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と、ここで。
「……っ」
少女、ソマリが目を開いた。
その瞳は透明だった。眼皮膚白皮症よりもさらに色素が抜け落ちたような、透き通る瞳。
その瞳をもって、キョロキョロと周囲を見回した後、ハッと何かに気づいたかのように目を見開き――
彼女は床に這い蹲った。
「勇者様、この度はとんだご無礼を働いてしまい、申し訳ございませんでした!」
そして、謝った。平身低頭、こうべを垂れて。
この世界に来て、僕は謝られてばかりだった。
前世では僕の方が誰かに謝るばかりで、それを苦痛に思っていたけれど、こうも重ねて謝られると、謝られる側にも辛いものがあった。
「あ、その……顔を、上げてください」
僕の声を聞いて、少女は恐る恐る、といったように、顔を上げた。
刹那。
パチン、と強い音が鳴った。
「え」
それは、ソマリの頬を平手が打った音だった。
もちろん、叩いたのは僕ではない。
いつの間にか僕と少女の間に割り込んでいたアガットが、彼女の左頬を右手ではたいたのだということを、音の鳴った数秒後に、僕はようやく理解した。
「ソマリ! 貴様、茶色の勇者様の担当を任されておきながら、召喚直後の勇者様に何の説明もすることなく眠りこけるとは、どういう了見だ!」
パチン。
「はい、申し訳ございません!」
「これは重大な職務放棄だ。わかっているのか!」
パチン。
「はい、申し訳ございません!」
アガットはソマリに平手を食らわせながら彼女を叱り、ソマリはそれに耐えながら只管に謝る。
そんな胸糞悪い光景が、目の前で何度も繰り返された。
止めるべきだろうか。
止めるべきなのだろう。
勇者ならば。
勇気ある者でありたいのならば。
しかし、僕にとってはいくら胸糞悪くとも、それがこの世界の当たり前なのだからと言われてしまえば、たった今転生してきたばかりで、右も左も善も悪も、何も承知していない、いわば部外者である僕がそれを止めようとするのは、やはりどうしても憚られる。
いや、そんなのは言い訳にすぎない。
僕はつくづく、茶色の勇者であった。黒と苦い赤の混色によって生み出される、中途半端で優柔不断な色を司る勇者に、果たして勇敢な選択など取れるはずもない。
僕は状況を傍観していた。
平手の音。怒号。謝罪。また、平手。
幾度も幾度も、それが繰り返される。
それを黙って見ている、僕。
情けない僕。
その情けなさに心を苛まれながらも、やはり動くことのできない、僕。
これが、他の勇者なら。あるいは、クラスの行動力ある奴らなら。彼女を救えていたのかもしれない。
きっと、救えていた。
この状況から彼女を救い、絶望の底から彼女を掬い上げたに違いなかった。
彼女は運が悪い。僕みたいな糞の役にも立たない、糞の色の勇者に当たってしまったばっかりに、今も、痛めつけられている。肉体と精神を同時に傷つけられて、謝ることを強いられている。泣いている。
泣いて――いる。
「あ、あのう……」
「貴様の仕事は普段から杜撰だ。何をやらせてもうまくできない。役立たずめ」
パチン。
「はいっ……、申し訳……ございません……!」
「あの!」
二度目の呼びかけで、ようやく僕の声はアガットの平手と怒号にかき消されることなく、彼の耳に届いた。
アガットはソマリをたたく手を止め、僕の方を向いて、片膝をついた。
「はっ。いかがされましたでしょうか、茶色の勇者様」
「彼女をたたくのを、やめてください」
僕は静かに言った。
「いえ、先ほども申し上げましたように、この女は……」
「彼女に、非があるのかもしれません。この世界では、それが当たり前なのかもしれません。ただ、それでも……」
それでも。
「僕には、彼女の非によって僕が不利益を被ることよりも、今、彼女が打たれ罵られているのを静観している方が辛い……と、思うんです、多分」
多分。
実際には、分からない。
人間は勝手な生き物だから、いつだって自分の都合のいいように世界を歪めて生きている。もし僕が彼女の説明を受けないまま、何の知識もない着の身着のままの状態で世界へと繰り出し、誰かに無礼をはたらいて、磔にされていたとしたら、僕は恥も外聞もなく、説明を怠った彼女のせいにするのかもしれない。彼女に責任の所在を求めるのかもしれない。
それでも。
今、この時の僕は少なくとも、本心からそう思っていた。彼女の苦痛が、僕にとってもまた何よりの苦痛であると、本気でそう思っていた。
「ですから、彼女をこれ以上叩くのは、やめていただけませんか」
再び沈黙が流れた。
今度の沈黙は、僕もその理由を解するところのものだった。
さっきよりも濃密に重く、長い沈黙に、この場の空気ごと圧し潰されそうになる。
それを破ったのは、またしてもアガットだった。
「はっ。勇者様がそうおっしゃるのならば」
彼はあっけなくも、そう答えたのだった。
ついさっきまでソマリをぶっていた時の勢いはなかった。
それが、勇者である僕の命じたことであったからなのか、本当に納得したからなのかは、表情からはわからなかったが、ともあれ、僕は彼を命令に従わせ、ソマリを助けることに成功した。
「でしたら、私どもはこれで。失礼いたします」
この部屋にもう用はないと言わんばかりに――というのは些か穿った目で見過ぎかもしれないけれど、とりあえず非常に手短な挨拶をし、アガットは他の、緑と金色の髪の二人と連れ立って、扉から退出した。