2-15 苦悩を思い描く
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星が僕を包んでいる。
一面の星空はどこにも焦点が合わない。
どこまでも深く、深く、闇が広がり、そこに無限の星粒が輝く。
風が吹いた。
目が覚めていた。
真っ白い天井。風が横から流れてきて、頬を撫でていく。
首を捻ると、窓が開いているのがわかり、次にその光景が知っているものだとわかった。剣聖府にある客室の一つだ。滅多に使われることはない部屋だが、何度か掃除を任されことがあって、窓の外を見たのである。
でもなんで、僕はここにいる? 自分の部屋ではなく?
そもそもどこにいたんだろう。
考えると、頭に痛みが走ったが、まるでそれが導いたように自分の身に起こったことが理解できた。
道場にいたのだ。黒の隊の道場。ベッテンコードにファルスと二人で向かって行って、僕は、ベッテンコードの剣を身体で受け止めた。
腹に触ろうとして、しかしまず自分の手がちゃんと動くが、それが不安だった。だけど手はちゃんと動いたし、腹部には痛みも違和感もなかった。
錬金術を自分の体に作用させる応用を極端に機能させれば、剣を受けても死なずに済む算段はあった。
でも確実ではなかったような気がする。あの時は、生き残ることができる、と思ったから実行したはずだけど、後になってみれば、それは勢いと、期待のようなものだったとわかる。
ベッテンコードを切るためなら死んでもいい、というのは通常の発想ではない。
まったく、僕も冷静さを失っているようだ。
ベッテンコードの相手をし続けたせいかもしれない。あの老人を前にしていると常識とか、当たり前という発想が失われていくようだ。
使い手としては最高位にふさわしい技量を持つけれど、人間としては非情すぎる。
いや、非情ではなく、異状か。
思わずため息を吐いてから起き上がってみることにした。腕にしっかりと力が入り、上体を起こすことができた。寝台の横に水が用意されていたので、ありがたく飲ませてもらう。一口飲んだ時になって、喉が渇いているのがじわじわと実感された。
瓶が空になった時には、体の感覚も取り戻され、ほぼ普段通りだった。服の裾をめくって腹の傷を検める気力も出た。めくってみると、大きな傷跡が残っているもののやっぱり塞がっている。よく考えてみれば内臓が確実に傷ついたはずなので、水を飲むのは危険が上に危険だったか。
もう飲んでしまった。でも異常はなさそうだ。
まだ喉が乾くな。立ち上がれるだろうか。
足を床に下ろす。力を念入りに確認して立ってみる。揺れるけれど、倒れることはなさそうだ。
一歩、二歩とやや不安だったが、それ以降は通常通りだ。着ている服は入院着みたいだったけど、着替えはなさそうだった。
部屋に戻れるかな。
ドアにたどり着いて手を伸ばした。
その時が、逆に反対側にドアが開いた。
思わずよろめいて、転びそうになるのをさっと伸びた手が支えてくれる。
誰でもない、リフヌガードだった。
「どうやら回復したようだな」
僕をまっすぐに立たせると、リフヌガードが柔らかい笑みを浮かべる。
「自分の体をもっと大事にするべきだ、イダサ。いかに優れた使い手でも、事故は起こる」
ええ、と答えてから、彼がベッテンコードと僕とファルスの稽古で何があったか、知っているのだと気付いた。誰から聞いたのだろう。ベッテンコードなわけはないから、ファルスか。
怒られるだろうか。
恐る恐るリフヌガードの顔を見ると、彼は真剣な顔に変わっている。僕も居住まいを正した。
「イダサ、ベッテンコード殿の元での稽古はもう終わりだ」
「え? それは、僕が危険な行動をしたからですか?」
いいや、とリフヌガードが首を横に振った。
「ベッテンコード殿の方から、もう稽古は終わりだという話があった。稽古を逸脱する狂気の沙汰だ、とのことだ。もう教えることはないとも言っていたな」
そこまで言って、リフヌガードが頬を緩める。
「老人なりに、お前を認めたということだろう。イダサ、緑の隊に復帰しろ」
意外な言葉に、僕がまず考えたことは、破門されたのか、ということだった。ベッテンコードは僕を見限ったのだろうか。
そんな顔をするな、と言いながらリフヌガードが僕の肩を叩く。
「あの老人なりに認めているのだ。ベッテンコード殿が長く稽古をつけること自体、認めている証明である。お前は卒業ということだ」
僕はただ頷いて、頭の中にベッテンコードを思い浮かべた。
ベッテンコードは僕のどこの、何を認めたのだろうか。
そう思った時、リフヌガードもそうだと連想する自分がいる。
誰かが僕を認めてくれる。
でも僕には、どうして認めてもらえたか、わからないのだ。
この疑問はきっと、いつまでも解消されることはないんだろう。
「食事に行くとしよう、イダサ」
そう促してから、まずは着替えか、とリフヌガードが話し始める。
僕を食事に誘うファルスのことが脳裏に浮かぶ。彼はどうなったのだろう。彼も卒業だろうか。それとも一人きりで稽古を続けるのか。
記憶の中で、ベッテンコードの着物がわずかに切れていた。
僕とファルスが揃った時、ベッテンコードにわずかに肉薄した証明が、あれだった。
不意に、ファルスと離れた自分が不安に思えてくる。友人が、相棒がいることの、なんと力づけられることか。仲間がいること、協力することは、一人の力を何倍にも大きくするとはっきりわかった。
僕はリフヌガードと二人で廊下へ出た。まずは僕が起居する資料室で着替えた。それからリフヌガードが外へ食事に連れて行ってくれる。
元の生活に戻ったような気もするが、何かを失ってしまったような気もする。
ベッテンコードの元に通う日々に、充足と充実があったことを、僕はこの時になって理解したようだった。
日常が退屈に思えるほどの、激しい日々があったのだ。
それがもしかしたら、ベッテンコードの苦悩かもしれないと、そんな気もした。
あまりにも強くなり過ぎれば、日常の全てが退屈になるだろう。ベッテンコードはその退屈の中で、生きている。危険を冒さなければ、生の実感がないような退屈の中に彼はいるのかもしれない。
僕は先を行くリフヌガードの背中を見た。
僕が追うべきは、リフヌガードの背中だろう。
しかしあの老人の世界にも後ろ髪を引かれる。
老人を苦悩から救いたい、と思うのは傲慢だろうか。
あの老人なら、鼻で笑って一蹴する。
そんな想像ができた。
できても、どこか無視できないのは、何故だろう?
(続く)