1-10 空の下
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剣聖騎士団赤の隊の野営地に放り込まれて三日が過ぎた。
僕が治療した少年、ファルスと一緒に、赤の隊の一員であるルルドという男性の指導を受けた。
棒は持たなくていいからとルルドは僕に言って、しかしいきなり裸馬に乗せた。
僕はガチガチに緊張していたし、初体験だったので身構えざるをえなかったけど、馬は意外に大人しかった。暴れ回ったり、急に激しく動くこともない。
「冷静を心掛けろ」
僕が乗る馬のすぐ横に立つルルドが静かに言う。
「馬は乗っている人間の動揺や不安を如実に感じ取る。お互いを信頼する、というのはすぐには無理だが、敵ではない、ということを伝えればいい」
僕は返事もできない。両足で馬の胴体を挟むようにして、背筋を伸ばすので精一杯だ。身を低くすると軍馬として調教されているので、走り出しかねないという。馬上の人間が身を屈める時は、馬を疾駆させるときだと馬も知っているらしい。
というわけで、自分の体が不規則に揺れるのをぎこちなく制御しているうちに、なんとか馬から落ちずにいられるようになったのが三日目。ただ、それまでに何度も落馬したし、打ちつけていないところでも背筋や腹、太ももなどに激しい筋肉痛がある。不必要な力が入っているんだろうと推測できた。
僕が裸馬の上に体を落ち着け、太ももではさみつける力で馬を並み足で走らせるのは、自分でも信じられないことだった。馬に乗るというのはもっと難しく、専門的なものだと思っていた。
「よし、イダサ、もういいぞ。降りてくれ」
ルルドの言葉に僕は軽く馬の首を撫でてやってから地面へ降りた。もう一度、馬の首筋を撫でた。それだけのことで、馬は僕という人間を理解してくれる。人間などよりよほど素直で、善良なようにも思えた。
離れたところにいたファルスが、憮然とした顔で近づいてくると、僕に囁いた。
「どういう手品を使っているんだ? 魔法か? 錬金術か?」
「その質問には昨日も答えたけど、何もしていないよ」
ますます気に食わないという顔で、ルルドに呼ばれてファルスが馬の方へ行く。それだけでも馬が落ち着かなくなるのが見て取れた。
「首を撫でてあげるといいよ」
ファルスの背中に声をかけるが無反応。僕の助言など聞くものか、という反発があるのかもしれない。逆効果だったかな。
さっと、ファルスが馬に飛び乗る。
途端、馬がせわしなく足踏みを始め、首を左右に振る。ファルスは振り落とされないようにしているが、それさえも馬には不快なようだ。ルルドが危険を避けるためにわずかに距離を取った時、不意に馬が竿立ちになり、ファルスは短い悲鳴の尾を引いて地面に墜落した。
「ファルス!」
馬は少し離れたところに移動し、こちらを伺っている。僕とルルドは倒れているファルスのそばに屈み込んでいた。
危険な落ち方に見えたが、ファルスの意識はあった。しかし顔が歪み、すでに脂汗が滲んでいる。
「どこが痛む?」
僕の問いかけに、「右肩の下、背中だ」とかすれた声で返事があった。
我慢してくれよ、と声をかけて、上体を起こさせる。それだけでも激痛が走ったように見えたが、立派にもファルスは息を止めて声を飲み込んだ。
背中に触れてみる。違和感のある手応えに、背中にある骨が折れているようだとわかる。
骨折の治療にはコツがいるけれど、繰り返し老師に指導されたので、全く不安はなかった。
「少し耐えてくれ。気持ちが悪いと思うけど」
僕は服の上からファルスの背中に触れる。
錬金術には魔法のような発動に必要な段階はない。自分の中にある魔力を活性化させ、それを生命力に転化するのだ。施術者の生命力が相手の生命力と同期し、共鳴、増幅された時、常識を超える回復力が出現する。
この時も、僕は右手に自分の魔力を集め、生命力としてファルスの傷に流し込んだ。ファルスの生命力と波長が合っていく中で、ファルスの肉体が自然と自らの負傷を直そうとしている不規則さに気づく。その不規則さを整理し、調整するのも治療の一部だ。
やがて僕の力とファルスの力はピタリと重なり合い、そして本来的な治癒力以上の力へと膨れ上がっていく。
僕の手の下で、ファルスの皮膚の下の骨がかすかに蠢き始める。これが気持ち悪い感触だと僕は患者から聞かされている。自分の体の一部が一人でに動くのだから、不気味だろう。
骨が正しい位置に戻り、損傷していた筋肉なども元へ戻った。
治療にかかった時間はほんの十分ほどだった。ルルドはすぐそばで見ていて、馬さえも不思議そうに僕たちの様子を見ていた。
ファルスの背中から手を離し、僕は額の汗を訓練着の袖で拭った。
当のファルスはといえば、呼吸を整えて、右肩を回している。ちゃんと治ったらしい。良かった。
「少し休憩にしよう」
ルルドがそう言ってから、「飲み物をもらってくる」と馬の方へ行く。裸馬に乗って幕舎へ戻ろうということだろう。騎兵の馬の扱い方が見れる良い機会なので、僕は視線をルルドに注ぎ続けた。
巨漢は身軽に馬に跨り、一度、首筋を撫でてからどういう意思疎通を成立さえたのか、馬の向きを変え、駆け足で走り去った。やっぱり足の使い方なんだろうか。姿勢を安定させるのは馬との相性などではなく、純粋な体の構造、筋肉のつき方などのせいかもしれなかった。
「悪かったな」
不意に声がしたので、僕はそちらを見た。
地面に座り込んでいるファルスが不機嫌そうに僕を見ている。
「治療してもらえて、助かった」
「これくらいしかできないからね」
謙遜するな、とファルスは機嫌が悪そうだ。
ファルスとは話をする機会が多かったので、彼も魔法学校高等科の出身だと聞いている。
しかも五賢人の一人の指導を受けていたという。同じ魔法学校高等科でも、僕とは雲泥の差だ。僕を指導した教官は退官間近の冴えない老人だった。そこにいる生徒も、どこか遊び半分で魔法を学んでいるようだった。卒業先の進路は魔法とは全く関係ない職種が大半だったのだ。
ファルスが嬉しそうい五賢人の一人、教授の話をするので、僕は笑い混じりにそんな自分の経歴を打ち明けたのだ。するとファルスは眉をひそめ、「お前は腕のある錬金術士じゃないか」と確認してきた。僕は失敗したことを悟りながら、元はね、と答えるしかなかった。
その時にファルスの顔に浮かんだ感情はなんだったか、今でもわからない。
対抗心、と言ってもいいけど、そうでなければ、再認識、だったかもしれない。
ファルスは僕が並の魔法使いではなく、魔法使いでありながら錬金術の使い手でもある、という珍しい存在と認識したのではないか。
僕自身の感覚ではどっちつかずの半端者だけど、ファルスにはそう映らなかったのかもしれない。これは彼と初めて会った時、重傷の彼を僕が治療したことが大きく影響したのは否めない。
あの時の治療は、僕にとっては荷が重かったけど、他に頼れる者がいなかった。リフヌガードは僕より上手くやったかもしれないけど、あの時は全く手を出す気配も見せなかった。どういう理由かは不明で、僕を試したと勝手に解釈している。
いずれにせよ、ファルスは僕の錬金術士としての手練を実際に体験している。
派手にやりすぎたかな、とも思うけど、あの時のファルスの状態は放っておけなかった。
ともかく、僕とファルスの関係は、やや複雑だった。
どちらも剣聖府に参加して間もない新人で、どちらも兵隊上がりではなく、片方は魔法使いの期待の星、片方は半端な錬金術士で、剣を握ったこともなければ、馬に乗ったこともない。
共通しない部分があるが、共通する部分は意外に多かった。
「イダサは秘密に訓練しているのか?」
遠くを見ながらファルスが言う。彼の視線の先を追ってみたけど、冬間近の原野しか見えない。はるか遠くに山の輪郭が影となってうっすら見えた。
「訓練はしていないよ」
「なら、どうしてあんなに器用に乗れるんだ?」
問いかけに答える言葉がないのは、僕がただ必死で、直感のままに動いているからだ。
「教えろよ」
「あまり考えてないんだけど……」
「ケチだなぁ。錬金術を使っているんだな?」
「そんな器用なことはできないよ。むしろ魔法の方が向いていると思うけど」
精神操作魔法は難しいんだぞ、とファルスが物騒なことを言う。
僕が苦笑いしていると、ファルスが天を仰いで息を吐いた。
「こんなところで、馬に振り落とされてのたうち回っているとは、教授が知ったら笑われる」
僕はどうとも答えられなかった。
僕を笑ってくれる人はどこにいるだろう。老師は、もう僕の顔も見たくないだろう。友人も今はいない。会うことはおそらく、二度とない。
ファルスの何かを羨ましく思いながら、僕もやっぱり天を仰いでいた。
冬の空は高い。
全てを飲み込みそうなほどの一面の青に、僕もファルス同様、息を吐いたのだった。
(続く)




