1-13 決意
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裸馬がこんなに馴染むとは。
驚きながらも、必死にそれを隠しながら俺は姿勢を安定させていた。
「どうでしょう」
そう声をかけたのはルルドで、向けられた相手はカスミーユだった。
剣聖は実に不満そうな顔つきで、「鞍を付けさせてやれ」と短く言うと、自分の幕舎の方へ引き返していった。
やったぞ、これで合格ということだ。
俺は馬から降りて、その首筋を撫でてやる。自然と感謝する思いになり、額を馬の首筋に押し当てさえした。言葉による意思疎通はできないが、触れ合うことで理解しあうことはできるようだ。
俺のための鞍が用意され、これまでの訓練の間、俺を振り落とし、最後には受け入れた馬にそれを手ずから載せてみた。
鞍があると安定はかなり増す。馬も楽そうだ。
「ちょっと遠駆けに行こう」
珍しくルルドの方からそんな風に誘ってきた。承諾しない理由はない。馬に乗れるようになったとはいえ、遠駆けの経験はない。野営地から少し離れただけのところでずっと訓練をしていたので、疾駆なんて夢のまた夢だった。
ルルドが自分の馬を用意してくる。前は意識しなかったが、俺が乗っている馬とはまるで体格が違う。ルルドの巨体に釣り合う、立派な馬だった。その点では、カスミーユは細身だが、馬の体躯はひと回りもふた回りも大きいのではないか。
剣聖という立場、もしくは指揮官という立場で、優れた馬が当てられているのかもしれない。
「さ、行こう。ついて来ればいい」
ルルドが馬を歩かせ、並み足からすぐに駆け足、さらに疾駆へと移っていく。彼が馬の背筋に沿うようにぐっと前傾姿勢になったのを真似して、俺も体を倒す。調教されているからだろう、俺の乗っている馬もものすごい勢いを駆け始める。
周囲にはこれといった目印もないが、全てがどんどん後方へ流れ去っていく景色は、背筋が冷える。もしこの勢いで振り落とされると、重大な傷を負いそうだった。もう野営地にイダサはいない。怪我は避けたかった。
もっとも馬が僕を振り落とす理由はない。
信頼関係はもう揺るがないはずだ。
どれくらいを走り続けたか、不意にルルドが姿勢を戻し、丘の上へと馬を進ませていく。頂上で、ルルドが止まって馬から降りた。俺も馬に丘を駆け上がらせて、素早く馬を降りる。
馬の体から湯気が上がり、うっすらと汗をかいている。ルルドは馬に塩を舐めさせ、少しだけ秣を地面にまく。枯れ草と混ざったそれを馬が食み始めた。赤の隊の隊員の標準装備の一つが秣であり、一つが塩だ。塩は人間が舐めることもあれば、馬に舐めさせることもある。
ルルドが地面に腰を下ろし、馬を見守っている。俺は遠慮して離れていたが、「一緒に食おう」と彼が腰に吊るしていた包みを掲げるので、おずおずと彼の横に並んで腰を下ろした。
包みの中身は、牛乳を発酵させて作るというチーズというものだった。汗国が高級なチーズの主要な産地でそれはかなり高額で取引されるが、ソダリア王国の農場でもチーズは作られている。今、ルルドが手にしているのはどうやら自分で作ったようだ。形が奔放で、製品という様子ではないからそう思った。
チーズをルルドは腰の短剣で薄く切ると、こちらに差し出してくる。ありがとうございます、と受け取ってみると匂いが漂ってくる。野性味あふれる匂いだ。こんなに匂いが強いチーズはなかなかないだろう。
口に含んでみると、濃厚な味が広がった。
「美味いだろう?」
自分もチーズを口にしているルルドの言葉に「すごく美味しいです」と正直に答えていた。他に答えようがないほど、美味い。
「隊長は意外に美食家でね、数年前に隊員の中で料理の腕に自信のある奴を競わせたことがある」
笑い混じりにルルドが言葉を続ける。
「俺はそれにこのチーズで参加した。と言っても、あまり気合は入れなかったがね。親に教わったチーズ作りの基本的な知識に、適当な工夫をしただけだった。それが隊長のお気に召して、俺が赤の隊の旗手になった」
冗談だろう、とルルドの顔を見るが、彼は平然としている。
「事実ですか?」
そう確認すると、ルルドが頷く。
「親が農場で働いているのは本当だ。今も働いているよ。馬や羊、山羊を中心に、世話をするんだ。休みがないきつい仕事だよ。毎日毎日、動物の世話をする。平原を馬に乗って走り回ったし、場合によっては歩き続けることもある」
いや、そこの真相はあまり疑っていないのだけど。
「しかし、面白い仕事だよ。季節が変わると自然の景色が変わるというのは錯覚だ。景色は毎日、変わる。同じ牧草地を右往左往しているのに、その日、その時にしかその光景ははないんだ。面白いものだよ」
はあ、としか言えない俺だったが、何かを感じ取ったのか、ルルドが合点したような表情になった。
「俺は魔法学校で学んではいない。隊長が俺に魔法を仕込んだ。元々は、俺は馬匹の担当として引き抜かれたんだ。体が大きいから力仕事もできるだろう、というような理由だったと思うがね。その点では、ファルス、お前の方が赤の隊にはふさわしい」
思わぬ方向に話が転がり始めた。
俺の疑問を察知したのか、ルルドは言い含めるように言葉にした。
「赤の隊は魔法使いが馬に乗る、という発想でできている。馬で長距離を短い時間で移動し、少数の戦力ながら圧倒的な攻撃力、打撃力で敵を制圧する。不意打ち、奇襲が信条だが、同時に強力な力も持ち味だ」
機動力か。
俺が赤の隊の馬術の達人たちについていけるか、やや不安になった。
馬術の訓練を始めて、ほんの一ヶ月しか経っていない。裸馬で無理矢理に仕込まれた技術はまだまだ馬術とは言えないだろう。
「これから赤の隊で技術を高めろ。馬術に関しては最低限は身についたようだから」
そんなルルドの言葉に、俺は無言で頷いた。
剣聖騎士団、赤の隊から逃げ出したい、とはここのところ、思わなくなっていた。
馬は面白い。魔法とはまた違った面白さがある。棒を使った訓練はここのところ行われていないけれど、もしかしたら武術の訓練も面白いのかもしれない。
「明日から忙しくなるぞ、ファルス」
ルルドが短剣で切ったチーズをもう一枚、差し出してきた。
「明日から何があるんですか?」
「第一軍の騎馬隊との駆け合いにお前も参加するんだよ。おっと、無理だとは言うなよ。隊長は間違いなくお前を参加させる。俺の時もそうだった。まぁ、叩き落とされないように、気をつければいい。全てはそこからだ」
馬鹿な、と思ったけど、ルルドは大真面目だった。
俺は受け取ったチーズを持て余しながら、やっぱり逃げたいかも、と考えていた。
平原を冷たい風が吹き抜ける。
その冷たさでも吹き消せない熱が、自分の胸の中にあるのはわかった。
逃げたい、というのは、どうやら俺の本心ではないらしい。
やってやろう。そう思っているんだろう。
何にでもぶつかって、突破してやろう。
それがこの時の俺の決意であり、意志だった。
にわかに吹いたひときわ強い寒風にも、俺の心は揺らがなかった。
(続く)