1-7 奇妙な少女
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手刀が光ったような気がした。
人間の手なのに、まるで鋭利な刃物のように、それが僕の左腕に食い込み。
切断し。
血飛沫が舞い。
赤い粒の一つ一つが見え。
弾け。
砕け。
「うわあぁっ!」
悲鳴を上げて跳ね起きてしまった。
ここは、尖塔の中の部屋じゃない。ベッテンコードの部屋でも、僕の部屋でもない。
真っ白い壁、天井、レースのカーテン。
戻ってきた。
でも、振り出しに戻ったわけじゃない。
恐る恐る左手を持ち上げるが、感覚はある。でもこの目で見るまでは、安心できない。
シーツから抜き出した僕の左腕は、ちゃんとそこにあった。
ホッとして息を吐いて、ゆっくりと寝台の上に倒れ込んだ。
切断されたというのは、錯覚だったか。それもそうだ、まさか人間の手が人の腕を切り飛ばすなんて、ありえないし。
ドアがノックされ、僕が慌てて上体を起こすと、慎重な足取りで女中と同じ格好をした少女が入ってきた。
最初、僕が意識を取り戻しているのに気付かなかったようで、僕の視線と彼女の視線がぶつかり、やっと彼女の顔に表情が浮かんだ。
忌々しげな笑みだったけど。
「なんだ、ちゃんと生き返ったではないか」
ちゃんと生き返った?
僕が怪訝な表情をしたのには気づいただろうけど、彼女は両手に持った盆を捧げるようにしてこちらへ近づいてきて、口調や表情とは裏腹に、丁寧な動作でベッド脇に置いた。
「それで、どこにも不具合はないかね?」
声は可憐なのに、口調は横柄だ。
でも別に文句はない。どことなくその調子にふさわしい威厳が、この少女にはある。
そう、見た目はクロエスのそばにいる人造人間に似ているのに、この少女だけは別なのだ。
例外の一人である、彼女。
年齢が一人だけ少し高め、というだけではなく。
「ありがとう、サリースリー」
礼を言うと、「敬称をつけよ」と返事がある。
「ごめん、サリースリーさん」
「ごめん、ではない。私を誰だと思っている」
「すみません、でした」
無言で頷き、彼女は細い指で大胆に器の中の粥をかき混ぜ始めた。
……何故、指で? すぐ横に匙が添えられているのに。
僕の視線に気づいたようで、しばらく自分の動作を確認するような表情をしてから、彼女は粥から指を抜き、匙を手に取り直して粥をひと掬いする。
それが僕の方へ突き出される。
いろんな意味で非常に食べづらいな。
「自分で食べます」
匙を受け取ると、つまらんなぁ、とサリースリーという名の少女が不服げにそっぽを向く。
彼女は外見こそ他の人造人形と酷似していても、感情が豊かで、身振りにも表情にも生き生きとしたものがある。そもそも積極的に会話をしようとする。他の人造人間はほとんどしゃべることがないのとは対照的だ。
まぁ、それ以外にもサリースリーにはトンチンカンなところがあるわけだけど。
「人間の怪我人というのは、看護するものの手で食べ物を口にするのではないのか?」
左手に器、右手に匙で粥を口に運ぶ僕の横で、しげしげとサリースリーがこちらを見やる。瞳の奥には好奇心と、なんだろう、失望だろうか。まったく、常識を知らない少女である。
「それはまぁ、両腕を怪我していたり身動きが取れない重病人なら、誰かが手助けすると思いますけど」
「では仮に、お前の両腕がなくなれば、私の手から粥を食べるか?」
……言葉がおかしい気がする。私の手から食べる、というのは、私の手助けで食べる、という意味だろう、きっと。たぶん。そう思いたい。
「両腕がなくなるような大怪我に見舞われたら、普通の人は生きていないと思います」
答える僕も僕で、おかしなことを言っている。
当たり前なんだけど、なんでわざわざ言葉にしているんだろう?
僕が自分自身に疑問を抱いているすぐ横で、サリースリーは今度は嬉しそうだ。
「あの老人なら、きっと鮮やかにお前の両腕を落としてくれるだろうな。そうなれば私がお前に食事を与えるのか。それは期待してしまうな」
全く訳がわからない。
鮮やかに両腕を落とす? そんなの、達人級の使い手じゃないと無理じゃないか。落とした時点で、落とされた方は激痛で酷い死に方をするだろうし、その痛みに耐えられても失血死は確実で、生存の見込みはない。
それとやっぱり、食事を与える、という表現は、おかしくないかな……。
僕が考える横で、サリースリーは粥に添えられていたジュースを勝手に飲み始めた。
それ、僕のためのものじゃないのか?
緑色の液体の入ったグラスをグイグイ傾けながら、楽しみが一つ増えた、やはりこうでなくては、と一人で話している少女は、だいぶ奇人だ。
でもそれは目が覚めてからの三日間でよく身にしみている。
この少女が僕にここでの生活の基礎を、一応、教えてくれたのだ。まぁ、トイレの場所とか、お風呂とか、洗濯場とか、そういうのを案内してくれた後は、超実践的に作法を叩き込まれた。
その中での奇妙な言葉の最たるものは「服など飾りだ」と洗濯場で言ったことだけど、最大の謎は風呂場で「川の方が気持ち良いものだぞ」としたり顔で言った場面だ。
夏なら川でもいいし、今の季節はどうやら春から夏という時季らしいから、まぁ、川でも良いかもしれないけど……見たところ十五、六歳の女の子が、川で水を浴びるのをそこまで好むだろうか。
別に水浴びしてもらっても構わないけど、僕としてはお風呂のお湯の方がありがたい。
こんな奇特な人物であるサリースリーは、クロエスにとっても特別な存在ではあるようだった。クロエスは決して、サリースリーに仕事の指示をしない。まったくの自由にさせているのである。
でもサリースリーだって間違いなく人造人間だろうと僕には思える。その感情の発露は一般的な人造人間にはとても見えないけど、どこかで人造人間だろうと思ってしまうのだ。
この矛盾、割り切れなさが、僕の中のサリースリーに対するまだ解消されていない謎だった。
「ちょっと腕を見せてみよ。お前の体がどのようなものか、知っておきたい」
僕は粥を食べ終わったところだった。
空の器を取り上げられ、意外に力強く僕の左腕が固定された。
抵抗する間もない。
いつの間にか着せられていた白い服の袖は、無造作にめくられた。
「……何、これ?」
思わず声を漏らした僕の視線の先。
自分の左腕、そこには明らかに傷跡があった。
それはあの尖塔の中にあるベッテンコードの部屋で、手刀を受けた場所だった。
傷跡はまるで僕の腕が輪切りにされたようだった。
冷や汗がいつの間にか雫を作り、こめかみから頬、顎、首筋へと流れる。
サリースリーは平然と、ふーん、などと傷跡に触れていた。
いったい、何があったんだ?
(続く)