2-1 旅
第二章 血と死に塗れて
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僕と相方は揃って民家を出た。
ソダリア王国の王都にほど近い集落で、集落一つが熱病の流行に見舞われている、という通報を受け、王都への帰り道で寄ったのだ。
街道からも間道からも外れた集落は五軒ほどの小さなもので、周囲は耕作地に囲まれている。時期は春になろうかという頃で、畑はとりあえずは耕され、種も蒔かれていたのだろう、緑がちらほらと見えた。しかしいかにも不規則で、人の手が入っていないことが見て取れた。
「経過観察は五日は欲しいな」
そう言った相方であるミューラーは、年の頃は四十歳をいくらか超えていて、いつも困ったような顔をしているが、そういう顔の作りである。その顔のせいで患者が不安になることも多いが、笑うと一転して柔和すぎるほど柔和に変わる。
ミューラーも剣聖騎士団の緑の隊の一員である。
すでに周囲は夜の闇に包まれ、僕とミューラーは月明かりの中にいる。五軒の家、というか、小屋からはほのかに明かりが漏れている。数日前まではひっそりとして、まるで廃墟だったのだからだいぶマシになった。
僕とミューラーは緑の隊の任務として、ここ一年と少し、王国の各地を転々とした。緑の隊の本部から指示がくるので、それに従うのだ。主にソダリア王国の東部を受け持って巡り歩き、様々な患者を治療した。
駐屯している地方軍に手を貸すこともあれば、今のように噂などを聞きつけて、伝染病や流行病に対処することもある。
そんな生活をしているので先を急いで宿場などを無視して、大抵は自分たちで幕を張って夜露や雨風を凌ぐことになる。この時も、集落の外れに幕を張り、そこで寝起きしていた。
食料も自分たちで用意するのが常だ。手元にある食料のことを考えながら、僕はミューラーとともに幕の方へ進んだ。月明かりが綺麗だ。季節は春になろうとしている。凍えそうな夜も減ってきた。この夜も穏やかなようだ。
「畑がダメになる前に来れて良かった」
しみじみとしたミューラーの言葉に、まったくです、と僕も頷く。
病で人が倒れた時、まず第一にその病人を救うことを考える。第二に考えることが、病人が回復した後の生活だった。動けない病人は収入を失う。もし回復してまた仕事に戻れるならいいが、農作業などは休んでいる期間の農地の管理の不足から、結果が悲惨なことになることがままある。収穫が減れば、税を払うだけで飢えを覚悟しなければいけなくなることもあるのだ。
緑の隊では、救済として税の減免を王都の政に求めることもできるが、僕が旅をした間で、税の減免が実行されたことは一度もなかった。
はっきり言って、ソダリア王国はある場面では非情である。一方で、緑の隊が各地で活動する資金は剣聖府の予算であり、それはソダリア王国が用意しているので、つまりまったくの非情ではないとも見える。
緑の隊の活動はいずれ起こる動乱のための投資かもしれないけど、善意でもあるのだと思いたい。
僕はミューラーに自分たちの仕事について、何度か訊ねた。
ミューラーはいつでも「剣聖様を助けるのが仕事だ」という趣旨のことを口にする。その点では、ミューラーという人物は兵士に近い。指揮官に服従し、その指示には疑いを挟まない。一つの装置のように言われたことを行う。
僕がそこまで達観できないのは経験不足だろうか。世間を知らないからだろうか。
この疑問に答えてくれる人はいない。
自分で答えを探すしかなかった。至難だとしても。
それから数日、名前も知らない集落で僕とミューラーは熱病の患者を看病し、薬も用意し、医療活動を続けた。
僕とミューラーは五日の追加滞在で切り上げた。僕の目から見ても集落の人々はおおよそ回復し、あとは自然と快癒しそうに見えたこともある。僕とミューラーで病の発生源になる糞尿の処分の仕方などを簡単に伝え、僕たちはよく晴れた朝、集落を出た。
馬の扱いにもだいぶ慣れた。赤の隊で受けた訓練は一年以上が過ぎた今でも役立っている。そこはミューラーも剣聖騎士団の一員で馬術にも通じているので、ともすると僕は引き離されそうにもなったけど、ここまではくっついてくることができた。
王都への帰還命令を受け取って、すでに三週間が過ぎている。帰還する期日は決められていなかったけど、別の指令があったとはいえ、帰還の書状を受け取った地点から王都まではおおよそ二週間の距離だったのが、集落での治療に一週間ほどを取られ、その分の遅れがあった。
遅れを取り戻すように、ミューラーは馬を駆けさせている。僕もそれについていく。
一年ぶりに王都に戻ることに、不思議な緊張があった。
長い任務の中で王都のことはすっかり忘れてしまった。老師のことも、姿を消した友人の背中も、遠い過去になったような気がする。もう僕とは関係ないような気さえする。そういう意味では、僕は剣聖騎士団という組織の一部に完全に馴染んでいるということだ。
馬を疾駆から並み足にし、場合によっては曳いて歩き、また疾駆させる。雨の日でも馬を走らせたのは、ミューラーの判断だった。僕は呑気について行っているだけで、ミューラーは先任者として僕を指導する立場を受け入れ、決断を下している。
そう、この一年は、未だに指導を受ける立場だった。
ありとあらゆる病、ありとあらゆる怪我を見た気がする。患者もそれぞれだった。威勢のいいもの、不安に駆られているもの。医者に協力的なものと、否定的なもの。回復した後に感謝するものと、さも当然としているもの。
そして、命を失った肉体と、それにすがって泣く人たち。
僕が変化したのも、必然かもしれなかった。
この一年に起こったことは、容易ではなく、何より衝撃の連続だった。
僕は王都以外の場所、世界の一端を覗いたのかもしれない。
王都へ駆けて月明かりに照らされた丘へ上がった時、遠くの地面が光っているのが見えた。
あれは、王都か。
王都の夜の眩しさが、夜空まで届きそうだった。
ミューラーはあと一息というように、馬を丘から駆け下りさせた。僕もそれについていく。
王都への帰還は、早朝になった。
懐かしい空気と一緒に、違和感が僕の中に生じた理由は、僕自身にもわからなかった。
(続く)