全ての始まり
休日の東京の一角、忘れ去られた古い倉庫。
老朽化して所々穴が空き、鉄臭い臭いが漂っている。
昨日までなんの変哲もなかったそこは、今や修羅場と化していた。
「ガ、アアアァァァァァァ!!」
おおよそ人間とは思えない絶叫を発する、全身に火傷を負った男。
燃え盛る炎が、まるで壁のように彼を囲む形で爆ぜている。炎はそばにあった木材に燃え移り、留まることを知らない。
周囲には、厳しい視線をぶつける、二十を超える男たちがいた。
少しずつデザインは違うものの、統一感のある黒を基調とした服。繊細なシルバーの装飾が、彼らを清廉に見せている。
男たちは腰に差した刀を抜きながら、男に忌々しげな声を溢す。
「くそ、これじゃ近づけない……!」
「住民の避難はまだか!? このままだと炎が住宅街を呑み込む!」
「とにかくまずは炎だ! 〈水〉の異能を持つ者は消火に回れ!」
鋭く出された指示に、数人が慌てて炎の前に躍り出た。
彼らが腕を伸ばすと、それぞれ腕、首、額――身体の一部に水に波紋のような痣が浮かび上がる。
一人の指先から、渦巻く水が放出された。
勢いよく炎の壁にぶつかって、ジュッと音を立てて蒸発した。
「ダメです、炎の勢いが強すぎます!」
「隙間を狙え! 『虞』を殺せば、炎は止まる!」
リーダー格の男の言葉に、また別の一人が弓を構えるように腕を引く。
生まれた水の矢が、揺らめく炎の隙間を練って鋭く射られる――が、男が腕を振るうと、追撃するように生まれた炎の矢が全て相殺した。
知性は残っていたか、とリーダーは額に汗をかきながら考える。
(ある程度の知性がある、強力な異能持ち……大技を使うか? いや、近隣住民の避難がまだ終わっていない!)
周囲の男たちにも焦りが見え始める。炎の勢いがどんどん増してきて、一瞬の迷いで焼死しかねない大きさとなってきた。
〈水〉の異能者たちが息を合わせて、大きな水球を生成する。
そしてそれを、一息に男へと飛ばした。
「ガアアアァァァァァッッ!!」
その時、一際大きな絶叫が轟いた。
ほぼ同時に巨大な火球が宙に浮かび上がり――大量の蒸気を上げながら、二つの球は掻き消えた。
「そんな…………」
渾身の一撃を防がれ、呆然とする男たち。
もはや打つ手はない。退路は炎に塞がれ、徐々に呼吸が苦しくなってくる。
熱気が肌を焼き、火の粉が舞い散る。
(せめて、住民の避難を――)
リーダーが最低限の仕事だけでも果たそうと、思考を巡らせたその時。
「あーっ! 仁さん、いたぁ♡」
場にそぐわない、華やいだ声が響く。
声は――上から。
その場にいる全員が上を見上げて、声の主を確認する。
少女だった。十七ほどの少女が、地上十メートル近い倉庫の屋根の穴から飛び降りてくる。
その姿を視認して、リーダーは「……来てくれたのか」と思わず呟いた。
少女が着地したのは、炎の壁の内側。
途端に無言となった男の前に立ち、きゅっと可愛らしく眉を寄せた。
「んもぅっ! なんで待ち合わせ場所に来てくれなかったの? 今日はれのとデートするって言ってたのにぃ」
「ア、アァ……レぇ、ノ……」
男は焼け爛れた喉から掠れた声を出し、縋るように手を伸ばす。
ぷりぷり怒っていた少女は、途端にご機嫌になってその腕に抱きついた。恋人にするように腕を絡め、頬を紅色に上気させる。
少女は熱の籠った視線で露出した男の眼球を見つめながら、甘い声を出す。
「ねぇ、仁さん。れのとデートしたくなかったの? れののこと、嫌いになっちゃった……?」
「チ、ァ、チがゥ!! コい、こイツらガァ、オれをじャマしテ、シてェェ!!」
不安そうな表情を浮かべた少女に、男は狂ったように騒ぎ出した。少女の言葉を必死に否定し、炎の外側にいる男たちを罵る。
その憎々しげな視線に、リーダーは仁、という名を思い出した。
(仁……烏羽仁。……この『虞』の名か)
彼女は彼を討伐する任務をこなしていたのだろう。だが討伐前に“暴徒化”してしまったか。
男に続いて視線を寄越した少女が、男に気づかれないようにリーダーと目を合わせてパチンとウィンクする。
まるで「任せてね」とでも言うかのような態度に、リーダーの肩の力が僅かに抜ける。
男に向き直った少女は、胸に抱いた腕に頬を寄せて、甘えるような上目遣いをする。
「仁さん、れののこと好き? 好きって言って? お願い……♡」
「ア、アァァ……好キ、すキぃィ……愛シテるゥゥ……!!」
「わぁ、ほんとう? れの、嬉しいっ♡」
ぱあっと明るく晴れた笑顔になった少女は、愛おしげな視線を交わして、片手を男の胸に添えた。
「れのも、仁さんがだーい好きっ! 仁さん、れののこと好きなんだよね? れの以外、もういらない?」
「アぁ、いらナいィ……れノダけ、だケェ……」
「そっかぁ、よかったぁ♡」
少女は安心したような息を吐き――
「じゃあ、もう目も耳も鼻も口も腕も脚も脳も心臓も、いらないよね?」
――純真無垢な笑みで小首を傾げた。
男の口から血が溢れる。
大量の紅が床で跳ねて、色味のないコンクリートを彩る。
「ア――――?」
男が呆然と目を見開く。
何が起こっているのかわかっていなかった。突然の激痛、喉元へと次々に迫り上がる血。自分が生成した炎も徐々に勢いを削いでいく。
男の胸に穴が空いていた。
先程少女が手を添えた部分だった。大きな穴が背中を貫通し、反対側の景色が見える。
周囲の男たちも、理解できていなかった。
突然現れた少女の言動も、自分たちの敵をあっさりと打ち倒したその手腕も。
ゆっくりと傾いていく男の身体を抱き止めた少女は、恋する乙女のような可憐な表情だった。
「これで仁さんは、れのだけのものだよね? ふふふっ――だぁい好きだよ、仁さん♡」
心の底からそう囁いた少女の瞳には、熱く潤んだハートが浮かんでいた。
事が終わった今は、戦闘の余韻に浸る間もないほどの慌ただしさに包まれている。
事後処理部隊が到着し、『虞』の――烏野仁の死体を運ぼうとしている。これから『虞』の研究施設にでも運び込まれるのだろう。
幸いにも死者は出なかったが、負傷者は多数いた。医療部隊に応急処置を施されている。
騒ぎを聞きつけて集まった住民に混じって、ボイスレコーダーを構えた記者がいる。うずうずとイエローテープの中に入りたそうにしているが、警備に睨まれて動けないらしい。
それでも今回はなかなかの規模の戦闘だったので、明日の朝にはニュースに上がっていることだろうが。
そんな慌ただしい空間で、少女は一際視線を集めていた。
やはり場にそぐわない存在感だ。まるでデートにでも行くかのような可憐な白のワンピースも、異質さを際立たせている。
ボーッとしながら、感情の読めない目で、己が愛を囁いた男の悲惨な姿を眺めていた。
「あの」
「んっ?」
そんな彼女に、リーダーは声をかけた。
振り返って目をぱちくりさせる姿は、その辺の少女と同じなようで、全く違う。
さらりと流れる濡羽色の髪と、雪のような白さの肌とのコントラストが美しい。
スッと通った鼻筋に、薄く桃色に色付いた唇はぷるぷるしている。
ほっそりとした手足は長くて、発育の良い身体は驚くほど華奢だ。
なによりも特徴的なのは、その目。
くるりと上を向いた長い睫毛は見る者に晴れやかな印象を残し、鮮やかなビビッドピンクの瞳を引き立てる。
その宝石のような瞳には、ぼんやりとハートマークが浮かんでいた。
「んー……あっ、あーっ! 目白さんだぁ! 通りでどこかで見たことあるなーって思ったんだ!」
「覚えていてくださったとは、恐縮です」
かしこまって頭を下げるリーダーに、周囲の部下たちは驚きの声を上げる。
「な、何してるんですかリーダー!? 一小部隊の隊長であるあなたが、頭を下げるなど――」
「うるさい、黙れ!!」
いつになく強い怒号に、口を出した部下は気圧されて黙ってしまう。
彼を一睨みしてから、リーダーは少女に向き直った。
「申し訳ございません。彼にはよく聞かせておきますので……」
「大丈夫だよぉ。れの、そこまで心狭くないもんっ」
可愛らしいお許しに、安堵して肩を下げる。
それから、訊きたかったことを訊いた。
「今回の『虞』……烏羽仁は、以前から追っていたのですか?」
「そうだよぉ。五日前くらいからかなぁ? 首領にお願いされて調査してる内に……仁さん、好きになっちゃって♡」
人差し指を顎に当てて、うっとりと語る少女。
周囲はその内容の異常さに気づいて、信じられないものを見る目になっていく。
「ほんとはねぇ、もっとロマンチックに告白してもらうつもりだったのぉ。ほら、愛の告白なら、やっぱりロマンチックさがいると思うんだよねぇ」
「はぁ……まあ、確かに」
「でも、こんなところで告白になっちゃって……古臭い倉庫での告白なんて、あり得なくなーいっ?」
軽い調子で告げられて、リーダーの顔が強張る。
少女はリーダーの上司に当たる。もし彼女がその気になれば、リーダーを殺すことも、社会的に終わらせることだって可能なのだ。
「あ、責めてるわけじゃないよぉ」
リーダーの緊張に対して、少女は柔らかく笑った。
「愛を告げてもらえたことに変わりはないしねぇ。愛してるって言ってもらえて、れのとしては満足かなっ」
無垢な笑みで言って、くるりと一回転した。
スカートの裾がふわりと広がって、また戻る。
「じゃあ、れのはそろそろお暇するねぇ」
「はい。お気をつけてお帰りください」
「ふふふー。目白さんは真面目だねっ。ばいばーいっ」
そのまま少女は、未だに沈静化できていない人混みの中に飛び込み、見えなくなっていった。
それを見送ったリーダーに、部下が恐る恐ると声をかける。
「リーダー、あの、もしかして今の少女は……」
「……ああ、そうだ」
部下たちはまだ、彼女の異常性の衝撃から抜けきれていない様子だった。
そこにトドメを刺す形で、リーダーは静かに彼女の正体を告げた。
「彼女が、『冥冥の使徒』の最年少幹部の――」
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「ねぇ、アレ見て!」
「え、李鶴さんじゃん! カッコいー!」
「相変わらずイケメンすぎて死ねる!」
不意に耳に届いた声に顔を上げて、少女はきゃあきゃあ言っている女子高校生たちと同じ方向を見る。
ビルの大きな液晶画面に、眼鏡をかけた青年が映し出されていた。
“――昨夜の戦い、素晴らしいご活躍でしたね。例え『冥冥の使徒』であったとしても、『虞』と対峙するのに恐怖心はないのですか?”
“ええ、もちろんあります。ですが恐怖に震えているだけでは、誰も救えない。救いを求め、信じてくれている人々の信頼を、裏切るわけにはいかない。その信念の下、僕たちは戦っているんです。言い換えると、皆さんの応援の上で戦えている……と言えるでしょう。いつも応援、本当にありがとうございます”
そう言って柔らかく微笑む青年に、あちこちから彼を讃える声が聞こえる。
『冥冥の使徒』――この世界で英雄視されている、異能者で構成された殺し屋組織。
殺し屋と言っているが、別に暗殺をするわけではない。世に生まれ落ちた災厄の種、『虞』という存在を討伐するだけだ。
穢れた魂を持つ『虞』は、みな一様に異常性を抱えている。その種類は様々だが、それらのほとんどは世間を危険に晒すような、恐ろしいものだ。
しかも『虞』は、成長するにつれて異能を得る。
本来異能とは、異能家の血筋の者にしか発現しない。だが『虞』は血筋など関係なく、異能を持つのだ。
異能に対抗できるのは異能だけ――そう考えた政府が発足したのが、『冥冥の使徒』というわけだ。
人々のために凶悪な敵と戦うその姿は、まさしく人々のヒーローと言えるだろう。
「マジでかっこいいよね、李鶴さん」
「あたし、ガチ恋しちゃったかも」
「うっそぉ! 望み薄すぎて笑う」
信号が青に変わる。動き出した大衆に紛れて歩く。
白いワンピースをはためかせながら、返り血が付かなくてよかったと思う。一応かからないようにしていたが、内心少し心配していたのだ。
そこで思わず眉を軽く寄せる。
本当は、今日のデートで告白してもらうつもりだったのだ。夜、ライトアップしたイルミネーションの前で、情熱的に告げてもらうつもりだった。
その予定が崩れてしまったのは不満だが、愛を告げてもらえたことに変わりはないため、まあいいかと妥協した。
渡り切った交差点に背を向けて、上機嫌に歩道を歩く。
この後はどうしようか。家に帰ってゆっくりするのもいいし、駅前にできたカフェでまったりするのもいい。
思いがけずできた時間なのだ。思いっきり羽を伸ばすとしよう。
「ねぇねぇ、キミ可愛いねー」
「よかったらこの後一緒にカラオケ行かない? お金なら俺らが払うからさあ」
突然馴れ馴れしく肩に手が乗り、振り返るとチャラそうな男が二人いた。
いつの間にか、少し治安の悪い区域に入っていたらしい。周囲に人影はない。
男たちは下品な笑みを浮かべて、舐め回すように少女の全身を見てくる。
「後ろからじゃわかんなかったけど、スタイルもいいじゃん!」
「っつうかめっちゃ好みなんだけど。ね、やっぱホテルに行かない? 俺、大学じゃ結構モテてんだよ。どう?」
いいかもしれない、と少女は思った。
どうせ何をするか迷っていたところだ。費用を向こうが負担してくれるなら、暇つぶしに行ってあげてもいいかもしれない。
にっこりと可憐な笑顔で、手を取ろうとしたその時。
「ああ、すみません」
涼やかな声だった。ころりと繊細な音を奏でる鈴のような。
後ろから腕を引かれて、思わずよろめく。そのままぽすんと頭を相手の胸に預ける体勢になる。
相手を見上げて、少女は目をパチパチさせる。
見覚えのない青年だった。少し長めの藍色の髪。青空を思わせる蒼の瞳は真っ直ぐな光を宿していて、端正な顔立ちの中で一際目を引いた。
青年は片手を少女の腹に回して抱き寄せ、片手で少女の両目を覆う。
まるで、自分以外を見るな、とでもいうかのように。
頬を少女の頭に擦り寄せながら、青年は淡々と言う。
「彼女、俺の恋人なんで」
明らかな牽制に、男たちの顔が歪む。
彼氏持ちだったのかよ、と男たちは舌打ちしながら去っていった。
その姿が見えなくなるまで待ってから、青年は少女を解放した。
少女は未だに困惑していたが、とりあえず助けようとしてくれたのは理解した。
「大丈夫? ああいう時は、すぐに逃げたほうがいいよ」
「あ……はい。助けてくれて、ありがとうございました……」
「な……っ、べ、別に、あいつらが不快だったから追い払っただけだし! 君を助けたわけじゃないからっ!」
ツンデレだあ、と少女はちょっと笑った。今まで多くの人と関わってきたが、ここまで見事なツンデレは初めて見た。
顔を真っ赤にした青年は、恥ずかしそうに顔を背ける。
「も、もうこの区域には来ないほうがいい。また同じようなことになるから。じゃあ!」
「え、あっ、ま、待って」
静止の声を上げたが、青年はそのまま走って行ってしまった。
足が速いらしく、すぐに曲がり角を曲がって姿が見えなくなる。
残された少女は、しばしの間呆然としていた。
なんだったんだろう。今自分は、ナンパ男たちの誘いに乗ろうとして、でもその前にあの人が来て、自分を助けようとしてくれて。それで。
そこまで考えて思考を止めた。
次第に瞳が潤み、鼓動が速くなっていく。熱い吐息を零しながら、湧き上がる衝動のままに口にした。
「え、好きぃ」
思い返せば、その瞬間が全ての始まりだったのだ。
平穏な日々は終わり、辿り着いた地獄で悪魔が目を覚ます。
狂い出した平和の歯車は、やがて世界を混沌へと導いて行く。
これは、いずれ世界一の大罪を背負う少女の――春織黎乃華の、愛の物語だ。




