3-1 二通の書状
第三章 変転
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僕の元へその私的な書状がどういう経路で届いたのか、容易には想像できなかった。
受け取った場所はソダリア王国の北部で、春とはいえ、王都なら上着を脱ぐ頃合いでも北部はまだ肌寒かった。
緑の隊の常の仕事である各地への巡回の最中だった。相棒と二人で小作人の集落にいる老人を看病していた。もう年齢からして寿命が近いが、老人の家族が懇願するので、僕たちが半ば折れた形だった。できるだけ症状を軽くしていたものの、全快は難しいように見えた。
だから、書状が来ることは何重もの意味でありえなかった。
詳細に僕がどこにいるか把握する方法はなく、僕が集落にいる理由も、集落にいる期間も、全てが不規則だったから。緑の隊なら把握していただろうけど、公に公開される情報でもない。
しかし書状は届いたのだ。
ある朝、僕が身支度をしていると、緑の隊が多用する幕の外から「イダサさんってのは誰だい」と声がしたのだ。表へ出ると、見るからに飛脚の男が立っていた。
「僕がイダサですが」
にっこりと飛脚が人好きのする笑みを浮かべる。
「あんたに書状だよ。渡したからな、一筆もらえるかな」
突き出された封書を手に取ると、飛脚は僕に筆を差し出す。素早く記名すると、飛脚はあいさつもそこそこに走り去っていった。
僕は書状を確認するが、見えるところに差出人の名前はない。
素早く開封して中の便箋を開く。
一行目を見て、僕は驚いて息を止めていた。
イダサへ。きみが心配するとは思えないが、私が南へ無事に逃れたことを伝えておこう。
そう始まる文章は、誰が書いたか自明だった。
そもそもその字体は嫌というほど見た。あの地下の秘密の実験室で、友人が記録を紙に書き付けていた時の、あの文字だ。
クロエス。生きていたのか。
僕は書面に目を落とし、一度、最後まで目を通してから、もう一度、読み直した。
どうやら本当に無事らしい。錬金術一辺倒の男だった印象だけど、強かなところがあるものだ。僕なんかとはまるで違う。
相棒が起き出してくる気配があるので、僕は便箋を元に戻して懐にしまった。
その日も老人の看病に精を出し、やっと老人の体調が落ち着いてきた時、訪問してきたものがあった。
もしそれが治療の依頼だったらまた忙しい日々が続くはずだったが、訪問者は緑の隊の一員で、伝令だった。騎馬に乗っているところからして、急用である。
相棒に仕事を任せて、使者の話を聞いて、僕は唖然としてしまった。
「剣聖様が……? それは事実なのですか?」
残念ながら、と薄汚れた風体の使者が言う。王都から休まずに駆けてきたのだ。
使者が伝えた内容。
それは、剣聖リフヌガードが不慮の事故により大怪我を負った、というものだった。
リフヌガードは超一流の錬金術士だ。怪我の治療に関する力は自身にも作用する。それがどうして機能しなかったのか、想像もつかない。
それに一つ、重大な要素がある。
聖剣だ。
ソダリア王国には四振りの特殊な力を持つ剣、聖剣が存在し、聖剣の使い手こそが剣聖と呼ばれる。
リフヌガードも聖剣の一振りを所有し、それは「生死剣」と呼ばれる。
生死剣は、生命を自在に操るという。
その剣を所有するリフヌガードが、自身を癒せないとはどういうことか、全くわからない。ありえないような事態といえる。
「イダサ殿、すぐに王都へお戻りください」
僕は頷いて、すぐに身支度を始めた。治療の仕事が終わると少しでも馬を走らせているので、馬の状態は完璧ではなくとも役目は果たせる。
使者は休むつもりがないようで、僕は黙って彼の自由にさせた。相棒はその場に残るという。というわけで、僕と使者の二人で馬で王都への南下を始めた。
王都へ戻るのは、ベッテンコードの指導を受けて以来になる。
あれは、もう二年も前のことだ。緑の隊の仕事は日常となり、馬術、剣術も体に馴染んだ。しかし、どんな技術も、終わりが見えないということが実感として感じられ始めていたこの頃だ。どこまでもどこまでも、未知の技術が一面に広がっているように感じられる。
未知に触れること、未知を理解すること、それがこの二年の僕の日々だった。
いくつもの夜を越えて、やがて王都が遠くへ望める夜がきた。
日の出の寸前の紺色の空気の中でも、王都の明かりははっきりと見える。王都とは眠ることがない街なのだと、この光景が教えてくれる。
やがて僕たちが見ている前で朝日が全てを照らし出し、王都の城郭がはっきりと視認できる。
馬は駆ける。駆け続ける。しかしすぐそこに見える王都が遥かに遠い。いつまで経っても辿り着かないような気さえした。
城郭が見上げるような高さになる時、僕は思わず細く息を吐いていた。
帰ってきた。しかし、難しい状況で。
門を抜け、馬を降りる。馬を曳きながら、足は先へ先へ進もうとする。馬の呼吸が乱れているのを、もう少しだ、と心の中で励ます。苦労させてしまった、つらかっただろう。
街の大通りを抜け、剣聖府の建物に辿り着いた。厩舎に馬を預けに行くと、馬匹を担当するものがぎょっとしていた。僕も、僕についてきた使者も、きっと酷い身なりだっただろう。
建物に足早に入り、事務室へ向かう。本当はすぐにリフヌガードの元へ行きたかったが、手続きは必要だ。事務室に入ると、事務員のジーニャが以前と全く変わらない姿勢で仕事をしていた。僕たちに気づくと顔を上げ、足早にこちらへやってくる。しかし彼女はどこまでも冷静、平静だった。
「リフヌガード様は第二資料室におられます」
資料室?
僕が疑問を返そうとするのを、ぴしゃりとジーニャが遮った。
「体を綺麗にしなさい、あなたたち。怪我人を見舞うのですから、それが常識です」
まさにその通りだけど、リフヌガードと少しでも早く対面したかった。
「すぐに亡くなるわけではありません。どういう状況を想像していたのですか」
ジーニャのその言葉で、僕はどうにか自分の衝動を抑えることができた。言葉の内容よりも、ジーニャ自身がリフヌガードを案じていることがはっきりとわかったからだ。彼女の中にある不安は、僕の中にある不安とまったく同じものではなくても、不安は不安だ。
結局、僕は一度、剣聖府にある風呂に入って体を洗い、新しい服に着替えてからリフヌガードを訪ねた。
彼は資料室にいたが、その資料室の光景は前に見たときとまるで違う景色になっていた。
寝台が運び込まれ、その周囲に書籍が積まれている。寝台の上にも書籍があった。
そうして書籍に囲まれて、リフヌガードがいた。
彼は僕を見ると、「早かったな」と微笑んで見せたが、その笑い方にある種の儚さがあり、僕は動揺した。動揺して、逆に動きは静かに、思考は冷静へと切り替わった。
寝台に歩み寄り、「お加減はいかがですか」と聞くことさえできた。
リフヌガードはため息をつくと「どうだろうな」と曖昧な返事をした。
そうして僕は、ついに言葉を失い、ただ俯いたのだった。
(続く)




