1-5 講義
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さて、とクロエスが壁に掛けられている地図を前に、説明を始めた。
「まずここがカラ・カル島」
指差されたのは地図の下にある小さな丸だった。
「この北にある土地が、大陸と呼ばれるけど、まぁ、特に名前はない」
地図の真ん中にある大きな四角が大陸らしい。
クロエスの指が大陸が三つに塗り分けられているのを指でなぞる。
「南半分をおおよそ支配しているのが、ソダリア王国。正確にはソダリア王朝南方王国とか言うべきだ、と主張する一派もいるが、まぁ、ソダリア王国で通じる」
指が上へ。大陸の中西部の色の違うところを指差す。
「ここがダーモット商業国。これにもいろんな呼称があるけど、大抵の場では「商業国」と言えば通じる」
今度は指が右側へ。東部地方もまた色が違う。
「ここが汗国と呼ばれる国で、歴史は一番古いとする向きもある。東側がずっと海岸線で、航海術に長けているものが多い。海運業者も多いね。ちなみに有名な極東の国である「曙光国」はこの国から自治権を与えられている。それくらいは覚えている?」
椅子に座って講義を聞いていた僕は、首を左右に振った。何もかも、初めて聞くことだった。
僕の様子にちょっとがっかりした様子で、クロエスの指が大陸の一番北を指差す。
そこは色が塗られていない。
「この辺りは四つ目の国のようなものがあるけど、まとまってはいない。単に「北辺」と呼ぶことが多い。十六の氏族が協力したり争ったりして、この辺りに存在している」
「えっと、クロエス先生」
思わず敬称をつけてから、しまったかな、と思った。
でもクロエスの口元には穏やかな笑みがある。
「どうぞ」
「えっと、大陸の北にも海がありますけど、そのさらに北はどうなっているのですか?」
「滝になっている」
「えっ!」
「そんなバカなことはないよ。さすがにね」
顎を撫でながら、錬金術師は眼帯に覆われた目元を上へ向けるようなそぶりをした。
「冒険者たちが今も探索しているらしいが、帰ってくるものが極めて少ない。帰ってきたものも、全く別の土地があり、言葉が通じず、文化どころか食べ物さえも違う人間が住む、と言ったかと思うと、別のものは悪魔が住んでいたとか、仲間が悪魔に食われたとか、狂ったようにわめくこともあるようだよ」
「では、土地があるのですね」
「容易には辿り着けず、容易には戻れない土地がね」
僕はじっと壁の地図を見た。
僕は何も知らない。
目を覚まして三日が過ぎていた。食事の席でクロエスとベッテンコードとは顔を合わせるけど、他にいるのは人造人間の少女か少年だった。彼らだってよく観察すれば、ほんの四人しかいないと見て取れる。
その他に例外が一人いるけど、僕はその例外の人物とどう接するべきか、まだ迷っているところだった。
何はともあれ、僕の世界は、この屋敷と、七人の他人しか、まだ存在しない。
でも世界ははるかに広くて、きっと大勢の人間がいるんだろう。
どんな光景があるのだろうか。
どんな日々がそこでは送られているのか。
「いつか、きみは太陸へ渡ることになると思う」
僕はいつの間にかぼんやりしていたので、集中し直して、クロエスの顔を見た。
彼は心持ち真面目な顔つきで、しかしいかにも軽やかな口調で言う。
「ソダリア王国は今、四本の聖剣を手中に収めて、剣聖も四人、ちゃんと掌握している。表向きにはね。でも実際のところは、剣聖の一人が聖剣を持ち出して、行方知れずになっているってことになる。その剣聖がソダリア王国へ戻ることはないとなると、誰がその剣聖の扱う聖剣を手にするのかが、ちょっと個人の手にあまるほどの重大事となるわけだ」
「本当に……」
僕はずっと疑問に思っていたことを、クロエスに向けた。
実際にその問いを向けるべき相手はすぐそばに、別にいるのだけど。
「本当に、ベッテンコードさんが剣聖なのですか?」
僕の問いかけに、クロエスが惚けたような顔になり、面白い冗談を向けられたように声を上げて笑った。
「アルカディオ、きみのジョークはなかなか面白いな」
冗談ではないのだけどな……。
「でも、ベッテンコードさんは、かなり高齢ですし、その……」
「高齢だし、体躯も立派じゃないし、愛想も悪いし、無口だし、乱暴だし、そんなところ?」
「いえ、さすがにそこまでは……」
僕が言い淀むのに錬金術師は「言うべきことはちゃんと言うべきだよ」と楽しそうに言葉を向けてくる。
言うべき、というか、そこまでそもそも言っていない……。
悪びれた様子もなく、クロエスが説明を始めた。
「僕が大陸にいた時、あの人は確かに剣聖だった。王宮で話をしたこともある。ああ、懐かしいなぁ。過ぎ去ったあの日、何不自由ない王都の生活、着飾った美しい女性たち、死ぬまでに読み尽くせないほどの書物、日常の全てが輝いていたね」
急に過去を振り返り始めたクロエスに何も言えずにいると、彼は小声で「何も知らない学友、文句ばかりの教師、そしてくだらない法律」と今度は罵るように言葉を続け始めた。
僕が一言も言わないからだろう、すっとクロエスの面持ちが正気に戻った。
「ともかく、あの老人は剣聖で、きみにはその記憶と技能が刻み込まれている、はずだ」
はず……。
「では、ちょっと会いに行ってみよう」
クロエスが扉の方へ向かうので、僕は席を立って彼に続いた。講義の場所は書斎のようなところで地図がかかっている壁以外は、ぎっしりと書籍の詰まった本棚に囲まれている。扉の左右にも上にも、本棚が作られて、そこも無数の書籍で埋め尽くされている。
廊下に出て午後の日差しの差し込む中を歩きながら、クロエスは楽しげに鼻歌を歌っているけど、僕にはそんな余裕はない。
会いに行こうというのだから、相手は一人しかいない。
相手は、ベッテンコードなのだ。
あの老人はどこか、苦手だ。
(続く)