1-2 初日
◆
僕は新たなる職場にして、新たなる世界、講師を務める塾へ向かっていた。
王都はいつかの友人との別れの日のように、気の早い冷気に覆われていた。上着を着てきたのは正解だった。つい数日前まで汗を掻くほどの残暑だったのだ。
ともかく、着古した上着の襟元を合わせて進む僕の足は、実にのどかなことにウキウキとしていた。
年をとった塾の経営者と、うだつの上がらない講師たち。きっとやんちゃな生徒たちが、大騒ぎしているんだろう。それでも僕は構わない。もう面倒ごととは無縁になり、生徒たちが羽目を外しすぎないように眺めていればいいのだ。
どうせ、どこの親も小さな塾での学習で子どもが飛躍的に賢くなるなどと、そんな夢を見ることもあるまい。
経営者に無能とみなされず、同僚から白い目で見られず、生徒からはほどほどに軽視される。
そう難しいことではない。そうだ、あの秘密の研究室で友人と必死になった日々と比べれば、全てが楽じゃないか。魔法学校高等科における日々よりも楽かもしれない。
ああ、全てが開けるって、心地いいものだな。
呑気にそう思っていた僕が足を止めたのは、まさに塾の入る建物が見え、その建物の前に三人の人物が突っ立っている光景に気付いた時だった。
揃いの緑色のローブを羽織っている。
いかにも、錬金術士、という感じだった。ただ、目立つ緑のローブは何かを象徴していたはずだけど、すぐには思い出せない。緑のローブを羽織る一派がいたような気がするが、どこの誰だったか。
足は自然と止まり、もうピクリとも動かなかった。
進んではいけない、と何かが警告している。
でも、と僕の一部が反論していた。仕事を初日からすっぽかすわけにもいかないだろう。やっと手に入れた安住の地なんだから。
それでも心のうちの警告はやまない。
進むべきか、退くべきか。立ち尽くしたまま、時間だけが過ぎていく。
どれくらいをそうしていたか、緑のローブの一人がこちらを振り向く。
視線を感じた瞬間、警告が正しいと確信できた。逃げるべきだ。今すぐ。遠くへ。
ああ、どうしてここに突っ立っていたんだ、僕は!
背を向けた。素早く、さりげなく、遅滞なく、鮮やかに。
同時に肩を掴まれた。驚きとともに振り向くと、すぐ背後に緑のローブの男が立っていた。
三人のうちの一人だが、いつの間に間合いを詰めたんだ? 二歩や三歩の距離じゃない、十歩でも足りないほどだ。
それを一瞬で詰める? 人間業じゃないぞ!
ともかく肩を掴む手を振りほどこうとした。いきなり肩が軋んだ。すごい握力でビクともしない。
見るまでもなく、男の手は僕の肩に食い込んでいるだろう。無理に振り払おうとしたら肩が壊れそうだった。
ただ肩を掴まれただけで、僕は完全に動きを制されている形だった。
改めて身を捻るようにして振り向くと、そこにいる人物はそれほど上背はない。小柄と言ってもいい。しかし肩のラインなどはがっしりとしており、力強い印象だ。
ローブをすっぽりかぶっているので顔は見えづらいが、視線は痛いほど強い。
「お前がイダサか?」
否定するべきか、それとも言葉を濁す余裕はあるのか、そもそも誤魔化しが許されるのか。
結局、僕は言葉を出せないまま、わずかに顎を引いた。
「改めて確認するが、イダサなんだな? 元錬金術士の、魔法使いだな?」
僕の素性を知っている。塾の建物で待ち構えていたのも、僕を待っていたのだ。
でも、何故?
ふと脳裏によぎったのは、錬金術士組合が秘密裏に運用する暗殺部隊がある、という噂だった。もちろん、僕はそんな連中と関わりはないし、そもそも実在を確かめてもいない。しかし、緑のローブは暗殺部隊の揃いの衣装だったりして……いやいや、そんなわけがない。目立ちすぎる。
「答えろ」
僕には思案する時間も与えられないらしい。
「そうです」
もう他にやりようがなかった。
正直に何もかも、打ち明けるしかないと覚悟した。
どうやら僕の人生はまた、道筋の変更を余儀なくされているともわかってきた。
何が起ころうと、飲み込むしかない。無念ながら。
「僕がイダサですよ。元錬金術士の、似非魔法使いのイダサです」
僕の自虐にも男は反応しなかった。頭に来たわけではないが、さっさと決着をつけたくなって僕はまくし立てた。
「もう放してもらっていいですか? 逃げませんから。肩が痛いんです」
やっと反応があった。男は僕の肩から手を離し、一歩下がってからローブの中から何か、紙のようなものを取り出した。しかし、その時にチラッと彼の腰に剣が下がっているのが見えてしまった。
剣で脅されなかっただけマシとするべきか、いつでも剣が抜かれる可能性があると覚悟するべきか、微妙なところだ。さらに言えば、わざと剣を見せられた可能性もある。言葉以上の、雄弁な恫喝として。
いずれにせよ、取り出されたのは紙、正真正銘の書類だった。まったく、安心する。ともかく書類には書類という意味しかなく、例えば殺傷性はなさそうだ。
受け取って、目を走らせて、しかし次には思わず声が漏れてしまった。
剣聖騎士団への召集状だった。署名は、剣聖リフヌガード。
それを見た時にやっと僕は思い出したのだから、どうかしている。
緑の装束で揃えている集団といえば、一つがすぐに思い浮かぶはずだった。
それは剣聖騎士団の一つ、緑の隊。
剣聖リフヌガードは、その緑の隊の隊長である。
「ついてくるな?」
男があまりにもあっさりと言う様子には、有無を言わせぬ迫力が逆に感じられた。
き、拒否できるわけがないじゃないか……。
「行きます」
それで良い、というように無言で頷いた男が歩き出した時には、他の二人も合流し、どうやら僕が心から望んでいた塾の仕事を、初日にして出勤もせずに辞める手続きは勝手に終わってしまったようだ。
あまりにも確信犯だった。
酷いほどの確信犯だ。
(続く)