1-6 一撃
◆
カル・カラ島がどういう島か、僕はよく知らないけど、クロエスの館は山の中腹に建てられている。傾斜をそのまま利用しているので、建物自体が斜めになっていて、上から見ると四角形だろうけど、やたらと階段が多い。
その上で三階建てになっており、四つの角に当たる部分には尖塔が設けられている。
僕は今はそのうちの一つに部屋を与えられていて、そうと理解した時はちょっとびっくりしたものだ。
クロエスは「あまり見晴らしは良くないけど」と言ったけど、高級そうな板ガラスがはめ込まれた窓からは、海がわずかに見える。
そう、海だ。館の外の島、その島より外へ通じている海なのだ。
小さく見える海でも、僕にはそれが可能性に見えた。それも無限大の可能性に。
ベッテンコードも尖塔の中の一室を与えられているという話だけど、僕はこれまで訪ねるどころか、そこに通じる螺旋階段の一段目すら踏んでいないし、その階段を前にもしなかった。
最初に会った時の印象が最悪だからかもしれないけど、どうしてか、あの老人が、怖い。
あの食堂で、僕を投げ飛ばして床へ叩きつけた後、胸を強く踏みつけられた。
ベッテンコードが去って行ってからクロエスが教えてくれた。あれは活を入れてくれたのだと。だいぶ乱暴で、危険で、非常識なやり方ではあったけど、と言葉を付け加えたけど。
乱暴、危険、非常識、どれか一つだけでもだいぶ悪質じゃないか? とは思う僕だけど、黙っておいた。
いずれにせよ、どういう理由、意図だろうと、あんなことがあっては好印象を持てるわけもない。
しかしさすがにクロエスが誘ってくれたのだから、好機でもあった。クロエスがいれば、デタラメなことはできないだろう、という打算でもある。
僕はクロエスに続いて螺旋階段を上がり、あっという間に突き当たりの扉に着いた。薄暗いけれど、クロエスは階段を迷いなく上がっていった。僕の方が危うく足をもつれさせるほど、光量は弱かった。
そっと扉を叩いて、「ベッテンコードさん、入りますよ」と断って、クロエスが扉を開ける。
その時の様子は、光が押し寄せてくるようだった。
思わず、うわぁ、と声が漏れていた。
屋敷で一番高い位置にある尖塔の窓の向こうの光景は、僕の部屋とはまるで違う。
海が水平線まで続くのが見て取れた。
光の強さも、太陽が近いのか海が光を反射するのかと、そんな連想をするほど鮮烈だった。
「なんだ、何の見物に来た」
声の主の方を見ると、僕が見惚れてしまった光景に背中を向けるようにして、老人は椅子に座り、書籍を開いていた。この部屋にはちゃんと家具が揃っている。
クロエスが進み出ていくのに、僕はまだ圧倒されながらついていった。
「ええ、ベッテンコードさん、あなたが剣聖だということを、アルカディオに教えてあげて欲しいんですよ」
「証明したはずだ。最初にな」
取りつく島もないベッテンコードの言葉の内容を考えると、つまり、最初に僕を投げ飛ばした時のことを言っているんだろう。
あれだけのことで、証明になるだろうか。
ここ数日に学習した断片的な情報によれば、剣聖というのは剣術に長けるだけではなく、体術にも馬術にも通じ、その上で魔法にも高い適性があるはずだった。
目の前にいる老人は、今はどこか眠そうな顔をして、しかし不機嫌そうでもあるけど、とても万能の戦闘能力を持っているようには見えない。縁側に座っている老人という趣でもある。あれ? これはどこからの知識だろう?
「あなたから剣聖について、アルカディオに教えてあげてもらえますか」
食いさがる形のクロエスに、「知らん」とベッテンコードは短くはねつけた。
しかしそれはクロエスの計算のうちだったようだ。
「今のままでは、あなたは逃亡者で、ここで身を潜めてのんびり余生を送っている、元剣聖を名乗る老人、となりますよ」
「誰がなんと言おうと構わんよ。それにおおよそ事実だ」
案外、簡単にベッテンコードは誹謗中傷をやり過ごした。どうやらクロエスとベッテンコードでは経験に差がありすぎるようだ。クロエスは劣勢だったが、食い下がった。
「まぁ、本当の逃亡者である僕が言うのもなんですが、少しは本気になってくださいよ、ベッテンコードさん。僕の研究が間違っているのかいないのか、成功したのか失敗したのか、何もわからないじゃないですか」
「では、わしがその小僧の首をはねてみようか?」
それは一瞬だった。
椅子に座っていた痩せた体が跳ねたと思った次には直立していた。
信じられない。
見落としてなんていないはずなのに、まるで動作が見えなかった。
「ちょ、ベッテンコードさん!」
咄嗟にだろう、クロエスが僕の前に立った。
立ったはずだ。
ベッテンコードの体が、僕とクロエスの間にある。
どうやってそこに立った?
まっすぐに踏み込んだわけじゃない?
そうだ。
僕は知っている。
反射的に首を手で守った。
その上に老人の手刀が食い込む。
驚嘆するのがだいぶ後になってからになる、という経験を僕はした。
僕の左手首と肘の間を、奇妙な感触が横切り、腕が唐突に軽くなった。
次には首に衝撃。
体を逃したのは、本能だった。
生物としての本能か、別の本能かはわからない。
足が床を離れ、体が激しく転がり、壁にぶつかった。
窓ガラスのすぐ下の壁に頭がぶつかり、よかった、ガラスを割らずに済んだ、と思った時にはもう意識が薄れていくところだった。
「何をするんです!」
クロエスの声が遠くで聞こえる。ベッテンコードの返事はかろうじて聞こえた。
「どうせ死なんのだろう?」
死なない……?
クロエスが何か答えているけど、それはさっぱり聞こえなかった。
体が冷え、凍りついていく。
僕は急速に意識を失った。
遠くで何かが鳴いているのが最後に聞こえた気がした。
地鳴りと聞き間違えそうな咆哮だったように思うけど、何の咆哮だっただろう。
(続く)