2-5 罪と報い
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冷たい空気で満たされた実験室には、薬品の匂いが漂っていた。
大型機材の間を抜けていく。錬金術士なら誰もが見たことのある装置もあれば、めったに見ない大掛かりなものもある。ここにある機材も、ここへ来る前に見た科学者たちが作っているんだろう。どう見ても市販のそれとは違う。専門業者でもすぐには用意できないはずだ。
「剣聖様……?」
声をかけると、背丈よりも大きい機材の陰から「こっちだ」と返事がある。
そちらへ行って、僕は目に入った光景に動きを止めてしまった。
まさか、と思う。
ありえない、と次に思った。
真っ直ぐに立っているのは、十三、四歳程度の少女で、真っ黒い髪の毛と対照的に肌の色は抜けるように白い。瞳も黒で、そこに宿る輝きは生命の力を主張しているが、一方で表情は仮面のように感情を見せない。
この少女を、僕は見たことがある。
ずっと前、剣聖府に加入するより前だ。
あの、今は行方不明の友人の地下室で、僕はこの子を見た。
「サリー……?」
無意識に漏れた声は、気づいた時には吞み込むには遅すぎる。
僕の声に、少女が微笑む。慈愛に満ちた、柔らかい表情。
人造人間が、決してしない顔だった。
「あなたのお名前は?」
少女の口から声が流れ出る。明確な発音、興味と好奇心という紛れもない人間にしかない感情の気配。
ああ、と思わず呻いてしまった。
間違いなくサリーだ。
友人、クロエスが完成させた感情を持つ人造人間の基礎タイプ。
クロエスはサリータイプと仮に名付け、サリーと呼んでいた。
「もし?」
少女の言葉に、僕は現実に意識が戻った。
「僕は、イダサ。きみの……、その、名前は?」
「サリーダッシュと申します。サリーとお呼びください」
丁寧に少女が頭を下げる。その段になって、少女がこの場にそぐわない、真っ白いワンピースを着ているのに気づいた。しかし今はそれはどうでもいい。
サリーダッシュ……?
「よく出来ている設計図だった」
不意打ちの声に背後を振り返る。人が入っても余裕がある巨大なガラス筒に背中を預ける、リフヌガードがそこにいた。
僕はほとんど反射的に彼に詰め寄っていた。
「どうして彼女がここにいるのですか」
「再生産したからだ。もちろん、異端のクロエスの設計図を私なりに改良したがね」
再生産。
それが意味するところを理解し、僕は衝撃のあまり、絶句していた。
クロエスと僕が作り上げたサリーと、目の前にいるサリーは別の存在。しかし僕たちが作ったサリーではないことは、救いにはならなかった。あの試作された人造人間の結末は、想像したくなかった。
そして、リフヌガードが禁断の人造人間と言っていいサリータイプを、改めて作ったことも、衝撃だった。
人の道を外れた技術、悪魔の技術を、剣聖が何故、再現したのか。
僕が言葉をなくしているのを気にした様子もなく、リフヌガードが説明を続ける。
「感情のある人造人間は、愛玩用としては面白かっただろうな。しかし私からすれば、人間を人間たらしめているものを検証するのに役立つと思ってな。少なくとも、人造人間と人間を区別する境界線に、感情という要素は意味を持たないらしい。少なくとも、私はサリーダッシュが人間とは思えない」
手が伸びた。
僕はリフヌガードの作業着の襟元をつかみ、渾身の力で引き寄せようとした。しかしリフヌガードは巖のように動かない。それでも構わずに怒声を発してた。
「人造人間は生命だ! 人間が好き勝手にしていいものではない!」
大声にも、剣聖はわずかの動揺もせず、逆に余裕が増したようだった。
「イダサ、それはお前自身に言っているのか? 友人のことかね? それともまさか、私をたしなめるつもりか?」
噛みしめた奥歯が激しく軋んだ。
その時にはリフヌガードの手が僕のローブの襟元を掴み、僕をさも簡単に床に引きずり倒していた。床に叩きつけられ、胸を踏みつけられても、僕の怒りは少しも変わらなかった。
許せるものと、許せないものがある。
僕はあの事件の時、自分の中にある曖昧さを恥じた。
許してはいけないものは、許してはいけないのだ。
どれだけ魅力的だろうと、どれだけ価値があろうと、踏み込んでいけない領域に素知らぬふりをして踏み込むのは、誤りだ。
決して犯してはいけない罪なのだ。
しかしリフヌガードは僕の中の激情を完全に無視した。
「試しに一体だけ、実験用に作っただけだ。別に実験動物のようにするつもりはない。これでも私は剣聖だ。悪党ではない。興味本位で禁忌を犯す錬金術士でもない」
怒りと自責の間で、僕の心は引き裂かれた。
リフヌガードを責める権利は、僕にはない。
人造人間たちに苦痛を与えたのは、僕でもあるのだ。
その罪を忘れたことはない。
「わかりました」
どうにかそう言葉にすると、よろしい、とリフヌガードが僕の胸を踏みつけていた足をどけた。立ち上がろうとすると、胸と背中に激しい痛みがある。僕が手加減せずにリフヌガードに掴みかかったように、リフヌガードも手加減しなかったようだ。
当然の報いだ。
真っ直ぐに立って、こちらを不安そうに見ているサリー、いや、サリーダッシュに頭を下げる。
「みっともないところを見せて、悪かったね」
いいえ、とまだ困惑している顔でサリーダッシュが首を振る。
「イダサ様は何故、そんなにお怒りになられたのですか?」
どう答えようかと思っていると、忍笑いをしていたリフヌガードが横槍を入れる。
「お前の親の一人として、お前のために怒ったんだよ」
恨めしい思いで剣聖を睨みつけるけど、また暴力を振るわれると嫌なのでそれだけにしておく。
彼の言葉を受けたサリーダッシュは不思議そうな顔のまま、僕をじっと見ていた。
「きみのために怒ったのは間違いないよ。でも理解できなくていいんだ。いつかわかれば、それでいい」
それだけではやっぱり理解できなかったんだろう、サリーダッシュは無言で一度、顎を引くように頷いた。
これは僕とクロエスが話し合った実験を思い出させる光景だった。
サリータイプの人造人間に人間の感情を学習させるという内容だった。それはより高い知性へと辿り着くはずで、今、まさにサリーダッシュが困惑しているのは、一つの予兆だろう。
サリーダッシュは僕が何故、怒ったのかを気にしている。僕の感情の変化に興味があるのだ。本来的な人造人間の学習能力では、理屈の上から推測し、論理的な結論を出すしかない。しかしサリータイプには感情がある。サリータイプは理屈から考える時、記号的な要素だけではなく、僕が感じたもの、僕の感情を自分の感情と照らし合わせることが可能になる。
つまりサリータイプの知性は、論理を超越した感情を理解し、身につけることが可能なのだ。
リフヌガードは先程、サリーダッシュを見る限り感情の有無は人造人間と人間の境界線になりえない、と口にした。
彼も気づいているはずだ。サリータイプは学習を深めるほど、人間に近い感情を持ち、感情表現を行うようになると見通せる。今のサリーダッシュはどこかに人造人間らしさがあるが、しかしそれは徐々に曖昧になり、人間に近づくはずだ。
僕はもう一度、サリーダッシュの様子を見た。
そこにいるのは、僕とクロエスの娘だった。
ああ、クロエス、きみにも見せてあげたいよ。
「感慨に浸るのは後にしてくれ、イダサ」
リフヌガードの口出しは無視したかったけど、彼は僕の上官であり、絶対だった。
向き直るとリフヌガードは口元に笑みを浮かべている。
「お前には体術が足りないとよくわかった。しばらく巡回から外れて、剣術と体術を習ってくるといい」
「剣術と、体術?」
そうだ、とリフヌガードが頷く。そして皮肉げな顔に変わった。
「俺を少しは動揺させるくらいにはなってくれよ」
先程の取っ組み合いのことを言っているのか。
僕がバツの悪い思いをしているそばで、サリーダッシュが口元を隠して小さく笑っていた。
(続く)