、家の空気の悪さに申し訳なくなった瑠瑠は、中学校を卒業すると同時に一人暮らしを選択した。
人が集まる学校での生活は苦痛でしかなかった。だが進学は大事だからと、無理をしてでも通っていた。
その内、知らない女子生徒に告白されるようになった。そのほとんどを『声が穢い』と振った。
さすがにそれは口には出さなかったが、次第に『冷たい人』として遠巻きにされていった。瑠瑠としてはありがたかった。
稀に、綺麗な声とまでは思えないが、他の人よりも聞くのが苦じゃない声の持ち主がいた。
闇の中で彷徨っていた時に差した一筋の光を目指すように、瑠瑠はその人について回った。
幸いというか、瑠瑠は人より整った容姿をしていたため、相手はいつも瑠瑠を好きになった。
瑠瑠は喜んで交際を了承した。そしてどの恋人も深く愛した。
毎日欠かさず連絡を取ったし、キスやハグも交わした。他の人となるべく関わらないようにしたし、恋人が誰かと一緒にいれば嫉妬した。
そうして惜しみない愛情を捧げていても、なぜかいつも振られてしまう。
瑠瑠は不思議でならなかった。一体どうしてみんな離れていくのかわからなかった。
とにかく離れていかないように、恋人をもっともっと深く愛さなければと思った。
でもまた離れていく。意味がわからなかった。
先日の恋人にも、たった一週間で振られてしまった。理由を聞こうとしても逃げられて、以降は連絡もつかない。
そのことにショックは受けたが、思いの外あっさりと受け入れられたのは、前日に出会った少女の存在があったからだろう。
あの日は偶然治安の悪い地域入り込んでしまった。治安の悪い場所は穢い声が多い。
すぐに離れようとした時、一際穢い声が聞こえて、反射的に助けてしまったのだ。
そして助けた少女の声を聞いて、愕然とした。
『あ……はい。助けてくれて、ありがとうございました……』
生まれて初めて、綺麗な声だと思った。
蜂蜜が甘く蕩けているような、飴玉がころころと音を鳴らしているような、砂糖で苺をぐずぐずに煮詰めたような、甘露な声。
聞いたことがないほど綺麗な声に、一瞬にして身体中の血液が湧き立った。顔が熱くなり、まともに少女の方を見られなかった。
結果、逃げるように去ってしまい……しかし記憶には、その少女の存在が深く刻み込まれていた。
(……会いたいなぁ)
ぼんやりとそんなことを思うが、まあ無理だろうとわかっている。
名前も知らない、一瞬会っただけの相手なのだ。何か奇跡でも起こらない限り、そんなことは不可能だとわかっている。
目を閉じて思い出す。あの時の声、感じたもの。生まれて初めて聴きたいと思った、あの声は。
「――――――――」
声にならない言葉を紡いだその時、ガラリと教室の扉が開いた。
入ってきた担任がニヤニヤしながら教室を見渡して、生徒たちは慌てて席についた。
「えー、じゃあホームルームを始める。まずはお前らに朗報だ。このクラスに転校生が来た!」
途端に教室中がざわめき出して、瑠瑠は思わず顔を顰めた。
「マジか、転校生! 漫画っぽい!」
「やまセン、女子? 女子?」
「えー、あたしは男子がいいなー! イケメン!」
「それなー!」
華やぎ出した生徒たちに、担任は浮ついた空気を引き締めるように咳払いをする。静かになったクラスに頷きながら、扉の方に「入っていいぞ」と声をかけた。
「はいっ」
その時の感動を、瑠瑠は一生忘れないだろう。
ゆっくりと入ってくる少女を、彼を含めた全員が息を呑んで注視した。
彼女は注目されることに慣れているかのように平然としていて、浮世離れした容姿も相まって、現実だとは思えなかった。
風もないのに靡く濡羽色の髪と雪色の肌の美しいコントラスト。これからクラスメイトになる人間を見渡すそのビビッドピンクには、見覚えがあった。
少女が小さな桃色の唇を開く。
「初めまして」
二重に聞こえたその言葉に目を見張る。身体中の熱が上がって、視界が鮮やかに色づいていくような感覚がした。
不意に少女が瑠瑠の方を見た。驚く彼をしっかりと見つめて、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべる。
「春織黎乃華といいます。よろしくお願いします」
ぱちり。恋に蕩けたハートマークと、確かに視線が交わった。
♡˚✧₊⁎⁺˳✧༚˚₊⁎❝᷀⁎⁺˳✧༚♡
ホームルームが終わってすぐ、レノカ――黎乃華はクラスメイトたちに囲まれた。彼女の席にわらわらと集まってくる彼らの目は、好奇心に輝いている。
「春織さんってどこから来たの?」
「れのかって可愛い名前だね。黎乃華ちゃんって呼んでいい?」
「彼氏いる? よかったら俺に乗り換えない?」
「めっちゃ美少女! こんな妹欲しかったー!」
「わ、わ、わーっ」
四方八方から声をかけられて、黎乃華は戸惑いつつも一つ一つ丁寧に答えていく。
「れのは遠いとこから来たんだよ。お父さんがお仕事で転勤するから、一緒についてきたの」「黎乃華ちゃんって呼び方、嬉しい! れのも名前で呼んでいい?」「彼氏はいないけど、作るつもりもないかなぁ。ごめんね」「れのもこんなお姉ちゃん欲しかったなぁ。えへへ、お姉ちゃんだと思ってもいい?」
「んへへ。れの、このクラスになれてかったなぁ。これからよろしくねぇ。……あれ?」
ふわふわぽやぽや楽しそうにしていた黎乃華は、なぜかクラスメイトたちが静まっていることに気付いて首を傾げる。
上を仰いだり顔を覆ったりしている彼らは、一体どんな顔をしているのか分からない。
すると女子の一人が呻き声のような声を漏らした。
「この子、超天使……っ!」
「「「それな」」」
一斉に頷く。数十人の高校生たちが全く同じ動きをする様子は圧巻だった。
「マジ可愛いこの子持ち帰りたい……!」
「全部洩らさず返答してくれるとか天使すぎる。この世界の全てに感謝」
「生きてて良かった神様ありがとう!」
「重いね?」
黎乃華はちょっと戸惑った。
しかしそこで引いたりしないのが彼女だろう。常人ならドン引きする反応に対して、受け入れてもらえたと普通に喜んでいる。
そして常識ある常人は、それを外部から見て普通に引いていた。
「いや、重すぎでしょ……このクラス変なの多いんだけどなんで??」
「あ、ごめんねぇ久遠くん。騒がしかったよね?」
「う、ぁ……べつ、に」
黎乃華に話しかけられた瑠瑠は、一瞬にして無表情だった顔を真っ赤にさせた。それこそ湯気が立ちそうなくらい真っ赤に。
耳を抑えてぷるぷるしながら顔を背ける様子を、クラスメイトたちは驚愕に目を見開きながら眺める。
黎乃華も物珍しいものでも見たように、隣から顔を覗き込もうとする。
そう、隣から。
なんの因果か、黎乃華は瑠瑠の隣の席を与えられた。もちろん黎乃華はとっても喜びながら、嬉々として座った。
しかし悲しいことに、瑠瑠は一度も目を合わせてくれなかった。何度挨拶しても返ってこない返答に、黎乃華は眉がしょぼしょぼ下がった。
「久遠くん。なんで目、合わせてくれないの?」
「そ、れは……」
「もしかしてれの嫌い?」
(((ド直球で言った!)))
ズバッと一切の躊躇いもなく訊いた黎乃華に、驚愕の視線が集まる。
普通は躊躇うはずの問いなのに、普通の表情で普通に訊いた。黎乃華はズレている、という文が全員の脳内にダウンロードされた。
そして直球で訊かれて言葉に詰まる瑠瑠。まさかのストレートコースに戸惑いを隠せない。
だが徐々に涙が溜まり始めた黎乃華を見て、慌てて否定する。
「ち、違う! そうじゃなくて……顔、見れなくて……」
「れの不細工?」
「え??」
千年に一度いるかどうかの奇跡の美少女に真剣な表情で訊かれて、瑠瑠は戸惑いを通り越して思考停止した。ついでに会話を聞いていたクラスメイトたちもスンッと真顔になった。
もし黎乃華が不細工なら、人類のほとんどが顔を見るのも一苦労な不細工である。どうしてそんな結論になったのか。
「いや、不細工なわけないし!」
「じゃあなんで?」
なんでと来るか。
クラスメイトたちは「もうやめてあげて!」と叫びたかった。瑠瑠の真っ赤な顔を見て、ただ恥ずかしいのだろうと察していたからである。
しかし彼らは何も言わない。なぜなら面白いから。
「ねぇ、なんで?」
「あ……う……」
羞恥心が限界に達した瑠瑠は、ついに顔を机に突っ伏してしまった。ゴン、という硬い音が響く。
いきなりのことだったので黎乃華は大慌てだ。
「く、久遠くん? 大丈夫? ……あれ」
そこで黎乃華は、瑠瑠の真っ赤な耳に気づいてようやく全てを悟った。もう遅いが。
「……久遠くん、もしかしてれののこと好き?」
「うぇいあっ」
意味不明な叫び声と共に瑠瑠は顔を上げた。はくはくと忙しなく口を動かしている。
黎乃華は自信を得たようにぱぁっと表情を明るくさせ、ぐいっと瑠瑠に顔を近づけた。
「わぁ、わぁ、わぁ! そうだったんだ、そうだったんだぁ! えへへ、嬉しいなぁ」
「……きゅう」
「久遠ーー!?」
瑠瑠は倒れた。椅子の上だったので伸びただけで終わったが。
それに驚くクラスメイトたちと、不思議そうな顔をしている黎乃華は知らない。
黎乃華の声に混じる“聲”が、『好き』や『かっこいい』などという甘いものだったために、瑠瑠はキャパオーバーしてしまったのだと。




