1-9 二人
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遠くで誰かが呼びかけている。
俺の意識はあやふやで、その呼びかけも最初はぼんやりとした音にしか聞こえなかった。銅鑼がなっているようでもあり、水滴が水面を打っているようでもあった。
それが徐々に鮮明になり、もし、もし、という声に聞こえた。そんな上品な言葉遣いの奴がどこにいたか。少なくともカスミーユではない。間違いない。ルルドかもしれない。それにしては線の細い声だが……。
「大丈夫ですか!」
急な大声に目が開いていた。
見えない。いや、少しずつ像を結んできた。
見たこともない男が俺の顔を覗き込んでいた。やや血の気が引いた顔をしていたが、その表情に安堵が浮かぶ。まるで死体が生き返ってホッとしているようだ。
俺は思わず呻き、起き上がろうとした。手足に不自然な痺れがある。
記憶も蘇ってきた。馬に乗る訓練をさせられていた。ルルドの他に二人、赤の隊の男がいて見守っていた。正確に表現すれば、見物していた、ということだが。
俺は例の如く、馬から投げ出されたのだ。それが最後の光景だった。
どういう方針なのか、それともさりげない虐待なのか、俺はいい加減、裸馬に乗せられていた。それも決して気性の大人しい馬ではない。
首筋に強烈な衝撃が走り、それで気を失ったはずだが、嫌な感じに手足の感覚が失われた気もする。
念のために両手足の感覚を確かめてみる。動く。動くが、どこかおかしい。
「ちょっと待ってくださいね」
まだ俺の様子を見ていた男が、僕の額に手を置く。ひんやりとした温度だった。
その冷たさに、ほのかな温もりが宿り、男は目をつむって集中し始めた。俺としては、こいつは誰だ? という思いなのだが、言葉にはしなかった。
温もりが頭の中に染み入ってくるような感覚があった。
ああ、と男が不意に声を漏らし、手のひらを離す。熱も自然と引いていった。その温度を意識している俺に男が笑みを見せる。元から優男と言っていい顔つきだったのが、より一層、優しげになる。兵士という感じではない。どちらかといえば医者のような顔だ。
「首筋を痛めていますね。少し痛むかもしれませんが、失礼します」
言うなり、彼がぐっと俺の首の後ろに手を差し込んだ。
唸り声で済ませたのを褒めて欲しいほど、鋭い痛みが背筋を走り抜けていた。
男は構う様子もなく、また目を閉じた。首に触れる手のひらから温もりが入り込んでくる。今度はその暖かさが首筋から背中を抜けていく。やがて、両手足の先までそれは行き渡った。
心地よさを感じる俺とは別に、謎の男の方は額に汗を浮かせながら強く目をつむっていた。歯を食いしばっているようでもある。
少しずつ理解が追いついた。こいつは兵士ではなく、医者だ。ただの医者ではなく、錬金術士の類だろう。いつも世話になっている医者とは違うが、腕は悪くなさそうだ。実感としてそう思える。
温もりが脈動を始め、俺の体から不快な冷たさは消え、血流が良くなっているように思えた。血管の細部まで、綺麗に掃除されているようだ。
フッと男が息を吐き、ゆっくりと首筋から手を離した。
俺の体からは痛みが少しも残さず消えていた。男が額の汗を手の甲で拭い、姿勢を元に戻す。ただ、いかにも疲れていたし、痩せているようにさえ見えた。
俺は慎重に体を起こし、自分の状態を確認した。痛みはない。不快感もない。疲労さえも消えているような気がした。完全なる健康体だ。
「どこか違和感はありますか」
男の方からそう確認してきたが、俺は「いや」としか答えられない。
軍属の医者の治療よりも丁寧で、徹底していた。何度も治療を受けたが、ここまで快復したことはなかった。常にどこかに痛みが残り、重さがあったものだ。
よかった、と男が笑った次に、その体が横に吹っ飛んでいた。
男が奇声を上げながら地面に転がり、泥まみれになりながら起き上がる。
男を蹴りつけたのはカスミーユだった。いつからそこにいたのか、さっぱり気づかなかった。
彼女の罵声が解放される。
「医者になりたいなら他所へ行け。ここは赤の隊だぞ」
しかし、と地面で起き上がった男が勇敢にも反論しようとしたが、「イダサ」とカスミーユの後ろにいる男、緑のローブの男が声を発したので、イダサというらしい俺を治療した男の言葉は飲み込まれた。
鼻で笑ったカスミーユが、良いだろう、と横柄に頷くと、緑のローブの男を振り返った。
「五日は面倒を見てやる。それでそれなりに使える奴になるか、そうでなければ死体になるだろう。構わないな?」
いいよ、と緑のローブの男が答えた時、イダサは絶望したような顔に変わっていた。
それからカスミーユと緑のローブの男が短くやり取りし、カスミーユは俺に「そこの男に規則を教えてやれ」と言って、幕舎の中に戻っていった。緑のローブの男は、「また会おう」などと言って手を振ると、一人で離れていった。野営地を出ていくつもりらしい。すでに日が暮れかかっているが、気にも留めていないようだった。
とにかく、俺はイダサとかいう男に歩み寄った。立ち上がってみると、イダサは俺よりも上背があった。やや不服だが、ここでは俺が先輩だ。年齢はもちろん俺の方が下だが、大きな顔をしても構うまい。
「俺はファルス。あんたはイダサっていうのか?」
「そう。イダサです。よろしくお願いします、ファルスさん」
笑顔がどこか強張っているのは俺の責任ではあるまい。
俺と同じような境遇の奴がいるのだなぁ、と変に感心する俺だった。
(続く)