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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第二部 二人の男の数奇な関係
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2-6 意図的な事故

       ◆


 剣聖府、剣司館の内部は剣聖騎士団の四隊それぞれが、完全に棲み分けられている。

 なので俺も黒の隊の領域に踏み込んだことはなかった。もちろん、同じ建物の中なので景色が変わることはない。

 しかし、雰囲気というものは確かに違う。

 廊下を行く黒装束の男たちは、背筋を伸ばしているからではないだろうが、凛として見える。表情も赤の隊のそれとはどこか違う。赤の隊の隊員は兵士のようだが、黒装束の黒の隊のものは剣術家という趣というべきか。

 ルーカスが案内したのは、剣聖府の建物の裏手にある別の建物だった。

 平屋で、入ってみると広い板張りになっている。床の板は真っ黒く染まり、つやつやと光っている。今は無人だが、空気が剣聖府のそれとは全く違う。

「ファルス殿は武術の経験はおありかな」

 ルーカスが確認してくるのに「赤の隊で教わりました」と答えるけれど、黒の隊の武術と赤の隊の武術は違うだろう。そもそも、俺は剣や槍、棒を持たされたが、それは地面に立って、一対一で向かい合うようなものとはまるで違う。馬に乗った状態で使う時の技能が俺の武術の知識だ。

「体術の基礎を教えしましょう」

 いきなりそう言われて、俺は困惑したが、ルーカスは羽織っていた黒い上着を脱ぐと、広間、道場の真ん中へ進み出ていく。俺も赤いローブを脱いで壁際に丸めておいて、ルーカスに倣う。

 二人向かい合った次には、ルーカスの手が俺の服の襟元と手首を掴んでくる。

 動きが見えなかった。

 うっ、と本能的に声を飲んだ次には、何が起こったのか、視界が回転して上下逆さまになり、肩から床に落ちていた。

「おっと、失礼」

 頭上からの声に答えたいが、激しい痛みに言葉が出ない。

 ルーカスは手を貸すでもなく、ただ突っ立ったまま俺が立ち上がるのを待っていた。さすがに俺も頭に来た。この不遜な若造に同じことをしてやる。若造と言っても、俺より年上だけど。

 今度はこちらから組み付きにいくが、ルーカスは組んだ次には俺の足を払ってくる。払いに来るとわかっていても、避けられない。

 彼は俺の体の触れるだけで、俺の姿勢を根本的に崩してくるようだ。恐ろしく高度な技術だった。

 姿勢が乱れれば、踏ん張らないとさらに姿勢が崩れるが、踏ん張っていては足払いを避けられない。

 投げ倒されても、俺は必死に立ち上がった。

 魔法を行使できれば、ルーカスを圧倒することはできる。たぶん。しかし今はそれは反則だ。

 ここには武術を学びに来ているのだ。

 繰り返し投げ倒され、全身のそこここが痛む。これは赤の隊で馬術を習った時に近い。体に覚えこませる、という点で共通するのかもしれない。

 俺が立てなくなった時、ルーカスは平然としていた。もちろん、彼は一度も投げ倒されていないし、膝をついてもいなかった。

 床に仰向けになり、荒い呼吸をしている俺は、恨めしい思いでルーカスを見た。

 これはどうも、一朝一夕には不可能だな。

「その無様な男が、カスミーユが寄越した男か」

 いきなり、低い声が聞こえて俺は起き上がった。

 道場に入ってきたのは、それほど上背のない男性で、着物の上からでも痩せているのがわかる。顔にはシワが目立ち、ひとつに結ばれている長い髪の毛は真っ白だ。年齢は、六十ほど、だろうか。

 年齢を測らせなくするのは、瞳に苛烈な輝きがあるからだ。

「そうです、先生」

 ルーカスの言葉に鷹揚に頷いた老人が「生ぬるい事だな」と吐き捨てるように言葉にする。

 俺はどう反応するべきか迷い、一応、名前を訊ねるべきだと判断した。判断したが、それを口にする前に、老人がすっと手を差し出してくる。

 あ、握手?

 思わず俺は彼の手を握っていた。

 刹那の出来事だった。

 手首に激しい痛みが走り、腕が引きずられ、肩が燃えるように熱くなった。

 全ての痛みが走るよりも速く、足が床を離れる。払われたのか? いや、そんな動きは見えなかった。

 宙に浮いた体を理解しながら、俺の視線は老人の顔を見ていた。

 全くつまらなそうに、退屈そのものの顔で、彼も俺を見ていた。

 瞳にあるのは、殺意だった。

 まずい、とは思った。床に落ちる角度が、危険すぎる。

 受け身を取る。

 片腕はまだ老人が握っているので自由がきかない。

 片腕だけで首筋から床へ落ちる衝撃を減らそうとしたが、ほとんど機能しなかった。

 鈍い音がして、首に違和感があった。

 体に力が入らなくなり、感覚が曖昧になる。どうやら床に倒れているようだ。体の端の方から温度が逃げていく錯覚。それは生命力の散逸を意識させる。

 前に馬から激しく落ちた時に似ている。

 医者を呼んでくれ、と言いたいが、声が出ない。

「先生、殺してはいけないというのが、カスミーユ様からの条件でしたが」

「生きているだろう。目が開いているし、息もしている」

 視界はぼやけているが、声ははっきり聞こえた。

 黒の隊の稽古がこれだとしたら、命がいくつあっても足りない。いやいや、そんなことを考えている前に、医者を呼んでもらわないと、本当に俺が死んでしまう……。

「緑の隊のものを呼んできましょうか」

 言葉が出ない俺の心の内を読んだわけでもなかろうが、ルーカスがそう老人に確認する。

 老人は「まあ、待て」とあっさりと応じる。

「緑の隊からも稽古を受けに来る奴がいる。そろそろ来るはずだから、そのものに治療は任せればよかろう」

「しかし、迅速に治療しないと、まずいのではないのですか?」

「稽古に事故はつきものだ」

 平然とした老人の言葉に、さすがに俺も反論したかった。

 事故で殺される方はたまったものではない。ついでに言うと、老人は明らかに俺を殺そうとしたはずだ。それはもう事故とは言わない。

 憤然としながらも指先さえ動かせない俺の耳に、のんびりとした声が聞こえた。

「あのー、ベッテンコード様はこちらにいらっしゃいますか」

 聞き覚えのある声にも思えたが、医者が来たのならありがたい。

 死なずに済みそうだ。

 ちょっと、というか、だいぶ、非常識な安堵だが。

 俺は両手足の感覚が曖昧なのに今更のように恐怖を感じながら、近づいてくる足音だけを意識するように努めた。

 早く助けてくれ……。



(続く)

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