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ともあれ、そうして、白髪の少女は眠りに落ちた。
一週間も寝ていなかったのだから、その眠りはそれはそれは深いものだった。
僕はといえば、その間、この部屋の中を一通りうろついていた。何も知らない僕がむやみに外に出て誰かに鉢合わせると困るので、部屋の外を見て回るのはやめておいた。
決して、閉鎖空間を好む陰キャの性質が出てしまったせいではない。決して。
十畳ほどの広さの部屋の中には、召喚用らしき魔法陣(この部屋にあるものの中で最も異世界っぽかった)と、簡易的な椅子と机があった。おそらくは、僕が召喚されるまでの間、ここで彼女は業務を行っていたのだろう。
しかし、それ以外にはめぼしいものは何もなかった。こんな、ほとんど独房のような空間で、一週間も寝ずに働き続けるなんて、拷問以外の何物でもない。とても人間の所業とは思えなかった。ソマリは「人間と畜生の間」と言っていたが、なまじ仕事をさせられる分、畜生よりも酷いかもしれない。
だが、この世界ではそれも何でもないことなのだ。
彼女はそれを当たり前のように受け入れていたし、アガットも、彼女が一週間寝ていないことは知っていたはずで、その上での、あの仕打ちだ。
この世界は、ソマリのような色を持たざる者たちに、いったいどれほど苛酷な運命を強いてきたのだろう。
僕は彼女のもとに戻り、彼女の寝顔が見える位置に寝転んだ。
彼女の端正な寝顔を見ていると、部屋を物色して回るよりもよほど時間が早く過ぎるような気がした。同時に、その左頬が痛々しいまでに赤くなければどれだけよかっただろうとも思った。
どれくらいそうしていただろうか。
それほど時間は経っていなかったと思うけれど、この部屋には時計もないので、時間感覚は曖昧にならざるをえない。
僕がソマリと向かい合わせで寝っ転がった、いわば一方的な添い寝のような状況を噛みしめ至福に浸っていると、扉をノックする音がした。
僕は咄嗟に飛び起きた。
少女の寝顔を見てニヤつく勇者。こんなキショ光景を誰かに見られた日には、きっと変態勇者とかロリコン勇者とか、勇者というワードが皮肉にしか聞こえないような不名誉な接頭語が付いてしまうに違いない。
「失礼いたします」
そう声がして、扉が開いた。
「あっ」
まずい、と思った時には、遅かった。
起き上がるのが間に合わなかったわけではない。
もっと重大で深刻な問題が生じたのである。
「先ほどの件で、茶色の勇者様の担当無彩者に懲罰令が出ておりますので、お引き取りに……」
来訪者は、さっきの緑の髪の衛兵だった。
さっきソマリを蹴り飛ばした衛兵。
その彼が、こんなところで眠っているソマリを見ればどういう行動を取るかなどということは、火を見るより明らかだった。
「てめぇ……」
緑髪は小さく呟くと、ソマリのもとにつかつかと歩み寄り、その小さな体を、またも思い切り蹴り上げた。
「がっ……!?」
その威力はさっきの蹴りよりもさらに強く、流石のソマリも目を覚ます。
ソマリは吹っ飛ばされた先、よろよろと身を起こすと、自らを蹴った人物の方に視線を向けた。
「……セ、セージ……様……」
「お前、さっきアガットにあんだけ言われてたよなぁ? そんなに眠ぃなら、永久に寝かせてやってもいいんだぜ?」
それがどういう意味であるかは、彼女の現状を見れば、そして彼女がこの世界でどんな扱いを受けているかを考えれば、想像に難くない。
「申し訳……ございません」
ソマリは力なく項垂れる。
「さっきも謝ってたよなあ。だからこっちでも、一応反省の色ありって判断になって、懲罰内容もそれに見合ったものを持ってきた。だがこりゃあ……どうも、あの謝罪は虚言だったようじゃねえか。ってこたあ、懲罰も変更だな」
セージはそう言って一枚の紙を取り出す。
それは、ソマリへの懲罰令状だった。
このか弱い少女を痛めつけ、苦しめ、彼女に罰を与えることが、この世界では、公式な書面によって認可されているのだった。
さっきやけにあっさりとアガットが引き下がったのは、あの場で僕と言いあうよりも、正式な手続きとして彼女を罰する方が早いと思ったからだったのか。
セージはその令状に、置いてあったペンで何かしら書き加えた後、ソマリの細い手を引っ掴み、肩が抜けそうな勢いで引き寄せた。
「来い」
ソマリはそれに抗おうともせず、ただされるがままになっていた。
さて。この現状を、勇者である僕は、どうするべきか。
幸いにして、その答えはさっきすでに出したところだ。
「……待ってください」
僕の言葉に、セージは一瞬「またかよ」というような苦い顔をしたが、すぐに膝をつき、
「いかがいたしましたか、勇者様」
と言った。
面倒な奴、と思われているだろう。でも、これは言わなければいけない。
「彼女に寝るように言ったのは僕です。彼女は一週間寝ていないと言ったので、僕の判断で彼女を寝かせました。罰なら僕が受けます。そうすべきです」
セージは顔を上げることなく、確固たる口調で応じる。
「いいえ。貴方の責任ではございません。無彩者は勇者様が召喚されるまでの記録・観察・報告を行い、召喚された勇者様に恙なく説明をするのが仕事であり、義務なのです。どれだけ寝ていなかろうが、いかなる甘言をささやかれようが、関係ありません。彼女の判断によって、それは遂行されなければなりません。すべての責任はこの無彩者にあります」
「でも」
「この無彩者に懲罰が科されるのは、絶対です」
セージは聞く耳を持っていなかった。そもそも聞く理由が存在しないと思っていたのかもしれない。
やはり、壁となるのは常識だった。
どれだけ対話を試みようが、僕に勝ち目はなかった。
この世界においては、彼もアガットも、なんらの間違いも犯していないのである。彼らは法によって守られている。
違法なのは僕だ。
異邦人は、僕だ。
僕は何も言うことが出来なかった。
説得が不可能となると、僕の取れる手段は二つに一つだった。すなわち、彼女の解放自体を諦めるか、あるいは強引な手段によって、彼女をセージの手から奪い返すかだ。
セージはいつのまにか立ち上がり、ソマリを引きずって、もう扉の前まで到達していた。
迷っている時間はなかった。
「やめろぉぉぉぉ!!」
僕は全速力でセージに突撃した。
自ら選択して、自分の身を挺して、誰かを守ろうとするなんて、前世の僕ならありえなかった。
僕は背後からセージに飛びつき、首元にしっかりと腕を差し込んで、彼を思い切り締め上げた。
格闘術なんて習ったこともない。喧嘩すら、ろくにしたことがない。それでもただ力の限りにセージの首を絞めた。
「……え?」
数秒後。
そこには一人の男の身体が、力なく横たわっていた。
結論から言えば、僕は自分の力を完全に見誤っていた。
「……まじかよ」
僕を投げ飛ばした姿勢を戻しながら、セージがぼそりと呟く。
横たわっていたのは、僕だった。
僕は負けた。
あまりにあっけなく、背負い投げの形で、床に叩きつけられた。
僕は調子に乗っていたのだった。
勇者と呼ばれて崇められ、何もしなくても敬意を表されることに、快楽を覚えていた。愉悦を感じていた。
強くなったと勘違いしていた。
僕が勇気ある行動を取れたのは、僕が勇敢になったからなどではなく、その行動をしても自分が傷つかないと思っていたからに過ぎなかったことを、僕は冷たい石の床の上で、痛烈に理解した。
転生する時の、女の言葉が思い出された。
――第一の人生の経験を活かせ――女はそう言っていた。
それを聞いた僕は、その時何を思ったのだったか。「人はそれぞれの身の丈に合った生き方をしなければならない」という学びなどで世界を救えるはずがない、と、呆れたのではなかったか。
僕は前世で唯一学んだと思っていたことすらも、忘れてしまっていた。
「……こんな弱ぇ勇者様は、初めてだ」
セージはそう吐き捨てると、ソマリの腕を掴み、部屋を出て行った。