1-5 無力
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地面に投げ出されて動かない俺を、連中は愉快そうに笑っていた。手を叩いたり、指笛を吹く奴もいる。
不愉快なことに、俺を振り落とした馬が、当の俺の頭をかじってさえいた。
「天才という触れ込みだったが」
声が降ってくる。カスミーユの声だ。
しかしみっともない姿勢のまま俺が動けないのは、全身の打撲のせいだ。裸馬に乗せられ、十回以上振り落とされて地面に衝突を繰り返せば誰でもそうなる。
「意外に軟弱だな」
くそったれめ。
口の中で罵りながら、どうにか顔を上げ、上体を起こす。
怒りが爆発したのは、俺を助けるでもなく、むしろ不愉快そうに腕組みしているカスミーユが目に入った瞬間だった。
魔力が沸騰し、俺の周囲で無数の火花が散る。
魔法の三大原則というものがある。
一つは魔力。これは個人の体内に存在する力である。魔力がないものは魔法を行使できない。
一つに制御力。魔力を、そして魔法を制御する能力。
一つに、発動力。どんな魔法でも、発動力を始発点とする。
発動力にはそれぞれの使い手のきっかけが設定される。あるものは杖を握り、あるものは術句などというものを唱える。
俺の発動力は何か。
存在しない。
無視できるのが俺の強みだった。
だからこの時も、本能ままに俺の中の魔力は練上げられ、何の段階も踏まず、いきなり発動した。
何もない虚空で紫電が瞬いた次には、それが火炎へと変じる。
制御力は、徹底的な訓練の結果、無意識下でも失われることはない。
火炎は四つの帯となり、カスミーユに殺到した。
殺到し。
爆ぜて。
消滅した。
俺は内心で愕然としつつ、声をあげていた。魔法の消滅から遡り、俺の制御力が破綻したダメージが俺を襲い、さらに魔力がごっそりと失われたために起こる反動は、今までに感じたことのない激痛だった。
激しい火花が残滓として飛び散る中で、カスミーユはまだ憮然としていた。何事もなかったように、自分が何もしなかったように、腕を組み、冷ややかな眼差しで痛みに震えを抑えきれない俺を見下ろしていた。
「いきなり指揮官に魔法をぶつける奴がいるか。営倉に入れるなどという手順を踏まず、処断されるような行動だぞ。もっとも、あの程度の火炎で私が死ぬわけもないが」
周囲にいる連中が小さく笑いを漏らす。
剣聖とは、これほどか。
俺はまだ両手足の先に激しい痺れを感じながら、自分の中に今までなかった感情があるのを理解した。
これを人は、恐怖というのだろう。
「諸君」
不意にカスミーユが周りにいる連中を見回した。
「この少年は魔法学校高等科に在籍している学生だ。手を抜く理由にはならないが、初心者なのはどうしようもない。丁寧に我々の流儀を教えてやってくれ」
了解です、と彼らが声を合わせる。
「ま、待ってくれ」
俺はやっと声にした。カスミーユが、まだ話があるのか、というようなうざったそうな動作で俺を見る。
「新入りだからと言って、なんでも教えてもらえると思うなよ?」
「いえ、一つだけ、教えて下さい」
彼女の背後に控えるひときわ体が大きな男、この時も片手に旗を掲げている男が一歩、踏み出した。それをさっと腕を横に伸ばしてカスミーユが静止した。
「一つだな。言ってみろ」
剣聖の言葉に、俺は知らず、唾を飲んだ。
言葉が震えなかっただけでも上出来た。
「俺はどういう立場で、ここにいるのですか。ただ召集されただけで、何をさせられるのか、何も知りません」
そんなことか、と言いたげに、カスミーユは鼻で笑った。
「剣聖騎士団がお前に助言者になって欲しいと考えると思うか? 例えば、お前に馬匹をさせるとか、事務員をさせると思うか?」
まったく思わない。
でもそれを言えば、俺を手元に招く理由が思い当たらない。俺だって馬匹や事務員、清掃係、料理人になるわけないとはわかる。では、どんな可能性がある?
俺が見据えていると、カスミーユはまた鼻を鳴らした。
「お前には剣聖騎士団の赤の隊に加わってもらう」
「いえ、ですから、何をすればいいのですか?」
「団員になれ、ということだ」
団員……。
「どういう仕事をするのですか」
間抜けめ、とカスミーユが呟き、旗手の男の方を見ると「こんなに察しが悪い奴がいるか」と声をかけた。いませんな、と男が野太い声で答えると、他の連中も笑う。
俺はやっと立ち上がることができた。カスミーユが俺を睨みつけ、短く言った。
「お前には赤の隊の隊員をやってもらう。裏方ではない、実戦部隊だ」
実践、じゃないのか、とまず思った。実戦、それはつまり……言葉のまま、団員だった。
「俺に剣を取れということですか?」
思わずそう声を向けるとカスミーユが氷点下の眼差しで俺を見据えた。本能的に一歩、足を引いてしまい、そのまま膝を折りたい衝動に駆られた。膝を折らなかったのは、俺の中に最後まで残っていた一欠片の負けん気、矜恃だっただろう。
もっとも、剣聖騎士団で矜恃がどれだけの意味を持つのか、わからなかった。
俺は今まで、ただの学生だった。
しかしここは、学生がいる場所ではない。
俺は本当の意味での、初心者、だった。初心者が矜恃を持つなど、ありえないだろう。
「不愉快な奴め。質問は一つと言った。私はそれに答えた。もう今日の問答は終わりだ。ルルド、こいつを幕舎に連れて行ってやれ」
了解です、と旗手が答える。彼の名前はルルドか。
去り際に、カスミーユは実に不穏なことを言った。
「訓練に乗り込んでくる程度のやる気があるのだ、尊重してやろう。明日からを楽しみにしておくといい」
颯爽と自分の馬に乗ると、彼女の部下たちも馬に乗り、騎馬隊は一団となって駆け去って行った。残されたのは俺とルルド、彼の馬だけだった。
「行こう」
不意なルルドの声の優しい口調に、正直、涙が出そうだった。
僕はいったい、何を期待していたんだろう。
何でこんなところへ来てしまったのだろうか。
どうやらもう、逃げることはできないようだった。
ルルドが馬を連れて夕日を背景にする幕舎へ進むのを、俺はとぼとぼとついて行った。
矜恃なんてもう、少しもなくなっていた。
俺は、無力だった。
学校に、戻りたい。そう真剣に思った。
(続く)




