4-1 時が来た
第四章 少年の羽ばたき
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明け方まで、僕たちは一睡もせず食堂にいた。
僕たち、というのはベッテンコードの部屋から戻った僕と、リコ、そしてアールだ。クロエスは眠り続けている。僕が布団を用意したので、クロエスは食堂の床の上に敷かれた布団の上に横たわっている。
サリースリーは戻ってこなかった。
クロエスはいずれは回復するだろうけど、もしもの時のためにこうして三人が顔を合わせているわけだ。アールは退屈しのぎにリコにあれこれと言葉を向け、リコは丁寧に、一分の隙もなく無視していた。
「別にもう悪さはしないよ。する理由がない。謝罪するし、それで足りないなら銀を置いていく。それでこの縄を解いてくれよ」
リコは徹底した無視。僕はそのリコを見習うことにした。
ベッテンコードの部屋を出てから僕は自分の部屋に聖剣を置いて、食堂へ戻ったのだけど、リコはその時に「ベッテンコード様は?」とだけ訊ねてきた。僕が「部屋で休んでいるよ」と答えると頷いて、それきり口を閉ざした。アールが詮索を始めたこともあるけど、リコの内心は僕には読めなかった。
窓の外が少しずつ明るくなり、鳥の鳴き声も聞こえてくる。
呻き声がして、この時ばかりはアールも黙った。
僕とリコが覗き込んでいる目と鼻の先で、クロエスの口が開き、細く息が吐かれた。
目元はまだ眼帯に覆われているので、意識が戻ったのか、すぐにはリコはもちろん、僕にもわからなかった。
「どうやら」
クロエスが声を発する。状況に不似合いな、のほほんとした声だった。
「心配をかけたようだね」
まるで普通に睡眠から覚めたが如く、ゆっくりとクロエスが起き上がり、周囲を見るようなそぶりをしてから、アールの方に顔を向けて停止した。
「なかなか、痛烈な毒だったよ、アールくん」
「いや、ははは、それは、勘違いですよ」
うろたえるアールに、どうだろうな、と応じながらクロエスは危なげなく立ち上がり、そしてリコを見た。リコはこの時も膝を折ったままだった。
「きみを疑って悪かった、リコ殿。薬を飲むべきだったよ」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
深くリコが頭を下げる。
「はっきりと毒薬の存在を伝えるべきでありました」
「どうしてアールくんが毒を仕込むとわかった?」
それは僕も謎だった。どうしてリコはアールの毒に気づいたのだろう。
「それは、匂いです」
匂い? これには僕は思わずアールの方に視線を向けてしまった。そのアールはバツが悪そうにしている。
淡々とリコが説明した。
「一部の無味無臭の毒を得るために、野に生える特定の毒草を煮立てる手法があります。毒草を煮た汁をこしたり、上澄みをすくったりしていくうちに、味も匂いもしない毒薬ができるのですが、この毒草を煮る時に独特の匂いがするのです」
「へえ、知らなかった」
素直に驚きを口にしたクロエスが、アールの方に向き直る。
「でもアールくん、どうして現場で毒を調達した?」
ちょっと沈黙してから、ボソッとアールが答えた。
「人数分の手持ちがなったんだよ。それだけだ。あと、次の仕事のために在庫が欲しかった」
「ここでのんびり暮らすんじゃなかったのですか、アール」
リコが追及すると、アールは唇を尖らせて顔を背けた。
とりなしたのはクロエスだった。
「まあまあ、リコ殿、この通り、僕は無事なのだし、あまり彼を責めるのもやめておこう。ただ罰は受けてもらわないとね」
一瞬でアールの顔から血の気が引いたが、彼にとって幸か不幸か、話題は別の方向へ移った。リコがアールとは無関係な問いかけを投げたからだ。
「クロエス様は、ベッテンコード様を匿っておいでなのですね」
リコの言葉に、ちょっと口を開けて固まったあと、クロエスは頬を指で掻いた。
「匿っているというか、協力しているというか」
「咎めるつもりはございません。私も他言は致しません」
「そうしてもらえると助かるよ。アルカディオ、もしかしてベッテンコードさんが気づいたのかな? ここにはいないようだけど」
急に僕に質問が向いたので、答えが用意できていなかった。
「昨日の夜、ここへ来たのです。それで少し、剣を合わせて……、今は部屋におられると思います」
「その様子だと何かあったね。良いだろう、歩きながら話を聞こう。リコ殿、アールくんを見張っていてもらえるかな」
承知しました、とリコが力強く頷いた。
危なげなく足を送り始めたクロエスに安堵して、そのまま食堂を出て一緒に廊下を歩きながら僕は昨夜のことを話した。
聖剣についても触れたけど、クロエスは特に驚かなかった。
「おおよそはベッテンコードさんの思惑通り、だね」
そんな評価をしていた。
尖塔の下の螺旋階段を上っていく。途中で人造人間がまだ座り込んでいるのを、クロエスが何かするとびくりとその体に震えが走り、人造人間が緩慢にクロエスの方へ顔を上げた。僕には聞こえない言葉で何か囁くと、人造人間は確かな足取りで階段を降りて行ってしまった。
「アールくんも抜かりないな。しかし人造人間を殺さずに眠らせて済ませる辺り、善意がまったくないわけではないらしい」
軽い口調で冗談めかして言いながら、クロエスはさらに階段を上っていき、たどり着いた扉を控えめに叩く。
「ベッテンコードさん。クロエスです。起きていますか?」
返事はない。
クロエスが扉を開き、中へ踏み込み、そして唐突に足を止めた。
僕にはクロエスの背中しか見えず、そのクロエスの背中が強張っているのに遅れて気づいた。
一歩、二歩とクロエスが寝台に近づき、寝台のそばで膝を折る。
そうしてやっと僕にはもそれが見えた。
寝台の上ではベッテンコードが横になっている。表情は眠っているのと変わらない。
そのはずなのに、眠りではない何かが、その表情から、体から、感じ取れた。
老人の首筋にクロエスの手が当てられ、その手は次に口と鼻の前に移動した。
そうしてから、クロエスは立ち上がり、しばらく黙っていた。
僕も、さすがにもう気づいていた。
これからクロエスが何を言うのか。
ベッテンコードの身に何が起きたのか。
全て、わかっていた。
「亡くなられたよ」
クロエスがそう言ったことで、僕は自分の考えを否定しようとした思考は、ついに無意味になった。
僕は気づくと俯いていて、視界が滲み、涙を流していた。
昨夜が、僕とベッテンコードが話した最後になった。
もしかしたら彼は、自分の最期を予期していたのか。
だから僕を試し、直接、聖剣を引き継がせたのか。
参ったな、というクロエスの声が聞こえる。
僕は目元を拭い、それでも溢れる涙を、また拭った。
(続く)