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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第二部 二人の男の数奇な関係
87/155

2-14 踏み超える

      ◆


 両膝をついた姿勢で動かなくなったイダサに、俺は声をかけられなかった。

 死んだ、のか?

 まさか……、いや……。

「リフヌガードを読んでこい」

 不意に声がした。ベッテンコードだ。

 のろのろとそちらを振り向くと、老人は普段通りの憮然とした顔で、ルーカスに声をかけていた。ルーカスは彼らしくない慌ただしい動きで道場を出て行く。

「先生……」

 俺はそう声にして、それ以上はもう、何も言えなかった。

 ベッテンコードの着物の胸に、横一文字に切れ目がある。血こそ滲んでいないが、俺の剣は届いたのだ。

 しかし、友人が命を捨てるような暴挙に出た結果が、それだった。

 たった、それだけ。

「ファルスよ、この光景を覚えておくが良い」

 剣聖の声は冷ややかだった。

「敵を倒すために犠牲になるものが、必ずいるのだ。それは剣術家が、多くの剣術家を切り捨て、その技も、命も、未来も、全てを奪って技を身につけるのに似ている。赤の隊でも同じことがあろう」

 その通りだった。

 俺はカスミーユからの指導で、戦闘時における原則を教わっている。

 その中には、仲間を見捨てる行動さえも含まれていた。

 赤の隊は訓練はするが、実戦はない。仲間を見捨てる場面も、訓練の一部に過ぎない。その仲間は、夕食どきになれば平然と戻ってくるのだ。そして自分が置き去りにされる側になっても、やはり夕食の席で仲間と笑い合いながら食事をするのである。

 しかし実戦になれば、そんな場面はありえない。

 戦場で見捨てられれば、殺されるか、捕虜になる。仲間の元へ戻ることなど、できなくなる。場合によっては、二度と。死体になっても戻れないかもしれない。

 じっと動かないイダサは、この訓練において、最大の挑戦をした。

 それはベッテンコードがしている実戦に限りなく近い稽古を、実戦に変えてしまったのだ。

 俺にもよく見えた。

 ベッテンコードの刺突は、際どいところで重傷で済ます軌道を走った。本来的なイダサの治癒力の向上で、苦労はしても回復が可能な領域の深傷で済んだだろう。

 それをイダサは、無理やり自分の身体で受け止めた。

 死なない確信があったのか。

 はっきりしているのは、ベッテンコードには予想外の事態だったことだ。

 だから意表を突かれた彼は俺の刃に身をさらした。

「イダサは」

 唸るような声でベッテンコードが言う。

「理解したのであろうな、わしの技の弱みを」

 弱み。

 俺には未だにわからなかった。

 何もかもがわからないと言っていい。

 イダサが命の危険も顧みず、ベッテンコードへ一撃を当てるのにこだわった理由も、わからない。

 そこへリフヌガードがルーカスに連れられてやってきた。さすがの剣聖も顔色を変えている。リフヌガードにベッテンコードが平然と言葉を向ける。

「まだ生きておるよ。優秀な弟子だな」

 老人の冗談めいた言葉を完全に無視して、リフヌガードは俺の横を抜け、血だまりに踏み込み、膝をついた。着物が汚れることを厭わず、小柄な男がイダサの体をそっと支えて床に寝かせた。素早く稽古着を引き裂いて傷口を観察し始める。

 俺はそれを見ているしかできない。当事者の一人であるベッテンコードはあくびなどしていたが。

 リフヌガードは、イダサが俺にするように、手のひらをそっとイダサの腹部に当て始めた。ほのかに手のひらの周りが白く染まっているように見える。つまりまだ、イダサには生き残る目があるということだ。

 治療の様子を見ながら、俺は考えていた。

 イダサは自分の体を傷つけることを選んだ。

 自分の命を危険にさらしても、勝つことを選んだ。

 それは普通の発想ではない。

 誰の発想に一番近いかといえば、ベッテンコードだった。

 死ななければ殺しかけてもいい、というベッテンコードの理屈と。

 死ななければ問題ない、というイダサの理屈。

 両者にどれくらいの差があるだろうか。

 イダサは踏み込んだのだな、と思わざるをえない。

 普通の使い手の立つ領域から、彼は一部の異質な人間だけが立つことを許される領域に、飛び込んでしまった。

 戻ってきて欲しい、と思うのはどうしてだろう。

 友人が、人ではなくなってしまったような、この悲しみはなんだろう。

 俺はイダサが治療されているのを見ながら、その青白い横顔を見ながら、念じていた。

 イダサ、お前はお前のままでいい。

 ベッテンコードのようになる必要は、ないんだ。

 それはお前の役目ではないはずだ。俺の役目ではないように。

 ベッテンコードが背負うものを同じように背負えるものは、いやしない。

 一人一人が、それぞれのものを背負うだけでいいはずだ。

 リフヌガードは無言、ベッテンコードも無言。ルーカスと黒の隊のものは壁に穴を片付けていた。床に広がっている血だまりはそのままにされ、異臭を発していたが、誰も表情を歪めたりしない。

 静謐な空気の中で、ただ時間が流れた。

 どれくらいが過ぎたか、リフヌガードが姿勢を変えた。イダサの腹部から手を離している。そしてこの小柄な剣聖は、この場にいるもう一人の剣聖に一瞥を向けた。

「私の弟子はどうやら命は助かったようだが、ベッテンコード殿、何があったかは教えてもらいましょうか」

「お前の弟子とやらが目覚めた時、本人から聞けばよかろう」

 不満げなベッテンコードにリフヌガードは無言で視線を注ぎ続けたが、ベッテンコードはベッテンコードで対抗するように強い視線をぶつけ続けた。

 折れたのはリフヌガードの方だった。彼はため息を吐くと、「今日は連れて帰ります」というなり簡単にイダサの体を背中に背負った。小柄な体格に似合わない力強さだった。

 道場に血だまりから転々と赤い足跡を残して剣聖と弟子の二人が去ってから、「ファルス」とベッテンコードが声をかけてくる。まさか稽古を続行するわけでもなかろう、と思って向き直ると、老人は顎をしゃくって床を示した。

「床の血を掃除しておけ。今日はもう帰って良い」

 ……掃除か。

 剣聖はこれからどうするのだろう、と思っていると、床に転がる自分の剣を拾い上げると鞘に収め、道場を出て行こうとする。

「そうだ」

 その小さな背中が振り返る。

「足跡も忘れずに掃除するように」

 何かズレている気がするが、俺は頭を下げておいた。

 剣聖は去って行き、俺は溜息を吐いた。

 気分の良い仕事ではないな。

 やれやれ……。



(続く)

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