2-3 侯爵
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剣聖府の建物、剣司館は静かだった。
僕がここを出てからやっぱり一年以上が過ぎているのだけど、懐かしいと感じるほどの時間を過ごしていないので、どこか新鮮に映る。
ミューラーと一緒に緑の隊の事務室に入ると、事務員のジーニャと、見知らぬ男性が話をしていた。
男性は年の頃は四十といったところだけど、いやに痩せていて、頬にくっきりと影が落ちているし、目が落ち窪んで見えた。服装はいかにも官僚だけど、働きすぎを自然と連想させる。ただ髪の毛は輝くような美しい銀髪で、ひとつに結んで背中へ流しているのが派手である。
彼を見てミューラーが一礼する。
「侯爵様、お久しぶりです」
侯爵、というミューラーの言葉に、慌てて僕も頭を下げる。いや、膝を折るべきかもしれない。しかし、ミューラーは立ったまま礼をしている。僕も同じことをしても、問題ない、はずだ。
男性は鷹揚に頷くと、「ミューラーか。久しいな。そちらは?」と僕の方へ視線をやった。
「イダサと申します」
名乗ると、うん、とだけ男性は頷いた。その声が掠れていたので、少し不安になる。容貌からして、頼りないというか、虚弱の印象が強い。
「剣聖様の診察を受けに来られたのですか?」
まるで僕と同じ疑問を持ったようで、ミューラーがさりげない口調で確認した。
「いいや、これでも健康体だ。ここへは仕事で寄っただけだ。これから黒の隊にも行かねばならん」
ああ、とミューラーが納得する声を漏らした。
「予算編成の時期ですか。どうか、剣聖様のために、お力を貸してください」
慇懃無礼にも思えるミューラーに侯爵は笑って応じる。
「ここにいる連中は、予算の獲得の手順と苦労を知らんようだな。私に楽をさせようと考えるものはいないらしい」
それがどうやら、男性なりの冗談のようだった。
事務員のジーニャに「では、件の報告書をなるべく早く用意してくれ」と声をかけると、事務員の一礼に身振りで応じて僕たちの横を抜けていった。ミューラーが頭を下げるのに、僕も倣う。
扉が閉まる音の後、僕はミューラーに確認していた。
「だいぶ体調が悪そうに見えましたね」
「いつものことだよ。あのお方はいつもあんな様子だ。気にしないでいい」
おっと、男性の体調の前に名前を聞いておくべきだった。
「あのお方の名前を存じ上げないのですが」
「そうか、イダサは初めて会ったか。あの方は、ルッツ・フォン・トゥーロン侯爵だ。財務司補佐という役職に就いておられる。ソダリア王国の国庫の管理をされている方々のお一人だ」
なるほど、予算編成とは、そういう意味か。
「剣聖の方々は、あの方を非常に頼りにしておられる。あのような姿をされているが、官僚たちを動かすのに長けておられて、剣聖府の予算が今の形になっているのもトゥーロン侯爵の働きがあるからだ」
僕はもう一度、扉の方を見ていた。
剣聖府の予算がどれほどかは知らないが、剣聖府という組織は実に恵まれていると僕は感じていた。それは緑の隊の中だけでも、各地への巡回に必要な経費は潤沢に用意されているし、制限はない。もちろん、各隊員が贅沢をすることはないが、医薬品や宿泊費、食費、日用品まで、全てを剣聖府が支出する。他の隊でも、例えば赤の隊では馬は全て剣聖府が用意し、馬具の類から餌まで、全部が剣聖府の予算で賄われるはずだ。
剣聖府という組織は、実働部隊は一隊三十名程度で、それが四隊という規模としてはかなり小さいほうだ。事務員などを含めると二百名ほどだろう。どれほどの予算が用意されているかは知らないけど、二百名というのは一軍を形成する四千人、つまり四個大隊の中の一個大隊を形成する五個中隊のうちの一中隊規模で、うーん、比較すると剣聖府はだいぶ恵まれているかもしれない。
「我々があまりにも負担をかけすぎて、あのようなお顔かもしれんな」
ミューラーの冗談に、僕は笑うに笑えなかった。
ともかく予定通りにジーニャにまず短い書類を提出し、彼女からは報告書の提出を求めらえた。これは規則の通りだ。緑の隊では巡回の間にあったことを逐次まとめることが求められるが、その無数の報告書と同時に、総括した報告書を書く必要がある。
僕は頭の中で、報告書の内容をぼんやりと考えていたが、「イダサさん」と声を向けられ、ジーニャに意識を戻した。怜悧にも見える顔立ちの事務員は、淡々と温度のないような声で言った。
「リフヌガード様が、帰還したら出頭するようにとのことでした」
「剣聖様が? 今は、どちらに?」
「ここのところは、剣聖府におられるようです。研究室か、実験室でしょう」
研究室も実験室もいくつか用意されて、常に研究者がそれぞれの仕事をしている。ちなみに僕が片付けた例の部屋は資料室で、資料室も一つではない。
「わかりました、探します」
お願いします、と頷いてジーニャは元の仕事へ戻っていった。彼女は感情を覗かせないところがある。しかし事務仕事をさばくのに技能を発揮して、一人で三人分の仕事をする、という印象から「六本腕」なんて呼ばれることもある。
仕事の邪魔をしないように廊下へ出た僕たちは、その場で別れた。ミューラーはミューラーで報告書を用意するのだ。
さて、リフヌガードはどこにいるのか。
一番近い第三研究室へ入ってみると、顔を知っている若い科学者が何かの装置をいじっていた。機械のようだが、何のための機械かは不明。彼は僕を見ると、「ちょっと見てくれ」と開口一番に行って、その金属製の箱のようなものを操作した。
つまみのようなものが捻られ、すぐに箱の上の切れ込みに科学者が机の上に何枚も用意していた薄く切ったパンを差し込む。
パン……?
つまみがバネになっているのか、ゆっくりと元の位置へ戻って行く間、二人ともが無言だった。そして音もなくつまみが停止し、よし、という声とともに科学者が箱の側面にある別のつまみをぐっと上に引き上げた。
すると上の切れ込みから、パンが持ち上がる。
持ち上がったパンは、どうやら薄っすらと焦げ目が付いているようだ。僕が目を丸くする前で、科学者がパンを仔細に見物している。
「自動パン焼き器だ。試作品だけど」
科学者の言葉に、へぇ、としか言えなかった。
用件を伝えよう。
「リフヌガード様はどちらにいるか、知りませんか?」
「剣聖様? 第一実験室じゃないかな。それはそうと、パンを持っていくかい?」
断るのも悪いかな、と僕はパンを受け取った。ほのかに暖かい。
面白い装置もあるものだ。
礼を言って廊下に出て、剣聖府の奥へと進んでいく。
何人かの緑の隊に所属する研究者たちとすれ違い、挨拶を交わして、そのまま第一実験室の扉の前にたどり着いた。軽く叩き、声をかける。
「イダサです」
扉の向こうから、「入ってきなさい」と確かにリフヌガードの声がした。
僕は扉を押し開けた。
その時、鼻先に懐かしい匂いが掠めていったのを、確かに感じた。
いつか、王都から去っていいた懐かしい友人の顔が、反射的に脳裏をよぎっていた。
(続く)




