2-7 無関心
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事務員に聞いた場所は、剣聖府の建物に隣接の道場だった。
そんな場所があるとは知らなかったけど、黒の隊が独占しているようだ。もっとも、建物と言っても道場以外に言いようもない簡単なもので、これといって重要ではないらしい。
ともかく、入り口から中に入って声をかけたところで、情景がやっと理解できた。
老人と若い男性が並んで立っており、もう一人、若い男性が床に倒れている。その倒れ方、脱力の仕方は一見すると死体に見える。
老人が「来たぞ」と囁くのに、隣の男性が「間に合いましたね」などと応じているので、まるで二人には倒れている一人が見えてないように錯覚された。
しかし医者のようなことを続けてきた僕からすれば、放ってはおけない。普通の人でも放ってはおかないだろう。
足早に近づくと、倒れている男性は知っている人物だった。
赤の隊のファルスだ。
「ファルスさん? 聞こえますか?」
膝をついても、揺さぶるのも危険そうだった。首が不自然に曲がっている。
反射的に立っている二人を見るが、老人はそっぽを向いていて、もう一人は「床に落ちただけだ」と言い訳のようなことを口にした。
どんな落とし方をしたか、分かろうというものだ。
「ファルスさん、治療しますから、少し我慢してください」
当のファルスは頷くことも返事もできない有様だ。
僕は彼の首の位置を整え、両手に魔力を集めると、生命力へと変えてファルスのそれと同調させていく。しかしファルスの生命力の波長は不自然に間がある。もう少しでも処置が遅れると手遅れだったはずだし、それどころか今も危ない。
目をつむり、息も詰めて、じっと両手に集中する。
僕の両手とファルスの首筋、両者の間で生命力が交換され、ファルスの体で治癒力が励起される。手のひらの下でファルスの首筋が緩慢に蠢くのが感じ取れた。よし、これで第一関門はなんとかなった。
錬金術士でも、死者を蘇らせることはできないのだ。ファルスはこれで、死ぬことはないはずだ。僕次第でもあるが。
僕の生命力とファルスの生命力が一層、深いところで完全に同調すると、僕にはファルスの体の状態が手に取るように把握できてくる。全身に打撲があった。首を傷める前に稽古とやらを受けたんだろう。それと右腕の損傷がひどい。手首は骨折、肘も砕け、肩は脱臼していた。
あまりに酷い。
さすがに怒りを感じるが、今は感情を平板に保ち、ファルスと一体にならないといけない。
どれくらいが過ぎたか、手のひらに感じていた感触は消え、ファルスは柔らかい表情で目を閉じている。気を失ったようだが、体はもうおおよそ整っている。
緑の隊が多用する錬金術を応用した治療は、施術する錬金術士にも疲労を強いるが、施術される側にも相応の疲労が生じるものだ。この時のファルスは、重傷を強引に治療されたことで、彼自身の生命力が一時的に枯渇して失神したと思われる。
それでも呼吸も脈も正常に戻っている。僕の施術も終わりでいいだろう。
ずっとつむっていた目に違和感を覚え、瞬きを繰り返す。僕の全身が汗にまみれているのが理解できた。知らぬ間にこわばっていた手のひらをファルスの首から離すと、僕の手はひとりでに震え始めた。
そんな全てを無視して、改めてじっとファルスを観察する。血色はいい。胸も規則的に上下している。震えが残る手で手首に触れてみると、ちゃんともう脈も安定している。
「意外に器用ではないか」
老人の声がしたのでそちらを見ると、興味深げにこちらを覗き込んでいるのにぶつかった。
そろそろ説教を始めてもいいだろう。実は巡回の最中、ミューラーに「あまり患者を叱るな」と言われたこともあるけど、僕としては病気になるものの中には、避けらえるはずのものを不用意に実行し、病気になったり怪我を負う者がいる。
そういうものは叱りつけて当然だと思う僕だった。
「こんな稽古はやめてください、ご老人」
老人が片目を細める器用な表情をした。
「稽古をつけるのがわしの役目だ。ここはわしが稽古をつける場だ。もし文句があるなら入ってこなければ良い」
まったく無反省な態度に、僕は立ち上がっていた。老人より僕の方が上背があるので、自然と見下ろす形になる。ただ、老人の横柄な態度は少しも揺るがなかった。
「稽古で死者が出るのでは、損ばかりです」
「強い奴が残るのだから、得ではあるかもしれんな」
「彼が死んでしまうのが問題です」
「ここで死ぬのなら、実戦の場でも死ぬだろうな」
ああ言えばこう言う、とはまさにこのことだ。
僕が更に言い募ろうとした時、ずっと黙っていた若い男性が「ベッテンコード様」と老人に声をかけたので、僕は言葉を飲み込むしかなかった。
ベッテンコード。
剣聖の一人にして、黒の隊の指揮官。
僕が指導を仰ぐ相手だった。
しかし今更、膝を折れなかった。折れなかったが、威勢は一気にしぼんでしまった。
僕が黙ると、鼻で笑った老人が「称号にへりくだる必要はない」と低い声で言った。そして一転、好戦的な表情へ変化する。
「お前、名前は?」
「イダサと申します。ベッテンコード様に指導を受けよと、リフヌガード様の命を受けて参りました」
「イダサ、お前はなかなか根性がありそうだ。錬金術で自分の体を治療したことはあるか」
自分の体?
答えらえずにいると「学ぶのも悪くあるまい」と言うなり、いきなりベッテンコードが部下らしい男性の腰の剣を引き抜いた。
真剣だ。
ついでに言えば、刃はよく手入れされていて背筋が冷えるような光り方をしている。
僕の腰にも剣がある。しかし抜く暇はなかった。
ベッテンコードの剣が翻る。切っ先が僕の体に食い込むのがはっきりとわかった。
床を蹴って後退、間合いを取る。
取れない。
ベッテンコードがスルスルと間合いを詰め、一度振り抜いた剣を引き戻し、もう一度、振ってくる。
避ける余地がない。
切っ先が体をなぞる。
血が弾ける。
この時、ベッテンコードは僕を殺せたはずだ。
二度の攻撃は明らかに手加減されている。
何せ、皮膚だけを切る斬撃だった。
それが逆に熟練の技術を実感させる。
老人はなんでもないように、間合いを完全に支配していたのだ。
手加減もあってか、僕は続けざまに五回ほど各所を切られながらも、剣の柄に手を置くことができた。
即座に抜くべきだった。
しかし、抜けない。
これは稽古のはずだ。ここまで切りつけられても、稽古のはず。
真剣で稽古をすることはあっても、切りつける稽古なんてあるわけがない。
僕の腰の剣も訓練用ではなく、正真正銘の真剣だ。
何かの拍子に僕の刃がベッテンコードに触れてしまえば、怪我をさせることになる。剣聖がそんな失敗をするわけもないが、場所が悪ければ、傷が深ければ、命に関わる。
僕は傷を治すことを続けてきた。
僕は傷を負わせることをほとんどしていない。
「間抜けめ」
ベッテンコードの冷ややかな声と同時に、手首に灼熱が走った。
見るまでもなく、柄に触れてた右手首が半ば輪切りにされている。激しい痛みに視界が明滅し、悲鳴が漏れる。
もうベッテンコードは深追いしなかった。間合いを取り、「さっさと治療せよ」と突き放すように言っただけだ。
僕はその声を聞きながら、左手で右手首の傷を握りしめ、しかし左手はみるみる赤く染まり、床には血溜まりができた。
呼吸を整えることだ。次に魔力を励起させる。
何回もやってきたことだ。
今も出来るはずだ。
落ち着いて。
冷静に。
息が震える。背筋が冷たくなる。心臓が早鐘を打つ。
構うな。
治療は出来る。
右手首が熱くなるのは、血の熱さなのか、治療の結果かは、すぐにはわからなかった。
僕が必死になっている横で、ずっと見物していた男性と老人が議論を始めていた。僕の動きについて話しているようだ。
僕の傷や、状況には一顧だにしていない。治療の応援を頼むようではない。
何もかもがちぐはぐだった。僕がここで死ぬならそれでも構わない、というような。
二人は非情というより、無関心なのだ。
僕は歯を食いしばりながら、治療を続行した。
一度は感じなくなっていた右手の指の先の感覚は、徐々に戻ってきた。
(続く)




