2-4 疾駆
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赤の隊の幕舎は移動のために最適化されているので、張るのも楽なら、撤収するのも楽な構造になっている。
まさに幕舎を畳んでいるところへ、ルルドが俺を呼びに来た。
「ファルス、隊長が呼んでいるよ」
了解、と応じて、仲間に声をかけてからカスミーユのための幕舎へ向かう。すぐそばでは女性隊員たちが自分たちの幕舎をまとめていた。
カスミーユのそばには常に二人の隊員がつき、この二人は赤の隊でも優れた使い手の二人である。側近、というよりは、副官、といったところで、馬術や武術、魔法に長けているだけではなく、事務仕事や経理などの責任者でもある。
その二人と協力して荷物をまとめ、幕舎を馬に背負わせていたカスミーユが俺に気づき、こちらへやってくる。
「ファルス、王都へ戻れ」
開口一番の言葉に、俺は「どのような訓練でしょうか」と即座に言葉を返すことができた。赤の隊は軍に限りなく近いため、質問を返していい場面は少ない。ただ、カスミーユはただ言いなりになる兵士を求めているわけではなく、考えること、相手に的確な問いかけを向けることを欲することがある。
この時のカスミーユがまさにそうだと、俺は感じたし、カスミーユも嫌そうな顔をせず、言葉を続けた。
「ベッテンコードという剣聖がいる。黒の隊の指揮官だ」
黒の隊、か。
この一年、赤の隊の中で実際的な訓練を積んできたけど、仲間たちとのやりとりで話題に再三、上がるのが黒の隊である。剣聖騎士団の中でも極端に武術に特化しているのが黒の隊であるという。赤の隊の隊員も武術を習うために黒の隊の指導を仰ぐのだ。
その黒の隊を統括する剣聖が、ベッテンコードという老境の剣士だと俺も噂では聞いている。
一対一で敗北することがない、無敵、不敗の使い手。
俺はこれまで、黒の隊の指導を受けたことはない。馬術を極める必要があったし、騎馬隊としての運動も身につけなければいけなかった。もちろん、短い期間で馬術を極めることは不可能だし、騎馬隊の一部として活動する技能もまだ怪しい。
いつかは俺にも武術を学ぶ機会があるだろうとは思っていたが、今がまさにその時のようだった。
感慨を感じながらも、頭の中では王都までの道のりとおおよその必要な時間を考えていた。カスミーユはこういう時、かなり厳しい日程を要求する傾向にある。訓練、調練の一環なのだろう。
「話は通してある。王都まで、三日もあればたどり着くだろう」
三日、という期限はやはりかなり厳しい。馬を疾駆させ続ければ確実に潰れてしまう。かといって、足を止めて休む余裕はなさそうだ。走ると歩くを繰り返し、なおかつ、休息は最低限、といった展開になりそうだと予想できた。
もし、赤の隊に放り込まれたばかりの俺だったら、難しいと思いますが、程度のことは言ったかもしれない。
でももう赤の隊の空気に馴染んでいる。反論も文句も疑問も、口にしようとは思わなかった。
「了解しました」
短い返事に、「今すぐ出発していい。装備は通常のままだ」と言葉を返して、カスミーユは自分の幕舎の撤収へ戻っていった。
すぐに行動しない理由はない。俺は仲間のところへ駆け戻り、簡潔に事情を話してから装備をまとめ、馬の元へ走った。馬は馬匹を担当するものが管理しているが、彼らもいきなりの行動には慣れている。俺の馬もすぐに用意されたし、携行する秣も用意される。
俺はすぐに鞍を乗せ、野営地を出た。
時刻はまだ昼前だが、指示された期日を守ることを第一に考えれば、時刻はもう気にする必要はない。移動するのみだ。気にするべきなのは馬の状態、体力になる。俺自身は三日の強行軍程度なら耐えられる自信があった。
俺の馬は実に軽快に走っていく。
すぐに街道へ出て、ひたすら駆ける。春のぬくもりに包まれている空気も、引き裂かれるとまだ冷たくもあった。
太陽は上がっていき、やがてゆっくりと下がってくる。俺は途中にある集落で頼んで水を分けてもらい、それから簡単な食事も手に入れた。干し肉を譲ってもらうことができたのは僥倖だった。歩きながらでも食べられるのがありがたい。
やがて夕日が遠くの稜線へ沈み、闇がやってくる。
月が空に上ると、周囲はうっすらと照らされる。夜空では雲の輪郭が浮かび上がって見えた。
やがて馬を休ませるために歩きながらの移動になる。馬は走らせようと思えばどこまでも走ると感じるほどに走る。しかし足を止めた途端に、息絶えてしまう。これを防ぐために、限界に達する前に走るのをやめ、歩かせる。歩いているのも馬には辛いだろうが、死ぬことはない。
夜の間、俺は先へ進み続けた。片手で手綱を引き、片手で薄く削いだ干し肉を口に運び、頭の中では道筋を思い描いていた。
赤の隊は機動力を十全に発揮するため、ソダリア王国の各地の地形を徹底的に覚えこむ。街道や間道はもちろん、山を越えるための峠、川を渡るための浅瀬も覚えることになる。
俺がいた野営地から王都への間には、川が一本、流れているのは間違いない。橋があるはずだ。街道を進めば、その橋を渡れる。浅瀬で渡渉できるところもあるが、逆に遠回りになりそうだった。
夜の間は星を見て方角を確認する。昼間は周囲の地形、遠くに見える山の稜線の形で判断する。科学者が作った方位を知ることができる装置があるそうだが、俺は見たことはなかった。なんでも手のひら程度の大きさで、針が常に北を向くように出来ているらしいが、実際にどんな形をしているかは想像もつかない。
方位を知ることは魔法の範疇の外だった。魔法でも方位を知る装置と同じ機能を再現できるか、とちょっと考えてみたこともあるが、それはそれこそ魔法学校高等科のような最高位の使い手の組織が存在している以上、魔法では再現不可能か、現在進行形で検証しているのだろう。もし可能なら、赤の隊が利用しない理由がない。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。
馬はなんとか俺についてきた。夜も昼も短く感じているのは、景色が刻々と変わっていくからだろう。
少しずつ街道は広くなり、人の姿も増える。やがて石畳の道はいくつかに区切られ、徒歩のものの道筋、馬車のための道筋、そして騎馬のための道に分かれる。騎馬のための道は平時は馬を使った通信事業者が多用する。もっとも、通信にまつわる仕事の大半は、国が関与しているが。
何も遮るもののない道筋を走ること半日、日が暮れる前に王都へたどり着いた。城郭の門は大きく開け放たれていて、目に飛び込んでくる王都の街並みには、胸を打つものがあった。
故郷へ帰ってきた、という思いに近いものがある。
さすがに王都の中では馬は曳くことになる。俺はまっすぐに前を見ているが、馬の方は周囲が気になって仕方がないようだ。何度か首筋を撫でてやった。危険はないとそれで伝わったはずだ。
剣聖府、剣司館が見えてくる。厩舎が併設されているので、馬はそこに預けられる。世話をするものも常駐しているし、もちろん替えの馬も必要な場面に備えて用意されている。この馬は定期的に走らせて状態を維持する必要があるはずで、ただ餌と水をあげていればいい、などということはないはずだ。
剣司館の入り口に、一人の人物が立っているのが見えた。
年齢は、まだ若い。二十代だろう。黒い装束をまとい、腰に剣が見えた。
俺がその前に進み出ると彼は一礼した。
「赤の隊のファルス殿ですね? 黒の隊のルーカスです」
名乗りに、「赤の隊のファルスです。稽古をつけていただけるとのこと、ありがたく存じます」とこちらも頭を下げる。
ルーカスはわずかに口元に笑みを見せると、「剣聖様がお待ちです」と言った。
いきなりじゃないか。しかし不快でもない。カスミーユにもそういうところがある。
馬を厩舎に預けるつもりだったが、見えないところに控えていたらしい、馬匹を受け持つ男が駆け寄ってきた。
俺は馬の首筋を何度か撫でて、額を押し付けてから、馬を預けた。
何も言わずに待っていたルーカスは優しげな、穏やかな顔で俺を促した。
剣聖ベッテンコード、どのような人物なのだろう?
(続く)




