2-10 生死の境
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ルーカスが言った通り、二日目の午前中はひたすら走り込みだった。
黒の隊の隊員だという少年四人と、王都の通りを走り続ける。もっとも俺は騎馬隊で体力に自信があったし、イダサもどうやらこの一年で体力をつけたようだ、遅れることはなかった。
昼食の後、道場で稽古になるが、すぐにベッテンコードがやってきたわけではない。まずは他の四人と組打ちをする。ベッテンコード級の使い手がそうそういるわけもないが、黒の隊の少年たちはさすがに慣れている。
何度か投げられているうちに、体の動かし方は分かってきた。上体を崩しつつ、足元を狙い、さらに相手の重心を崩して、というようなことがほとんど一瞬でできないと、投げは決まらない。なので理屈よりも、体が技を覚えるのが優先される、と俺は考えていた。
そのうちに真剣を使った斬り合いが始まった。稽古とは思えない苛烈な応酬で、俺は瞠目するしかない。
少年たちはまったく躊躇なく剣を繰り出すのだ。
正気とは思えなかった。
相手を殺す気か、とさえ思った。
ただ、危ういところで拮抗し、浅手は頻繁に発生するものの、致命的な一撃を受けるものはいない。実力、技術が伯仲しているということだろうと思うが、あまりにも危うい。
どれくらいが経ったか、ベッテンコードがやってきた。この時、道場の全員が直立し、一礼した。そんなことも知らないので、俺とイダサは少し遅れたが、ベッテンコードに気にした様子はない。
老人がどうするかと思うと「ファルス、お前からだ」と俺を呼んだ。
ルーカスに目線で確認すると、頷かれてしまった。
緊張しながらベッテンコードの前に進み出ると、「どうとでも切りつけてこい」となんでもないように軽い調子で声がかけられる。
どうとでも?
俺はとっさに剣を抜いたが、ベッテンコードは剣を抜くようではない。
切りつけたところを、組打ちのようにして俺を無力化するのだろうか。
しかしどうも、切り込める隙がない。突っ立っているだけなのに、俺が制圧される印象しかない。
棒立ちの老人にこんな感情を持つとは、経験したことのない事態だ。
「イダサがいるのでな」
ベッテンコードの声は、明らかに苛立っていた。
「重傷を負わせても、どうせすぐに治療できるのはありがたいことだ」
切りつけてこい、容赦はするな、ということか。
俺が思い切って剣を振りかぶった時、気づくとベッテンコードの手が腰の剣の柄に置かれている。
いつの間に?
それよりも、組打ちじゃないのか?
いや、さっき、彼はなんて言った?
重傷を負わせても、と言ったはずだ。もしベッテンコード自身が怪我をすることが前提なら、重傷を負っても、と表現するはず。重傷を負わせても、とはつまり、ベッテンコードが俺を切っても、という意味か。
考えている余裕はない。
技も何もなく、拝み打ちのように俺は剣を振り下ろした。
冷たいものが胸を走り抜ける。
目の前にベッテンコードがいない。
背後に気配。振り返ると、ベッテンコードは抜き身の剣を下げてこちらを見ている。
「思い切りがいいのは認めよう」
その言葉が合図になったように、目の前に赤い飛沫が吹き上がった。
血だ。
俺の血だった。
胸を押さえるが、不思議と痛みはなく、ただ熱だけがあった。
すぐに足から力が抜ける。イダサが駆け寄ってくる気配。
ベッテンコードは、強い。
生きる世界が違うほど、強い。
明確な恐怖が俺の中にある。傷つきたくない、殺されたくない。当たり前の感情だ。
しかし一方で、尊敬、畏怖の念があった。
これほどの使い手の指導を受けられるなど、そうあることではない。引き換えに死を受け入れられるかと問われれば、受け入れることはできない。しかし、差し出せるものを全て差し出してもいい、と思える。
腕の一本でも捨ててもいい気分だった。
きっとベッテンコードなら、痛みを感じさせないほど鮮やかに切り落とすだろう。
俺は両膝をつき、顔から床に倒れた。床に溜まっている血が跳ねる。
イダサがいなければ、本当に死んでいるな。
遠くで友人の声を聞きながら、俺は細く息を吐いた。
あまり死に近づきすぎるのも危険だろうとぼんやりと思っているうちに、俺の体が温もりに包まれていく。浮遊感、そして幸福感のようなものがやってくる。
柔らかい寝台で眠りに落ちる時に似た安らぎの中で、俺は意識を失った。
はずが、強烈な衝撃に目が覚めた。
うめき声を漏らすと、俺を見下ろしている老人がいる。彼の足が俺の胸の上にある。
「寝ている暇などないぞ。立て」
足がどけられてから、やっと咳が出た。濁った音を発しつつ、俺は剣を探す。すぐそばに落ちていた。全身がいやに重い。力が入らない。胸に激しい痛みがある。踏みつけられたせいか。息をするたびに骨が軋む気がした。
イダサは、と見ると、彼は呆気に捉えた顔ですぐそばに尻餅をついていた。おおよそ、ベッテンコードに治療の邪魔をされたのだろうと想像がつく。何か言いかけたイダサを、俺はさっと身振りで止めた。大丈夫だ、という意味で頷いておく。
「早く剣を取れ。敵は待ってなどくれんぞ」
老人の厳しい声に、剣を手に取りざま、不自然な姿勢に構わず切りつける。
振り回した剣をベッテンコードは半歩、下がるだけで回避した。姿勢はほとんど変わっていない。俺の不規則な剣の筋を、即座に見破って間合いを把握したのか。
つくづく、驚異的な使い手である。
「それで終わりか」
俺がふらついているところへ、老人は容赦しない。
うまく力が入らない手から剣がすっぽ抜けそうだが、俺は切っ先を突き出した。
やはりベッテンコードは半身になって避ける。
彼の手が翻ったかと思うと、切っ先が俺の胸元を引っ掛けるように切り裂いた。
「もう二度は死んでいるな、ファルスよ」
構うもんか。
俺はがむしゃらに剣を振り回した。赤の隊で習った剣術は、ここでは使い物にならないと即座に割り切った。
一から学ぶのだ。
そのためには何が間違いかを知る必要がある。
いつか、イダサに馬術について教わったときと同じだ。
俺の剣がベッテンコードに届かない理由を、俺は知る必要がある。
そのためなら、どれだけ傷を負ってもいい。
死なない限りは。
剣は老人を掠めもしない。しかし老人の剣は俺を傷だらけにする。
気づくと、俺は片膝をつき、動けなくなっていた。右手には剣があるが、重すぎる。持ち上げられない。
「終わりだ」
声と同時にベッテンコードが俺の胸を蹴りつけたのに、耐えきれずにひっくり返る。胸への衝撃で激しく咳き込んで喘ごうとしたが、俺は思わず息を止めてしまった。先ほどまでは激しく乱れていたはずが、変に呼吸が整っていたからだ。
姿勢を取り直した時、もうベッテンコードは俺を見ていなかった。
「イダサ、お前の番だ」
離れたところにいた錬金術士の青年は、やはり血の気の引いた顔をしていた。
ただ、その顔には決意があった。強い意志があった。
彼が無言で進み出くるその様子に、俺は少し、緊張していた。
(続く)




