3-14 立ち合い
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外へ出ると、急に強い風が吹いた。
すっかり赤くなった僕の髪の毛をなぶった風は、即座に何処かへ消え去った。
月光の下にベッテンコードが立っている。
静かだ。
呼吸する音、胸の鼓動さえもが聞こえてくるような、本当の静寂の中に老人は立っていた。
この凪いだような静けさを乱すことが躊躇われた。
この一瞬、刹那だけの光景を、僕は胸に刻みつけるように、じっと凝視していた。
それも短い時間のことだ。
ベッテンコードが振り返り、かすかに笑った。口元で歯が小さく光る。
「わしが寝ている間に、季節が変わったようだな」
その言葉はまるでそよ風で、空気を伝わってくるとは思えないほど、澄んでいた。
この老人が今まで僕に見せたことのない態度だ。
苛立ちも、怒りも、何もない。
感情の波が極端に平らになり、それはまるで研ぎ澄まされた刃を思い起こさせる。
これから始まることを、僕は予感せずにはいられなかった。
その予感は、剣を持ってこいと告げられるよりも明確で、現実的だった。
ゆっくりと僕が歩を進めるとベッテンコードは緩慢な動作で自分の剣を抜いた。
彼が眠っている間、誰も手入れをしなかったはずのその剣は、しかしまるでそうとは思わせない美しい輝きを帯びていた。
「剣を抜け、アルカディオ」
僕は足を止め、腰の左側にある剣の鞘に左手をそっと添えた。
右手は柄に。
ベッテンコードが構える。上段。
僕はまだ剣を抜いていない。
想像する。そして幻視する。
ベッテンコードとの間合い、斬撃が僕を捉える間合い。
刃が走る無数の軌道には、足の送りによる変化も加味する。
結論として、ベッテンコードは僕を切ろうと思えば、即座に切れる。
彼にはそれだけの技量があるのは間違いない。数ヶ月、寝たきりだったとしても、彼には僕を殺すのに十分な力量があった。究極まで突き詰めれば、技とは、弱いものが強いものを倒すためにあるのだから。
僕の技がベッテンコードのそれに追いつくことはない。
記憶の継承、技能の継承ができても、僕は僕だった。
記憶があろうと、そこに技能の情報が加わろうと、僕だった。
じりっとベッテンコードの靴が地面を擦る。間合いに変化が生じ、同時に彼の踏み込める範囲にも変化が起こる。
僕も小さく、足の位置を変える。
剣を抜く時機ではない。
剣を抜けば、先を読まれる。最初の振りから次の振り、次の振りから次の次の振りと、読まれ続けて、やがてはベッテンコードの思惑にはまる。
それなら鞘からの抜き打ちに全てを賭けるべきだろうという判断。
二人が少しずつ間合いを変える中で、自然、わずかに円を描くように二人ともが移動する形になった。
「剣を抜け、アルカディオ」
こんな場面でも、ベッテンコードは今日は声を荒げたりしない。
淡々とした声に含まれる威圧に、僕はじっと耐えた。
駆け引きだ。
しかしどうしたら勝てる? そもそも勝てるのか?
ベッテンコードを切ればいい。
しかし切ってしまっては、ベッテンコードは死んでしまう。
切らずに勝つ。
どうやって?
不意にベッテンコードが滑るように間合いを消した。
くそっ、思考に迷いがあるのを読まれたか。
半身になり、体を傾げて斬撃を避ける。続く攻撃も転がって下がって回避。
地面を蹴りつけ、三連続攻撃の最後を避け、それでまた向かい合う形になった。
「逃げ足は十分だな」
いつもなら皮肉げで、刺々しいはずのベッテンコードの声は、どこまで平板。
いつもとは違う。
どうやらベッテンコードは本気らしい。
本気で僕を切りに来ているのだ。
剣の柄を握り直す。何度も振った剣の感触が、少しだけ僕を落ち着かせる。
切らずに勝つ。
ベッテンコードから剣を奪う。不可能。組み打ちで確実に勝てる確信はない。
腕を切り飛ばす。そんな器用なことができるか。関節を狙って腕を振れなくする。そこまで精密な攻撃は不可能。そもそも的が小さすぎる。そんなところを狙いに行けば、逆襲さえるのは必定。
鞘に添えたままの左手の位置を決める。
できることは一つしかない。
成功すればそれでいい。
失敗すれば、あるいは僕が死ぬかもしれない。
いい気分ではないし、ベッテンコードは失望するだろう。
僕は自分が死ぬことよりも、ベッテンコードを失望させることの方が、怖かった。
証明すること。
僕の技。僕の剣。
僕が僕であることを。
間合いは知りすぎるほどに知っている。
自分の体も、剣も、知っている。
呼吸を読め。
冷たい夜の空気の流れが全て、頭に入ってくる。
今、風が吹く。
その風に乗るイメージ。
吹いた。
僕は間合いを消した。
どうやって悟ったのか、瞬き一つどころか、まつ毛が震えるほどの間も置かず、ベッテンコードが突っ込んでくる。
間合いは十分にあったが、まるで最初からなかったかのように、消えた。
二振りの剣が交錯し。
甲高い音を立てて、折れた剣が宙に舞った。
僕の剣が引きつけられ、次にはベッテンコードの首を飛ばす寸前で停止する。
遅れて館の壁にぶつかったのは、僕が叩き折ったベッテンコードの剣だった。
老人は瞠目するでもなく、冷静な、いや、冷徹な眼差しで目の前にいる僕を見据えていた。
「何故、剣を狙う? わしを殺せたはずだ」
少しだけベッテンコードの口調にはいつもの調子が戻ってきた。常に何かに腹を立てていて、イライラしている、そっけなく、乱暴な、粗暴な老人の顔も戻ってきた。
「ベッテンコード先生に勝つ、唯一の方法でした」
「これで勝ったと言えるのか? わしはまだ生きているぞ」
「その剣では戦えません」
ちらっとベッテンコードが自分の片手が握る剣を見た。刃は柄に近い位置で折れている。残っている刃渡は小指程度しかない。
「これでも戦えるさ」
強がりではないとわかったので、僕は笑うことはできなかった。
「無駄な戦いです」
「お前から剣を奪えば、わしの勝ちになるな」
「無駄な危険です」
困ったものだ、と息を吐きながらかすかな声でベッテンコードは言った。
その言葉の余韻が夜気に溶けて、完全に消えてから、彼は持っていた剣だったものを投げ捨てた。
「良いだろう。合格だ」
「ありがとうございます」
礼を言ったのは、認めてくれたということより、勝負を諦めてくれたから口をついて出た言葉だった。もしここからベッテンコードが僕から剣を奪おうとしたり、折れた剣で戦いを継続されると、僕としては非常に困った事態になるところだった。
ホッとしている僕を睨みつけ、ベッテンコードは「ついてこい」と顎をしゃくった。その動作で、危うく突きつけたままだった僕の剣が彼の首筋を抉りそうになった。
ゆっくりと剣を引いて、鞘に戻す。
鞘に収まった剣にも感情があるような気がして、剣そのものがどこか僕以上に安堵しているような錯覚があった。
(続く)




