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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第一部 人形、剣、孤島
53/155

4-7 極致

     ◆


 どこまでも静けさが広がっていく。

 広い世界のほんの小さな点である、この二人の間にある空間は、どこよりも静謐で、無色透明だった。

 いくらでも剣が走る余地がある。

 それは風が吹くように、水が流れるように、炎が揺らめくように、どこまでも拡散し、全てを許容する余地だ。

 どう斬りこむこともできる。

 どう切り返すこともできる。

 僕はゆっくりと剣の構えを変えた。

 彼が顔をしかめる。彼。名前はなんだった? 思い出せない。

 どこから来た? 何をしに来た?

 全てがどうでもいいこと、瑣末なことだ。

 ここで今、二人は剣を向け合い、そこでは自然と命が賭けられている。

 自分の歩んできた道。

 自分が磨いた技。

 後に残してきた血と死の数。

 屍山血河を背景にしたもの同士の、地獄に住む者の戦い。

 どんな道も、技も、失ったものも、しかし今は何の意味もない。

 剣。

 ただ剣だけがある。

 僕はゆっくりと呼吸をし、剣をゆっくりと下げた。

 不意に、構えることが馬鹿馬鹿しくなったのは、何故だろう。

 この剣のことを、僕は全て理解していた。

 切っ先が地面を向いていても、切れる。

 そう。

 切れるのだ。

 来い。

 血の花を咲かせる時がきた。

 新しい屍を、また一つ、この世界に刻む時だ。

 僕の一歩は、ささやかなものだ。

 でもこの一歩で、決着する。

 目の前にいる男が踏み込んでくる。

 猛然と、果敢に。

 殺意と、恐慌の中で。

 何故、それほど恐れる?

 僕は剣をゆっくりと頭上へ振り上げるだけでいい。

 人を殺すのに十分な切れ味の刃が、交錯する。

 僕も自然と前に出たので、二人は、しかし触れ合うことなくすれ違った。

 ゆっくりと振り返った僕は、気づくと笑みを浮かべていた。

 頭にあるのは、感謝、だった。

 今はもういない師、この世界から消えてしまった老人と、その記憶と技能に感謝した。

 肩が震える。

 僕は一歩を踏み出せたのだ。

 ベッテンコードという剣聖の技の先へ、確かに今、僕は踏み出した。

 僕の前には、男が直立し、ゆっくりと振り返る。

 何も変化はない。ただ目が見開かれている。

 彼の額、眉間にうすらと赤い線が滲み、そこから血の滴が鼻先へ流れていく。

 弾けるように血が噴き出すが、彼はよろめくだけ。

 死んではいない。

 殺してはいない。

 僕がそれを選んだからだ。選べたからだ。

 僕はまだ名前を思い出せない相手に、声をかけた。

「まだ続けますか?」

 男の顔はもう額から流れる血で真っ赤だった。その赤の中で、戦慄く口元から覗く白い歯がいやに目立つ。

 彼は緩慢な動作で額に触れ、その手を凝視し、そして僕を見遣った。

 何が起こったか、理解が追いついてきたのが彼の瞳の光でわかる。

 彼は僕に完敗を喫して、その上で命を助けられた。

 勝利した僕はといえば、剣をまだ手に提げたまま、突っ立っているのだから、見る者からすれば滑稽だっただろう。ああ、周りに人が大勢いるじゃないか。今まで、全く気づかなかった。

「まだやりますか?」

 もう一度、言葉を向けた時、男は片手に持っていた剣を取り落とし、ギクシャクとした動作で膝を折った。彼の額から流れ続ける血が、うつむいた顔から地面にぼたぼたと落ちるのが、まるで赤い花弁が散るようだった。

「失礼いたしました。ご無礼を、お許しください」

 かわいそうになるほど、彼は怯えていた。

 もしかしたら彼は二度と剣を振れないのではないか、と思ったけれど、それは僕の問題ではなかった。剣士なのだ、命を取るのも取られるのも、避けては通れない道だ。彼は今、命を取られることなく、しかし命を取られる以上のものをその身に受けた。

 命を失った方が楽だった、と思うかもしれない。

 剣を置いても、彼はたった今の、計り知れない恐怖を思い出して冷や汗をかき、体の芯から震えるかもしれない。

 僕が彼を切りつけたからだ。

 でも僕にはそれを恥じ入る権利がない。

 剣を取るものは、常に何かを傷つけ、奪い、粉砕して、それらを決して顧みないものなのだから。

 それが約束、絶対だ。

 剣を取るということこそが約束であり、絶望を与えることを背負う誓約。

 僕はずっと昔、そう決めた。

 まだベッテンコードと呼ばれた時に。

 それからきっと今、改めて全てを背負ったことになる。

 アルカディオという一人の剣士として。

 男はまだ頭を下げている。そうか、僕が彼を切り殺すつもりだと思っているのだ。

 僕はそっと左手を鞘に添え、刃を鞘の中に滑り込ませた。

「あなたを殺すつもりはありませんが、事情を説明させてください」

 そう言ってから、彼の肩が激しく震えているのに気づいた。参ったな、と思って周囲を見ると、三人の黒装束の男が倒れていて、すぐそばにアールとリコがいる。

 アールもリコも、真っ青な顔をして僕を見ていた。

 なんて言えばいいのかな、こういう時。

 沈黙。見物人たちも、動こうとしない。

「ちょっと失礼、道を開けておくれ」

 急に場違いな柔らかい声がして、周囲を囲んでいた人々の群れの一部が割れると、ローブを羽織った人物が進み出てきた。

 クロエスだった。

 彼はゆっくりとした歩調でまだ平伏している男のそばに屈み込むと、優しく声をかけた。

「私の方からも説明させていただきます。その前に傷を」

 クロエスが布を手渡すと、男はぎこちない動作で受け取り、額を押さえた。

 男の様子に頷いたクロエスが視線を周囲に配る。

「リコ殿、一緒に来てもらえるかな。アールくんはその三人を、宿で面倒を見てもらうように話をつけてくれ」

 わかりました、とリコが頷いてクロエスに歩み寄り、アールはやっといつも通りのふてぶてしい顔になると「力仕事ですな、俺には不似合いな」と文句を言ってから、寝かされている三人の方へ行った。

 クロエスの顔が僕の方に向く。

「アルカディオ」

 はい、と答えた僕の声は、変に掠れて、老人のようだった。

「立派になったな。よく殺さずに済ませたものだ」

 僕はどう答えるべきか、少し迷い、やっと言葉にした。

「ベッテンコード先生が力を貸してくださいました」

 よろしい、とクロエスが頷いた時には男はリコの手も借りながら立ち上がり、そして歩き出している。後に残された血痕だけが、決闘の名残だった。

 クロエス、リコ、名前を失念した剣士が歩いて行く後ろ姿を見てから、僕は地面に散る複雑な血液の文様を改めて見た。そしてなんとなく、自分の手に視線を落とした。

 僕の手もまた、血に塗れたのだ。

 死ではなくとも、血は血であり、死の一部だろう。

 不意にクロエスが振り返る。離れているが、彼の口元には穏やかな笑み。

 ほら、アルカディオ、一緒に来なよ。

 彼の言葉に僕は一度、深く頷いて歩き出した。

 体はいつになく軽かったけれど、心にはどこか、苦いものが広がっていた。



(続く)

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