2-13 死の淵
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僕には何も妙案はなかった。
ファルスの魔法で壁が吹き飛び、焦げ臭い匂いと、外の新鮮な空気が流れ込んでくる。
僕とファルスのそれぞれの刃を、ベッテンコードは舞踏のような足さばきで躱し続けていた。
その動きに乱れはなく、いつまでも続きそうだった。
いつの間にか身についた阿吽の呼吸で僕が突出し、ファルスに魔法発動のための時間を用意する。ベッテンコードが即座に反転、僕の腹部を横一文字に切りつけてくるが浅い。手加減されているのか。
それでもファルスは魔法を用意できた。
空気がぐっと冷え込み、空中に唐突に無数の氷柱が出来上がる。人の腕ほどもあるそれの鋭利な先端はベッテンコードに向いており、全方向を取り囲んでいる。
僕が跳ねて間合いを取るのと同時に、氷柱がベッテンコードに殺到した。
ベッテンコードの足が止まる。
その体が旋回し、剣の残像が空中に格子を描いた時、破砕音の多重奏が響き渡り、全ての氷柱が粉砕されていた。氷柱を形成していた魔力が破綻し、氷が水へ即座に変化。僕の隣ではファルスが舌打ちしている。反動があったはずだ。
その間にもベッテンコードは迫ってくる。
二人で左右に分かれる。挟撃する事に活路を見出したわけだが、二対一を提案した以上、ベッテンコードからすれば想定している形の一つに過ぎないだろう。
実際、彼は僕とファルスの移動に対して、ファルスに素早く肉薄する、という手段に出た。僕に背中を向けて、である。
ファルスは魔法を使える以上、攻撃力では僕よりはるかに上だ。それを加味すれば、ファルスを先に制圧するのは当然だった。
むしろ、ファルスの魔法はベッテンコード相手では援護としてのみ成立するのであって、僕たちがとったやり方は、ファルスの持ち味を殺す方法だったと言える。
気づくが遅い。次善の策をとるしかない。
ベッテンコードの背中に、僕はまっすぐに突っ込んだ。ファルスを助けるにはそれしかない。一度、仕切り直す必要がある。
目の前でベッテンコードが振り返る。
振り返る?
横からベッテンコードの刃が迫ってくるのが、緩慢に見えた。
足を止めて急制動をかけつつ、体を反らす。
目と鼻の先を切っ先が走る。
死ぬところだった。
牽制の振りでベッテンコードの動きをわずかに止めながら、僕は後ろへ跳ねる。
ベッテンコードはファルスを狙うと見せかけて、僕を狙ってきたと遅れて理解した。
裏をかいてくるか。
ファルスはといえば、先ほどの僕の再現のようにベッテンコードの背中へ向かっているが、それはさっきの僕と同じ状態である。
やはりベッテンコードは即座に反転し、ファルスとの一対一の状態を作るだろう。僕が復帰しても、その時にファルスが崩されていれば、また目標が僕に戻るだけのこと。
二対一のはずなのに、これでは一対一の繰り返しである。
「ファルス!」
声を発しただけで、相棒は僕の意図を察してくれた。
空中で光が爆ぜる。
目眩しはベッテンコードも予想外だったか、動きがわずかに止まる。
その隙に僕とファルスで揃って、ベッテンコードから間合いを取る。
どうにか振り出しに戻せたが、突破口は見当たらない。
「目眩しに魔法を使う奴はいるが、受けたのは初めてだ」
ベッテンコードが目を細めたまま呟く。
「意外に効果があるものだな。一瞬のことで魔法破壊も効果がなさそうだ」
片手で剣を振り回したベッテンコードは、不意に構えらしいものを取った。
どうやらもう遊びは終わりということらしい。
二人まとめて切り捨てる、という姿勢だ。
「イダサ、何か妙案はあるか」
ファルスの問いかけも真剣な調子だった。
妙案は、あった。
あったが、実行できるかはわからなかった。
「やってみよう」
そう言葉にした時に、初めて決心がついたようなものだ。
ベッテンコードとの稽古の中で、見えてきたことがある。
単純な理屈。
単純な発想。
死ななければいい、ということ。
「俺にできることは?」
ファルスの問いかけに、僕は簡潔に答えた。
「きみが攻撃を当ててくれ。それだけだ」
オーケー、とファルスが答えた時には僕は弾かれたように前に出ていた。
ベッテンコードも前進。
間合いは消滅。
死の気配が満ちる。
殺意が空気を冷却する。
ベッテンコードの刃が、躊躇いなく突き進んでくる。
僕の剣が迎撃。間に合うか。
間に合った。
しかし剣同士が絡まるように交錯した次には、僕の手から剣はもぎ取られていた。
宙に舞った剣が天井に突き刺さる。
ベッテンコードの剣は手元へ引き戻され、刺突の構え。
誘導は、完璧だった。
僕の誘導だ。
閃光と化したベッテンコードの刃が、僕の脇腹を狙う。
そう、彼はここに至って、ついに弱みを見せた。
心臓や重要な臓器を狙わない弱み。
即死を避ける、というのが、ベッテンコードの唯一の弱みなのだった。
だから僕は、わざとベッテンコードの剣の前に移動した。
自ら死のうとするように。
突きの勢いが鈍るが、僕の方からも前に出ている。
回避は、しない。
腹に切っ先が食い込み、想像を絶する激痛とともに皮膚を食い破り、肉を引き裂き、内臓を貫き、そのまま背中へ抜ける。
僕の両手は、ほとんど無意識にベッテンコードの両手を掴もうとした。
しかし彼は即座に剣を捨てて後ろへ跳んでいる。
露骨な避け方。
初めて見せた動きだった。
僕の横をすり抜けたファルスが追撃。
剣が翻るが、ベッテンコードが大きく、さらに後ろへ下がる。
と見えたが、反転し、ファルスの追撃の刃を素手で反らすと、密着するような間合いでベッテンコードの拳がファルスの胸を打ち、体ごと弾き飛ばしていた。
ファルスが床に倒れた時、僕もさすがに両膝を床についていた。
大量の血が床に落ち、そのまま血だまりとなって広がっていく。
呼吸が乱れる。いや、痛みのせいで、息が吸えない。吐くこともできない。
バカめ。
そう言ったのはベッテンコードのはずだが、聞いている余裕はない。
僕だって死ぬつもりはない。これほどとは思わなかったが、死ぬ気はない。
思い描いていた通り、全身の治癒力を極端に活性化させる。力が抜けそうになっていた両手が逆に熱いほどになり、取り戻した力で腹に刺さったままの剣の柄を握る。
引き抜いた時、危うく失神しそうだった。失神すれば死ぬ、という事実が僕に失神も、発狂も許さなかった。
完全に切っ先が抜けると、想像を絶する出血があった。ただ傷口が激しく蠢き、湯気を上げ始めた。
自身の体の治癒力を、可能な限り、限界まで活性化させる。傷は治せても失血は即座に取り戻せないが、死ななければいいのだ。
そう、死ななければ。
呼吸を繰り返した。視界が明滅し、暗くなる時間が増えてくる。まだ傷は治りきっていない。もう少し、もう少しだ。もう少しだけ、耐えてくれ。
僕はぎゅっと目をつむり、歯を食いしばり、集中した。
雑念は無視する。痛みも恐怖も、無視した。
周囲の空気が生臭い。
生命の匂い。
死の匂い。
僕は生きているのか、死んでいるのか。
誰かが遠くで呼びかけている。
誰の声だ?
見えない。
何も見えなくなった。
暗い。
真っ暗闇の中で、俺はただ念じていた。
生きたい。
生きなければ。
それはあるいは、人間の根源的な欲求、誰もが持ち、忘れることのない願望だったかもしれない。
遠くでチカチカと、光が瞬く。
まるで夜空の星のように。
(続く)




